絆の森
<第五話 舞台へ誘う声 〜Lance〜 1>

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 先程から彼を違和感が襲っていた。
 いや、今に始まったことではない。過去にも何度か同じ経験があった。
 魔の森と呼ばれる、この大樹海で生活をし始めた頃から、幾度となく。


 闇の中でも映える髪は翡翠。強い光を放つ瞳も同様だ。
 年の頃は十代後半。健康的な血色の良い肌が彩る精悍な顔には、まだ若干の幼さが残っていた。
 彼は灰色のコートを着ていた。少々だらしない様子で、前を留めていなかった。裾から覗くのは薄着の服。腰には太いベルトが巻かれている。そこに短刀が吊られていた。
 彼は恨めしそうに、落下してきた場所を見上げていた。
 暗くて材質の分からない壁に手をかけ、よじ登ろうと何度か試みた。しかし壁は整備されていて、掴まれるところは殆どない。綺麗に研磨されているため、虚しく素手が滑るだけだ。
 顎を引いて、目線を元に戻す。上を仰いでいたせいで首が随分軋んだ。
 仕方がない、と溜息を吐いて彼は道を進み始めた。

 暗闇は深く続いていたが、慣れてしまった目では辺りを窺えることができた。
 上の階層の通路と似たような造りだが、壁や床の材質は明らかに違っている。今進んでいる地下の方がより強固な物だった。
 天井には何かの呪文の言霊が、精密に彫られている。どうやら先日見かけた小人文字のようだ。
 随分遠くにあるはずの入り口から、吹き込む風の鳴き声が小さく響く。空気の振動だけが、彼の隣を駆け抜けていった。
 遠くまで来てしまったのだと、彼は感傷的になった。

 一人きりで行動するのは久しぶりだった。
 森にやって来てから何かと世話を焼いてくれる少女らが、今はいない。二人の笑顔が脳裏に浮かぶ。
 たった数時間前の出来事。それが遠い日の思い出のように思えた。



「ランス! ここにいたの」
「クゥナ」
 彼、ランスは木々の合間から聞こえた声に応答した。
 声の方向からは、透明な羽をもつ小さな少女が飛んできた。まるで童話から抜け出したような愛らしいその姿は、森の民である妖精だ。

 ランスとクゥナが現在いる場所には遺跡があった。
 妖精達が神様と呼ぶ石像が、門前に建つ神殿。所々崩れている奥の祭壇には、地下へと続く入り口がある。その暗い地下道は南へと長く伸びていた。大樹海と呼ばれるこの森の始まりの地、南の原野の方向へと。
 先日この小人族が建てたと言われる遺跡を見つけたランスは、ここで何かを感じ取っていた。それを確かめようと中へ進入したが、思わぬアクシデントに遭遇したため肝心なことは何もしていない。
 そこでランスは再びこの地へ赴いのだ。

「この辺りに初めて来た日、覚えているかい。ドゥライセンが途中で立ち止まったこと」
 ドゥライセンとは白い毛並みの獣で、森を目まぐるしく移動するランスの手助けをしてくれている。勿論、人間の言葉は分からない。
 しかしランスは違った。彼には木々のざわめきも、鳥の歌声も、川のせせらぎも、動物の鳴き声も、森の民の言葉の全て理解ができていた。
 樹海に来てから自分は不思議な力が備わったのか、元からの能力なのか。
 自分の誕生日すら知らないランスにとっては、目の当たりにする事実を受け入れるしかなかった。
「もしかして彼にも神様の声が聞こえたのかしら?」
 クゥナは考え込むように首を傾げた。

 ランスが聞いたのは、声にならない叫びだった。
 森の民の神様――大樹海に眠る大いなる意思らしきものが、何かを言っていたようにランスは感じていた。
 あれは確かに誰かを呼んでいる声だった。痛々しいほど切実に。

 石像に触れた時のことを思い出しながら、ランスは少女へと振り向いた。
「俺は一人で行くよ。前みたいになったら困るだろう?」
 当たり前のように放たれた言葉にクゥナは驚いた。
 ランスが森にやってきてから随分経つ。しかしクゥナと、その双子であるもう一人の妖精カイナは彼と常に一緒に生活していた。
 だから彼女としては、何故共に行動しないのか不思議でならなかった。
「俺さ、まだ君たちに話していないこといっぱいあるんだ。声を確かめることと、俺が俺自身と向き合うこと。何かしら繋がっているように思える。帰ってきたら――長くなるけれど色々話す。だから、待っていてほしい」
 少年は力強い眼差しだった。光に透ける色彩の瞳は、内に秘める思いすら曝け出してしまいたくなるような不思議な精彩を放っていた。

 しばらく黙ってランスの言葉に耳を傾けていたクゥナは、静かに溜息のような声を漏らした。
「……行きなよ。ただし! 今日の晩御飯は、茸のシチューを作りなさいよ!」
 人差し指を前へ出し、彼女は言った。強気な瞳が真っ直ぐとランスに向けられた。
 二人はしばらく無言で視線を交わしていたが、急に噴き出した。
 相変わらずなランス。相変わらずなクゥナ。それぞれがいつもと何ら変わらないことに安堵したのかおかしかったのか、顔を見合わせて笑い合った。

 そうして彼は遺跡の中へと姿を消した。一片の曇りもない透き通る翡翠には、迷いなど映されていなかった。
 クゥナはずっと見送っていた。少年の背が闇に包まれたあとも手を振り続けた。それはまるで兵士を戦地に送り出すような仕草だったが、彼女は必ず帰ってくると信じた。
 何があっても、きっとランスは戻ってくると。
「約束は守る人ですわ。大丈夫」
 林の中から様子を窺っていたのか、一人の妖精がゆっくりとクゥナに近づいてきた。こちらは赤褐色の長い髪を無造作に流していた。
「カイナ?」
 呼びかけても、それっきりカイナは何も言わなかった。
 思いがけずに風が鳴いた。木の葉は揺すり合い、幾度となくざわめく。
 二人は石像の建てられている台座の上に降り立ち、遺跡の入り口を見た。
 いつまでも、いつまでも、見つめていた。


 前に開いた石碑の扉を潜り、壁伝いにランスは歩いていた。
 今回は灯りになるような物を彼は持っていなかった。一度は訪れたこともあってか、それほどの危惧はしていないのだ。
 少し注意力が散漫しているという自覚はあったが、それでもランスは何か得体の知れない衝動に駆られてこの地に急いだ。
 今も尚、その焦燥感は耐えない。暗くて足元が不安定でも、彼は決して足運びを緩めることはなかった。

 やがて黄金が眠る広間までやって来たランスは、辺りの気配に意識を集中させた。
 前回はここで一悶着あったわけだが、今は元の静寂に満ちていた。
 出会った不思議な男のことを思い出しながら、ランスはゆっくりと瞼を閉じようとした。
 その刹那、鈍い音が響いた。
 慌てて下を見れば、削りだされた石で作られていた床が急に抜けていた。長い間老朽化が進み、ついに重みに耐え切れなくなったのだろうか。
 叫ぶ暇もなく、ランスはさらに下層へと落ちていった。



 現在に至るまでのことを思い返していると、ランスは突然足を止めた。
 道は行き止まりとなっていた。
 そこは上の階と似たような造りの広場だった。天井は丸くなっている。天球を表せているのだろうか、所々に星座が描かれていた。暗くてしっかりと確認はできないが、青系の顔料で塗装されているようだった。
 首を巡らせていたランスは、一番奥の壁に窪みがあることに気付いた。
 近づいてみると、それは顔より一回り大きなものだった。窪みの縁にはやはりレリーフが施されていた。
 枝を持つ羽ある少女。槌を携える小人。珊瑚をかざす人魚。大勢の人の姿。中央には憂いめいた表情の青年が、大切そうに天秤を支えている。訴えるような視線が胸に突き刺さった。
「この間の、二人が話してくれた物語の天秤かな?」
 指でなぞりながら辿っていけば、不審な盛り上がりが見つかった。
 誘われるがまま、思わずそれを押す。
 すると仕掛けが動いたのか、鈍い作動音がした。入り口はゆっくりと閉ざされていく。ここに祀られているものを移動させないためだろう。手の込んだからくりのようだ。

 扉が隙間なく閉ざされたあと、部屋の中央に台座がせり上がってきた。
 磨かれた大理石の上に、王者の如く君臨するものは何か。
 ランスは睨むように台上を見た。
 現れたのは、一目では何か判別がつかない物だった。
 飾られた燭台と言えばよいのだろうか。下部は安定した平たい足で、上部には尖った針のようなものが揺れている。
 色々な用途を想像するが、どれもしっくりこない。初めて見たもののはずなのに。
 それに触れてみようと、ランスが手を伸ばした。




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