絆の森
<インテルメッゾ 空と大地の狭間にて>

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 見事な紅い空が広がる時刻。
 緑の海の真ん中に、ぽつんと佇む一人の影があった。
 それは長身の男だった。
 髪は無造作に麻紐で結ばれている。強い日差しに透ける髪は赤く染まり、本来の色を分からなくしていた。
 彼は細い背中に太陽を背負い、瞬きもせずに北の方角を見つめていた。風が冷たく吹きつけても、一向に閉じる気配は無い。

 時折、黒く大きな影が男の上を通り過ぎた。
 尾だけが白い猛禽類。くちばしは鋭く曲がり、巨大な翼が波をたてる。
 樹海はざわめき、色の変わった木の葉がいくつも飛び散った。強い突風が過ぎ去ると、舞い上がった枯葉は再び地上へ向かって飛来していった。

 時間によって日差しの角度は変化していく。
 世界は刻々と変化していくのに、その男の周りだけは時が止まったかのように静まり返っていた。
 流される髪も揺れる服の裾も、確かに現実の物だというのに、彼の纏う空気はまるで湿っぽい日陰のように涼やかだった。
 まだ若いと言い切れるだろう風貌をしているのに、男は死期を悟った老人のように疲れたような表情を浮かべている。穏やかにも無表情にも見える精悍な顔立ちは、微かな憂いを垣間見せていた。

 やがて、辺りも静まり返った。
 風が止み、空を舞う生物の姿も見えなくなる。
 真っ直ぐ北を見定めていた男は、不意に瞼を下ろして自嘲めいた笑みを浮かべる。

 ――まるで世界中の音が止んだようだ。


 この時間帯は、一日において一番独特で幻想的な風景だと彼は思っていた。
 閃く斜陽が大地を染め上げ、壮大な自然を黄昏色に包む。感嘆とした息しか漏れない、生命の大きさが感じられた。
 そんな輝く西日とは別に、徐々に暗くなりゆく東側にも趣があった。
 藍染された夜の帳。ゆっくりと忍び寄る、安らぎと危うさをもつ夜。白くぼんやりと描かれた月は、日によって様々な顔を見せた。暗闇に閉ざされる世界はどこか哀愁が漂い、そして優しくもあった。

「夕刻は死を示し、それは再生に繋がる」
 ふいに脳裏に走った衝動に従い、彼は呟いていた。
 もう誰が言ったのかも思い出せなくなったが、この言葉が彼は好きだった。
 どんなに恐れることがあっても明日は来るのだと。どれほどの悲しみがあったとしても、人は癒されるものなのだと。

 ふと、彼は自分を兄と慕っていた少年の笑顔を思い浮かべた。
 喚いたり悔しがっていたり。自分とは違い、感情豊かな優しい子供。苛められて泣いたと思えば、すぐに機嫌を直していた弟。
 彼も自分も一度は絶望の淵に立たされていながら、再び歩き出すことを決めた。
 あたかも、沈んでは昇る太陽のように。

「ねえ」
 呼びかけられて、男はゆっくりと西日の方を向いた。
 逆光でよく見えなかったが、そこには小さな少女がいた。
「寒くなるから、下に降りてきなよ」
 少し他人行儀のような言い回しで、高めの声は手招きした。けれど言葉の端々には気遣いが見え隠れしている。
 それをしっている男は僅かに逡巡した後、やんわりと断った。
「大丈夫だ。もう少し、見ていたい」
 低くも高くもない声で、男は噤むように喋った。表情に変化はなかったが、少女は彼が笑っているように見えた。


 彼は腕を宙に伸ばし、何かを待っている。
 しばらくすると影がかかる。先程彼の頭上を通り過ぎた鳥類よりもかなり小さかったが、やはり大きいと表現すべき猛禽類が彼の腕に留まった。
 その鳥は左右の目の色が違っていた。右目は森のような緑、左目は闇のような黒。艶やかに光る二つの瞳は、無垢な眼差しで男を見つめた。
「貴方達が愛した森は本当に美しい」
 鳥の喉を軽く撫で、男はひっそりと呟いた。
 陽光によって色が定かではない彼の両目が、一面の大樹海を眺める。
 フェアリーオレンジに照らされる、悠久なる緑の大地。優しくも残酷な迷いの森は、彼にとって守るべき場所であり、今では帰る家でもあった。

 緩やかに笑んだ彼を見て、鳥は嬉しそうに喉を鳴らして羽ばたいた。羽毛が舞い上がる。
 男は視線を上げ、抜けた羽の向こう側に眩しい夕陽を見た。
「本当……綺麗だな、ランス」
 懐かしげな声音で呟いた男は、自らの腕の上で静かにしている猛禽類を横目で見る。
 そして勢いよく宙へと放った。
 朱色の空と碧緑の大地の間を、翼を広げた鳥が滑るように飛んでいく。




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