絆の森
<第四話 あの日のこと・3>

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 再び、夜が明けた。
 牢屋に入ってから三度目の朝だ。
 立ち上げれば昇りかけの太陽が草原の絨毯を黄色く照らしている。

 なかなか寝付けなかった俺はすることもなく、狭い部屋で体を動かした。特に足は使っていないため硬くなっていた。きちんとほぐしておかないと、樹海までの長い距離を歩けなくなる。
 苦笑が顔に浮かぶ。
 認めたくない厳罰をいつのまにか自ら受け入れている。あれほど悔しかったはずなのに、今の俺は安穏な日常を過ごしていたときと同じだ。
 決して、魔の森で生きていける自信があったわけではない。
 ただはっきりと言えば、三日前とは正反対の思いが胸にあるのだ。大切なものを失ったと気落ちばかりしていたが、裏を返せば失うものは無いということではないか。

 窓を見やれば輝きの至宝はすでに全身を曝け出していた。
 日の出と日の入りは、東と西が地平線のユニステでは観光名物とまでなっている。美しい景観を思い出に留めるべく、多くの人々が国に訪れていた。
 生まれて間もなくこの国にやって来た俺にとっては、珍しくもない平凡な眺めだったが、こんなにまで真剣に見たのは初めてだろう。
 鬱蒼とした森に入ってしまえば、地平線はおろか太陽の姿すら拝めない。
 名残惜しい気持ちを押さえつけながら、じっと遠い恒星を碧眼に映しこむ。
 せめて感慨に浸れるようにと瞳に焼き付けた。


 一日二食の牢獄暮らしも今朝で終わる。
 いつもどおりに配膳口は開かれ、最後の朝食が差し出された。
 今朝の兵士は、昨日や一昨日の男とは異なっていた。きっちりと着込まれた制服の刺繍を無意識的に見ようとすれば、さりげなく腕を組まれて隠された。表情は深く被られた兜によって窺えない。
 僅かに覗く鼻筋や口元から察するには、自分よりいくつか年上の若い男だろう。
 剣呑な気配に臆することなく話しかけてきた兵士達とは違う。兜の向こうには冷徹な双眸が睨んでいるのだろう。
 まるで銃を突きつけた、あの人のように冷たい態度で。
 俺は黙って食器を持ち上げた。黙々とスプーンを口に運ぶ。無機質な金属音が響いた。
 その間、男からの視線は真っ直ぐで揺るぎなかった。

 食事を終えると男はひったくるように盆を掴み、奥へと歩いていってしまった。
 呆気に取られた俺は檻に近づき廊下の奥を見た。
 そこは配膳された食器を返す場所のようだった。鎧を鳴らして男は屈む。返却用の棚にはすでに数点の食器が置いてあった。いずれも使用された形跡がある。他の囚人達が使ったのだろう。それらを動かさぬように慎重に盆を下ろしていった。

「坊主。何、見物している」
 引き返してきた男は椅子に腰を落とした。立っているのが辛かったらしい。大きい音がたった。
「楽しいか? それともまだ、腹、減っているのか?」
 言葉の接続が独特のイントネーションで、兵士は喋った。
 意外なほど高めの声は、成人男性にしてはおかしいと気付く。いくらなんでも声変わりは終えているはずだ。地声でここまで高音域を出せるものだろうか。
「あんたは女なのか?」
 質問を無視した回答に、男は驚いたようだった。
 しばらく辺りを見回し、挙動不審な様子が続いた。
 急かす義理もないので、俺はじっと待った。答えは返ってこないかもしれないが、それはそれで構わない。
 所詮はさっき初めて出会った他人なのだ。知らなくたって良い間柄だ。自分は昼にでもここを出る。もう二度と会うこともないのだから。
 諦め半分のまま、男の方を向く。
 すると予想は反した。

 ゆっくりとした動作で兵士は兜を脱いでいく。止め具は外され、豊満な髪が現れた。兄の瞳を連想させる緋色の髪だった。首筋辺りで雑に切られている。
 こちらを直視する目はそれほどつり上がってはいなかった。
 漆黒に濡れた色彩は不思議に揺れている。闇の中には青や紫、暁色といった様々な色合いが見えるような気がする。同じ暗闇の夜にこの瞳があるとすれば、比べ物のないほど輝くように感じられた。
 確かに男だった。端麗とまではいかないだろうが、均整の取れた顔つきだ。微笑めば、周りの者の荒んだ心を静めてくれるだろう。
「……違うのか?」
「見たとおり、だ。安定しないからな。均衡、釣り合えばいいのだが」
 アンバランスな声音がまた喋った。何だか落ち着かない気分になる。
 男が何を指しているのかさっぱり分からなかったが、俺は夢中で宝石のような生物を観賞していた。

 しばらくは何も言わなかった男だったが、ふいに右腕を腰の辺りまで動かした。手首を使って何かを探っている。残った左は相変わらず国章を遮っている。
 止まっていた時間が解けだし、俺は目を背けた。
 恥ずかしいことをしていたのだと、今更になって赤くなってしまった。

 ところが、静まり返った廊下に一つの音がした。
 耳に残っている嫌な音――安全装置を外す音だ――に慌てて俺は音源の方を睨みつけた。
 鈍く光る黒金の塊が小さな口を開けていた。回転式の弾倉の奥にあるグリップを握るのは、皮でできた手甲をはめている兵士の手。今まさに引き金が引かれようとしている。
 瞬きもできずに俺は硬直していた。目の前で繰り広げられていることが認識しきれなかった。
 派手な発射音が鳴り響いた。空気を揺さぶり、振動が鼓膜を引き裂くような気がした。
 俺は反射的に瞼を閉じた。腕を引き上げ、耳を手で覆う。
 動物的な防衛本能が働いたのだ。
 俺は生きたいと無意識に思っているのだ。
 兄の拒絶を示したあの行為が怖いわけではないのだと言い聞かせながら、訪れた暗闇の中で俺は時が過ぎることを待った。


「デリケート、なのか。坊主?」
 速さの変わらない口調に、ほんの少しの恐怖が湧き出た。
「驚かせて悪いことをしたな。耳、平気か」
 心配そうな黒い眼球が、俺を見ていた。
 足元には血の海ができていた。
 倒れているのは見知らぬ兵士だった。握られていた銃は撃つこともなく、だらりとした肢体の傍らに転がっている。
 硝煙の臭いが、不意に辺りに立ち込めた。
 煙をふかす銃口を携えた男は、目を細めながら鼓動のない肉塊を一瞥した。
 死んだ兵士の持っていた銃は支給物だったが、男の銃は全くの別物だった。鈍い銀製で重たそうな長い銃身だ。円筒はついていない。
 慣れたように、男はグリップの底から弾薬を詰め替えている。そしてそのままホルスターにしまいこんだ。

 何度か頷いて返事をすると、満足したように男は立ち上がった。胸に当てられた腕は離れていた。制服には何も刻まれていなかった。
「あまり長くいられないな。じゃあな、ランス。強く生きろよ」
 足早に彼はその場を去った。追いかけたかったが、檻に阻まれそれは叶わない。
 消えていく背中を見送り、視線を床へ下ろす。途端に俺は息を呑んだ。

 床は綺麗だった。綺麗すぎた。
 所々にかびが生えかけている、いつもの床だった。
 何もない。つい数分前の惨劇の跡も、鼻につく残り香もない。幻のように掻き消えていた。

 あれが真実だったのか知る術はない。当事者である謎の男も、本当に自分と会話していたのか。存在していたのか。夢ではなかったのか。
 どれ一つ、確信がもてなかった。
 唯一つの疑問を、誰もいない空間に呼びかける。
「……あれ? 俺って名乗ったっけ」
 答えは見つからない。



 礼拝堂の鐘が正午を告げている。
 三人の兵士に連れられた俺はとうにユニステから出国していた。
 大樹海と呼ばれている森は、国から北へ一里の原野から始まっている。
 果てなくどこまでも続く深緑色の大海は、地平線の向こうまで広がっていた。正確な広さを知る者は誰もいないらしい。
 一度入ったのなら、永遠に帰ってこられない迷いの森。そんなありきたりの言い伝えだったが、国中の人々がそれを信じていたからだ。
 禍々しい場所だと噂には聞いていた。
 だが俺の目には映ったのは、力頭強い生命の息吹と溢れるほどの自然の姿だ。
 優しい木漏れ日や土肌の匂い。すだく虫たち。子を生し、羽ばたく見覚えのない鳥や動物たち。
 懐かしく感じる不思議なオーラが取り巻いていた。

「私どもはここまでです。姿が確認できなくなるまで待機しています。逃亡する素振りをすれば射殺と相成ります」
 牢を訪れた男たちの誰よりも丁寧な口調で、監視の兵士達は説明をした。
 穏やかな声で淡々と定められた口上を告げる。そこには同情も情けもない。彼らが同行者であるのは偶然ではなく、任務を遂行するために定められたということだ。
 所詮、自分も犯罪者。
 死んでもかまわなかったが、国外追放となった時点で俺はあの人の家族ではなくなった。縋るものもなく、自殺をすることすら億劫だ。
 ――いや。それは本心ではないのかもしれない。
 俺の内に何かが生まれていた。希望か絶望か、幸先の見えない底知れぬ何かが。


 静かな帳が下ろされていく。むせ返るような青々しい草木の香りが、風に乗って運ばれてきた。懐かしく感じるのは気のせいではないのだろう。
 俺は樹海の入り口で拾われた。
 あの人に。
 覚えているはずがないが、森の景色には少なからず既視感があった。
 心の隅にでも描かれているのだろうか。消えるはずのないぼやけていた記憶が。

 俯き加減の姿勢を正す。しゃんと背筋を伸ばすと見えるものが全く違うような気がした。折れそうな決意を支えて、俺は進んだ。
 この森で生きてやろう。
 新しい答えが生まれた。開き直りに近いが、ここからでも始められるかもしれないと思った。
 知らず知らずのうちに陰鬱な気持ちは洗われてきている。
 未知なる場所に歩を進める。さくりと青草を踏む。
 兵士達の視線は遠のいて、背中は急に軽くなった。
 やがて静寂する木々が辺りを覆い隠してしまった。大樹海の中は、それだけで一つの世界を形作っているような神秘性が漂っていた。人界とは完全に切り離されている。

 それに、知りたいことがあるのだ。
 一時の幻想を伴って現れた、銃を携えた緋色の男の正体。何故俺の前に彼はやって来たのか。
 そして、もちろんあの人の真意。突然の暴挙に突き動かした原因を。
 何よりも、自分自身が何者なのか。
 あの日から俺は決めていた。例え誰であってもかまわない。人間であってもなくても。
 嫌われることを怯えてばかりいられない。逃げの姿勢を変えなくては、砂漠の砂をすくうように最後には全部零れ落ちていってしまう。
 これからは、向き合わなくてはならないのだ。

 大樹海は決して俺を排除しようとする素振りは見せず、ましてや歓迎するかのように木々をざわめかせた。立ち止まることも振り返ることもしなかった。
「どんな奴も結局戻ってくるんだよな。心の故郷ってやつに」
 誰に言うわけでもなく俺は笑った。近くにあった小さめの木が同意をしたように枝を振った。
 「おかえり」と、聞こえた。


 戻ってきた。
 数奇な運命の巡り合わせだと人は嘲るかもしれない。だけど俺は明確な意思を持って戻ってきた。真実がどんなに巧妙に隠し立てされていたとしても、俺は確かに自分の足で歩んでいるのだ。

 目的はないけれど、北へ行こう。大樹海の中で見つかるものがあるかもしれない。
 それが何か。
 今は、まだ分からないけれど。




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