花が咲く頃に


 なあ文次郎、と珍しく穏やかな声で呼ばれて隣を振り向けば、留三郎はつり上がっている目を微かに伏せて庭先の木を眺めていた。
 近くでこうして静かに見てみれば、器量の良い顔立ちをしているというのも頷ける。
 胸倉を掴んでは散々近距離で眼を飛ばし合っていたのに、どうして今更それに気が付いたのだろう。顔立ちなんてそれこそ千差万別、忍者にとっては利用するものの一つに過ぎない。同じ組の火薬使いの整った容姿を側で見てきている文次郎にとって留三郎のそれは、特別に意識するほどのものではなかったはずだ。
 だから今まで知らなかったというのに。
 ぼんやりと文次郎は端整な貌に視線を送っていたが、隣の男は気付かない。
 楽しげに動く唇が紡いだのは、あの木に咲く花の名前。つい先日散ったばかりのそれがまだ芽吹くのも当分先の話なのだが、けれど自分達にとっては重要な意味を持つ季節の巡りを実感させる。
 六年目の春が来た。此処で過ごすのはあと幾日か、指折り数えるのも難しくはない。

「きっと来年も綺麗な花が咲く。その時も俺達、喧嘩していたらどうする?」

 想像しながら声に出して笑う姿を、自分の隣で見るのはもしかしたら初めてだったかもしれない。
 綻んだ眼差しが楽しげに細められて、文次郎だけを映し込んでいる。
 掴み掛かって殴り合っている時はそれこそ射殺しそうなくらい睨み付けてくるのに、笑えばこんなにも優しくなるのか。
 自分一人だけが彼の中に投影されていることに優越を感じたのは一度や二度のことではなかったが、憎悪や辛苦に染まったそれよりも、温かな木漏れ日を思わせる目の前のものの方がよほど良い居心地がした。
 拳を振るうたびに湧き起こる苛立ちとは違って、むず痒い何かが胸を震わせるけれど嫌な感じではない。

「そんな時までしねーよ」

 意識すると途端に気恥ずかしく感じ、思わず文次郎はいつものようにぶっきら棒な答えを返した。
 好戦的な留三郎が真逆の一面を持っているのは分かっていたが、まさか自分にも向けてくれる日がこようとは文次郎は考えたことさえなかった。
 下級生や一部の同級生――特に、同室の善法寺伊作には、本当に良い顔をする。時たま委員会中の様子や長屋で寛いでいる姿を見かけてしまい、自然と意識を捕らわれたことは多々ある。
 自分には決してもたらされないもの。
 欲しいかと誰かに問われてしまえば突っ撥ねて反論するだろうが、不意にぽつんと浮き上がった独り言は、羨ましい、だった。
 自分の声を自分の耳で聞き取った瞬間、文次郎は誰もいないというのに頭を掻き毟って何度も違うと否定をしてから、そのまま一晩中走り続けていたという恥ずかしい過去がある。
 夜が明けて冷静になって考えてみても、答えは同じだったのだけど。
 思い出してしまえばこちらを向いた留三郎の顔などまともに見られるはずもなく、自然と庭の木へ目を逸らせてしまう。
 春になるといつも花を咲かすこの老樹には、上級生になるたびに残りの学園生活を否応なく突き付けられる。
 喜ばしいことなのか寂しいことなのか、今の文次郎にはまだ分からなかった。
 ――それでも。
 留三郎と会えなくなると考えれば、胸の内がわだかまる。
 哀しいからではない。何か焦りのような衝動が駆け抜けて、駄目だ駄目だと幼子のように駄々を捏ねる頑なな思考が別れを歯止めしようともがいた。
 清々するとばかり思っていたが現実として近付くにつれて違うのだと、月日が過ぎるほど文次郎は感じていた。
 何かしなければきっと後悔する。それだけは漠然とだが理解していた。今のままではいけないと無意識の内に警報を鳴らすのは必死に奮い立たせてきたはずの軟弱な己の声。

 あと一年。
 もうなのか、まだなのか判別は付かなかったが、あの木に花が咲く頃には傍らに留三郎がいるこの幻想さえも泡沫の如く消えてしまうのだ。
 たとえ記憶に美しい形で残っていようとも、前にも後にも動かないまま焼き付いて――こんなにも真っ直ぐとした声音で文次郎の名を紡いではくれないのだから。

「俺は喧嘩以外のことも、もっとしたい」
「……」
「な、何だよ?」

 呼吸を繰り返すのと同じくらい自然に返された文次郎の答え。考える間もなく反射的に発したのだが、意外だったらしく留三郎は瞳を丸くしてぽかんと口を開いていた。見開くと案外幼く見えてしまう表情を直視するのには慣れなかったが、送られてくる視線にいい加減居心地が悪くなり、渋々顔を向けてみる。

「……そうなのか」

 思いも寄らなかったと言わんばかりに驚かれてしまい、逆に何か言ってやろうと思っていた文次郎は返事に窮する。
 完全に虚を衝かれた様子である留三郎にどう言えば分からず、素直になれない口先からはいつもの皮肉る言葉しか生まれてこなかった。

「大体いつも喧嘩売ってくるのはお前だろ、留三郎」
「はぁ? それはお前が俺を――」

 語調を強めて言いかけた留三郎だったが、続く言葉は尻すぼみとなって消えてしまう。
 違う、今日は喧嘩したくない、と俯き加減でぼそぼそと呟いた留三郎は視線をうろつかせながら文次郎を見上げた。
 随分としおらしい態度だと言いかけたがそれではまた同じことになると思い止まり、じっと留三郎の言葉を待つことにする。
 文次郎が此処に来たのも、実は彼の方から呼び出しを受けたからだ。
 最初はそれこそ決着でも付けるのかと考えていたが、迎えた留三郎の様子に拍子抜けした覚えがある。
 いつもいがみ合いばかり繰り返していたから、こんな風な静寂はむず痒い。

 空を見上げれば細かい雨が降り出していた。
 留三郎とたまに仲良くするといつもこうだ。今日は比較的天気が良い方か。
 ――この雨も、いつから嫌じゃなくなったのだろう。
 濡縁から手を伸ばして雨粒に触れる文次郎から視線を外した留三郎は、意を決したように噤んでいた唇を開く。

「あの……感謝、する」
「へっ?」

 溜めていたものをようやく吐き出せたらしく、大きな吐息と共に出てきた単語。自分に向けられるとは考えてみたこともないそれを、危うく聞き漏らすところだった。
 反応が気に食わないのか、拗ねたように留三郎はそっぽを向く。
 細く真っ直ぐな彼の髪が大きく揺れて、文次郎は惹かれるようにその烏色を目で追ってしまう。

「ありがとうって言ってんだよっ!」

 自棄になったように声を荒げた留三郎だったが、頭巾の端から零れている白い頬が上気していた。

「この間の、誕生日会……きり丸や田村のついでだったかもしれないが、それでも俺、嬉しかったから」

 留三郎としては自分まで祝ってもらえるとは思わなかったのだろう。
 正直、文次郎とてそこまで毛嫌いしているわけではない。仲は悪くても六年間も共に過ごしてきた幼馴染であるし、仲間かと問われれば、大切な、と強調できるくらい信頼もしている。それを告げたことはなかったけれど、留三郎は違ったらしい。
 思った以上にその事実は文次郎の内側を揺るがした。ぐらりと足元がぶれた感覚は、先程まで浮上していた温かな想いを無情なまでに凍えさせる。
 微かに変化した文次郎の気配に気付かず、火照った顔を誤魔化すように留三郎は至極明るい様子で矢継ぎ早に説明を続ける。このように正面切って文次郎に自分の素直な気持ちを伝えるのは初めてだったからこそ、どういった形で表現すれば良いのか手探りなのだ。
 それ故に、話題の運び方がいつものように饒舌にはできず、相手が漂わせる薄暗い空気を察するのが遅かったというのは偶然が生み出した不幸だったのかもしれない。
 ただ留三郎は伝えたかった。
 文次郎にいつも言い出せない気持ちを、目の前にある木の花が咲く前に伝えなくてはもう会えなくなるかもしれない、と急ぐ想い故の行動だったのだ。

「それに伊作も嬉しそうだった。あいつ、最近ちょっと悩んでいたみたいで、いつもみたいにどたばたしたら少し紛れたらしいから」

 だから、ありがとう文次郎。
 はにかむように微笑むのが精一杯の照れ隠し。
 遠くで誰かに向けられたそれを、幾度も見かけたことのある文次郎は知っていたはずだったのに。
 ――どうしてだ、と冷えてしまった心が決壊する音が何処かで響いた。
 何故、そんな顔をする。どうしてお前は他の男の名を嬉しそうに話して笑うのだ。
 自分は――そんな柔らかな気持ちで想われていないというのに。

「文次郎?」

 無反応の男を流石に可笑しいと感じた留三郎が、不安げな様子で窺ってきた。
 気遣う仕草にさえ湧き上るのは苛立ちで、先程まで相手の笑顔に一々高揚していた己が馬鹿馬鹿しく感じる。
 嬉しい、と。ありがとう、と。
 その口は詠うように滑らかに動くけれど、結局は相容れてはくれぬのだと文次郎の中に恐れにも似た諦念感が満ち溢れていった。
 唯一、留三郎が文次郎という一人の人間を映し出すのは、やはり刹那的な苦痛の中でしか味わえないというのか。
 熱い奔流が目元に溢れ出そうになりながら、襲い来る自身の衝動に文次郎は押し潰される。
 戸惑う留三郎の声も聞こえなくなった一瞬の静寂の後、文次郎が知覚したのは振り下ろされた掌に残るじんとした痺れだった。


 * * *


 あの時、先に涙を零したのはどちらだったろう。
 ――また、やってしまった。
 力任せに殴りつけて擦れた拳を井戸水で冷やしながらも、最も痛む場所を掻き毟るように押さえ付けた。
 制服の胸元が歪み、それが素直に皮肉れた言い回ししか出来ない自分のようで文次郎は唇を噛み締める。

 いつからだったろう。留三郎と喧嘩をした後で、とてつもない後悔に苛むようになったのは。
 最初の内はからかい混じりだった言い争いは、歳を重ねるごとに回数が多くなり手が出るようになり、やがてはお互いになかなか消えてくれないほどの傷痕を残すようになった。
 自分が融通の利かない類の人種だとは知っている。留三郎もそれは同じで、曲がることを善しとしない二つの線は平行を保ったまま一向に交わる様子を見せない。
 それが歯痒くなったのは、いつからか。
 桶につけていた手を引き上げて、井戸により掛かりながら文次郎は溜息をついた。
 こんな奇妙な感覚に囚われるなんて忍らしくない。他の者ならばそんなことないのに、留三郎とぶつかると何故か抑制が効かなくなる。
 拘らなければよいのに、と零してみるもののあの目を思い出してしまえば残照のようにいつまでも焼き付いて離れないのだ。
 射殺されるような眼差し。自分だけに見せる部分。
 ――あれが、ふと花咲くように綻ぶなんて詐欺だ。
 文次郎は上がる体温に、慌てて井戸水で顔を洗った。

 毎回顔を合わせれば掴み掛かるような間柄ではあるものの、何もなければ静かに話すことだってある。
 下級生が見れば驚くだろうが、いい加減付き合いの長い相手だ。お互いに不用意な発言に気を付けていれば、普通の友人のように穏やかな時間が流れていく。
 細雨の日の午後。珍しく二人きりで色々な話をした。ただ、それだけだったはずなのに。

「……畜生っ」

 激しい悔恨が浮かび、奥歯をきつく噛み締める。
 明らかに傷付いていた留三郎の顔が脳裏に過ぎり、自身を責め立てる。だが同時に、被害者は自分の方ではないかと喚く矮小な心がもたげた。
 なまじ犬猿の仲だった相手の見せた純粋な笑顔は、この身体をあっという間に火照らせる。
 留三郎だって笑う。ただ、今まで文次郎の前では見せることがなかっただけだ。だからこそ不意を突かれた。
 あれを正面から見ることの出来るのは、多分六年生の中で伊作くらいだろうとは理解していた。
 それを自分にくれた時、感じたことのない焦燥に掻き立てられた。冷静になった今ならば、きっと嬉しかったのだと分かる。
 なのに、結局は彼の笑顔を受け止める者は伊作なのだと突き付けられた気がして、哀しいほど無意識にこの腕は無様にも振り上げられていたのだ。
 留三郎を罵った唇を噛み締めて、文次郎は井戸を覗き込むように項垂れた。
 ただ純粋に好意への感謝を拙い言葉にしていた男へ、自分は何を言っただろう。

 愚かだと叫んだ己こそが、愚かなのだと文次郎は咽ぶようにして外していた頭巾に濡れた顔を埋めた。
 忍務の最中にある生気が漲るような高揚感とは方向性の違う、身を焦がすような荒々しい情動が自分に存在するのは知っていた。
 級友たる仙蔵にも指摘されたことだが、ある種の剥き出しな感情を諌めなければいつか支障が出るだろうと自覚を持っている。
 ただ現状では、その矛先はただ一人にしか向けたことのなかった感覚であったから文次郎は深く考えたためしが無い。
 留三郎と取っ組み合っている時は、将来のことも何も考えずただの文次郎として拳を交えるだけだった。彼にだけそれを曝け出していたのだから、問題はないだろうと信じていたのだ。

 ――でももう、違うと気付いてしまった。

 他人の話題を持ち出した留三郎に絶望感を覚えたことは事実だったが、それ以上に憤りを感じてしまったのは話題の主たる伊作に対してだ。
 自分では絶対に手にすることの出来ない所にいる伊作に微かな羨望を覚え、それが瞬時に愚鈍な怒りへと摩り替わった。
 友だとさえ思われていなかった自分と、留三郎がいつも微笑む先にいる彼の大事な親友。秤にかければすぐにどちらの方が留三郎の中に重きを置いているのか、誰だって分かるだろう。
 けれど――悔しかった。
 伊作は自分などとは違い、留三郎の優しい部分に沢山触れてきたのは本当の事だ。伊作が自分らしさを失わずに今あるのは多分留三郎が側で――本人にそんな気があったかどうかは分からないが――変わらずに受け入れているからだ。
 文次郎の一方的な平手打ちから始まったさっきの喧嘩で、倒れた留三郎から逃げるように無言で立ち去ったのも、彼が伊作に治療を受けている姿を見たくないからだった。
 がみがみ言いながら忙しく手当てをする伊作に、困り顔で苦笑する留三郎。
 そんな二人で完結してしまう世界を垣間見るたびに、小さな苛立ちと共に物悲しさで心が沈んでいく感覚を覚えていた。
 それは同時にあの憎しみの篭った視線を向けられるのは俺だけだという優越感も浮かんだが、自分の場合は嫌悪からだと思うと同じような心持ちにしかならない。

「……嫌いだったら、嫌いのままで笑いかけてくれなければよかったのに」

 そうすれば跳ねた鼓動も知らぬまま、いつものようにいられた。
 こんな風に学園の隅で声にならない悔しさを耐えなくてもよかったのに。
 喧嘩ばかりがしたいわけではない。本当はもっと普通に話し、ふざけ合って笑いたい。何となく線引きされている壁を飛び越えて触れてみたいと、ずっと思っていた。
 春先に咲くだろうあの木を二人で見てしまってから、ずっと焦りのような感覚を持て余していた。けれど想いは空回りするばかりで、結局いつも以上に酷い喧嘩別れで終わってしまった。

 今年もまた、ずっとこのままなのだろうか。いがみ合って、ぶつかり合うだけで、仲良くしたって空は決して自分達を祝福なんてしてはくれないままで――。

「……留、三郎」

 普段はあまり呼ぶことが出来ない彼の名を呟けば、音となった響きは途端に甘くなる。
 他人の名を呼ぶことがこんなにも切ないだなんて、文次郎は知らなかった。知ってしまえば、痛みの延長上にある仄か過ぎるこの絆さえ、呆気もなく崩れ去ってしまうかもしれないという不安に怯えながらも、ずっと留三郎の横顔を眺めていた。
 相手にとっての自分の位置付けに絶望した途端、辿り着いてしまった答えは文次郎を更なる後悔へと押し潰した。

「お前は俺を、どう思っている?」

 自分の気持ちに気付いてしまえば、手に入りようもない彼の何もかもが欲しくなってしまいそうで、ずっと怖かった。
 だから見ない振りをして、耐え難いその想いを敢えて押し殺しながらも留三郎に関わり続けていきたかったのに。
 いつの間にか手段は目的と擦れ違い、無意味に傷付けるだけとなってしまったことがただ苦しかった。

「――それは如何なる意味合いでだい?」

 答えを期待していなかった独り言に、今一番会ってしまうとばつが悪くなる男の声音が返ってきて、文次郎は一瞬肩を跳ね上げる。
 動物的な反応に苦笑をした相手は、静かに近付いてきた。その手には彼の象徴になりつつある救急箱がぶら下がっていた。

「手当てなんざいらねぇよ。それともあいつに言われて来たのか、伊作」

 思わず舌打ちをしてしまったのは、減らず口を叩くことを止めようとしない自分自身への小さな腹立たしさからだ。
 喧嘩をしたのは留三郎であって伊作ではない。だから彼に当たるのは見当違いだと言えるのだが、文次郎が切羽詰って手を上げてしまった深い原因でもあるから心中は複雑だ。
 単に苛立っているように思われたらしく、伊作は眉を八の字にしながらも文次郎へ手拭いを渡してきた。
 無言で受け取って水気をふき取れば、伊作は観察するように文次郎の顔を覗き込んできた。窺うというよりも何かを確認するように。
 怪訝に思うものの、彼の行動に先程の留三郎を蘇らせてしまい文次郎は居心地が悪くなる。
 留三郎はこんな風にこちらを見てこなかった。自分の発する一言一言に相手は何を考えるだろうかと、彼らしからぬ弱気な挙動であった。そして文次郎の紡ぐ言葉を大切に噛み締めようともしていた。

 穏やかだけれど真剣だった表情をよく覚えている。
 それを――文次郎は、たとえ無意識であったとしても唐突に横っ面を叩いたのだ。
 さぞかし驚いたことだろう。
 歪んだ視界に映ったのは留三郎の瞠目。理不尽な暴力に身体も心も呆然と反応を忘れていた。信じられないとこちらを見上げたその表情が徐々に強張り、怯えと落胆の色を見せたのは見間違いじゃない。
 そこから、常以上につり上がった眼光は滲んだ悔しさと名前の付けられない憤りで途端に満ち溢れ、終いには本物の雫となって零れ落ちていった。
 凍えたものを再び沸騰させてしまったような、歪な形として湧き上った感情が本人も理解出来ぬそのままで前面に表れてしまったのだろう。

 自分を抑え切れないその感覚は、文次郎もまたあの時感じたものであったから分かる。
 ぐしゃぐしゃと混成した己の声が、胸の内で反響し合いながら無理やり出口を目指して吐き出されていく気分の悪さは時間が経った今でも忘れられなかった。
 きっと伊作の手当てを受けて長屋で養生しているだろう留三郎も、覚えている。

「頼まれて来たんじゃないよ。君に、ちょっと言いたい事があったから。……さっきの質問に答えてくれないかな」

 伊作は口の端を持ち上げながら首を傾ける。
 しかし文次郎を真っ直ぐと射抜く瞳は、笑ってはいなかった。





つづく→


2014/5/21(発行:2009/10/10)

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