* * *
最初に気付いてしまったのは皮肉なことに自分だったと、二人の気持ちを察してから数年経過した今でも、その時感じた感情を伊作は忘却出来ずにいた。
感じたのは絶望よりも、心が何処かへ落ちていくような不可思議な喪失感。
ああやっぱり、と思わなくもなかった。
予兆も予感も既に揃っていて、どうして当人は自身の内なる想いに目を向けないのだろうかと小さな苛立ちが浮かんだのも事実。
けれど、どうかそのままでいて欲しいと厚かましく願ったのも伊作の本心だ。
なんて醜いのだろう。
嫉妬めいた粘ついた妄執が、身体の底で沸き立つのが一度や二度じゃなかったと言えば留三郎は一体どんな顔をするのか。
知りたくないと思うのに、思い知らせてやりたいと残酷な一面が覗く。
突き付ければ驚愕に怯えるだろう彼の姿を夢想して嘲笑う自分が恐ろしく、迫り来る闇を振り払いながら衝立の向こう側で泣いた日もあった。
布団の中で震えていた伊作を心配する声も、耳にするのが辛くて堪らなかった。
口を開けば抱えていた薄汚い想いが全て発露してしまうかもしれないから、返事さえも出来ないまま敷布を掻き抱いた。
どうして、こんなに優しい彼は此方を向いてくれないのだろう。
留三郎の想いの先にいたのはその身体を傷付ける猛々しい拳。喧嘩をしている時だけだとしても、白刃のように美しいあの眼差しはたった一人の人間に注がれている。
伊作はそんな目で見られたなど一度もなかった。
当たり前だ。彼にとって自分は――もしかしたら六年生になった今も――疫病神だと虐められていた頃のような庇護の対象だったから。優しく穏やかに隣で笑ってくれたし、叱咤も沢山貰った。時には口喧嘩だってするくらい普通の友達として接していた。
でも、それは特別な感情があったからではない。
勿論好意ではあるけれど、友愛の範囲だ。伊作の方は淡い憧れにも似た感情を抱いていたかもしれないが、留三郎は彼を特別扱いしたことは一度として無い。
幼い頃はそれでも十分だったのに、大人になっていく過程の中で伊作は思い知ってしまった。
その先にある欲望と、柔らかいものだけで出来上がっている情よりももっと激しくて切ない想いを。
誰かを傷付ける事が苦手であった伊作は、憎しみと愛しさが表裏一体という言葉の意味も最初は理解し難かった。
誰だって痛みを厭う。命を失えば何も生み出さない。
――なのに、留三郎は違うのだ。
血を流して痣で顔を引き攣らせ、罵倒を叩き付けながら自分を傷付けるだけだというのに振り翳す手を止めないのは、一体何のためだったのか。
彼が喧嘩っ早いのは知っているけれど、誰彼構わず場所も問わず、ということは決してない。
なりふり構わずに突っ掛かっていくのは、本当は文次郎唯一人なのだ。
それに初めて気付いた伊作は、相手を見つめる留三郎の瞳の中に何とも表し難いものが宿っている事を知った。
伊作が留三郎の背中を見つめていた時と同じものがそこにあることを――。
殴り合う事が甘く優しい恋情に繋がるなんてとても理解出来なかった。
何度も何度も伊作は自分の想いを隠しながら留三郎を諌めたが、それでも彼は文次郎を睨み付けることを止めはしなかったのだ。
認められない悔しさの反発だったのだと分かったのは最近になってから。
互いの抱えている劣等感が生み出す両刀論法(ジレンマ)が棘を出して、彼ら自身気付かない内に傷付け合っているのだろう。
多分、少なくとも留三郎はそんな自分が分かっていて、だけど止められないことを歯痒く感じている。
文次郎はどうなのだろう。彼も同じような心境なのかもしれない。
わざと留三郎を挑発する物言いも、気に喰わないと憤るのも、湧き出す激しい矛盾と戦っているからこそ文次郎は悩む。自身のその思考そのものを否定したいのに出来ないから、留三郎の前では絶対にそんな素振りを見せたりはしなかった。
稀に二人が隣り合っている姿を見るたび、降り頻る雨の如く伊作の表情は暗く澱んだ。初めてそんな二人を見た時に、ほんの少しだけ嬉しそうにしていた留三郎の笑顔――先行しようとする文次郎の背中を、彼はとても眩しげに眺めていた――が自分に向けられるものとは類の違う事を思い知らされたからこそ辛い。
まだ誰も知らないが、ずっと留三郎を見てきたからこそ気付いてしまった真実にこれ程まで苦しめられるなんて笑える話だろう。
それでも伊作は留三郎が好きだった。
親友以上になれなくとも卒業までの間だけであれ、その隣にいられる道を選んだ。
全てをぶちまけたい残酷な衝動に駆られる時だってあったが、どんなに留三郎が文次郎へと突っ掛かっていっても結局最後に自分の治療を受けに来てくれる。それが伊作なりの拠り所だったのだ。
そうして無意識の自衛を固めると、今度は相手の文次郎が何を思っているのか気に掛かる。
先に述べたように文次郎もまた留三郎に対して、言葉にしがたい感情を持っているのは分かっている。
もしも、文次郎も留三郎を好いているのならば――。
二人をどんな顔で祝福すればいいのだろうかと、伊作は複雑な気持ちを抱えて毎日を送っていた。
「また喧嘩?」
「ん……すまない。伊作、怒っているのか」
溜息交じりで包帯を取り出すと、留三郎は困り顔で伊作を見上げる。
その唇に滲んでいる血や正面から拳骨を食らっただろう腫れた頬に痛々しさを感じてしまい、わざと見ないようにして伊作はてきぱきと手当てを終わらせていく。
傷薬が染みるのか時々細身の肩が大きく揺れたが、治療を止めるわけにはいかずに黙々と作業を続けた。
いつもより言葉数の少ない伊作を見て、やはり怒っている、と小声で申し訳なさそうに謝る姿はまるでこちらが悪いことをしているように思わされるから性質が悪い。
伊作は肩を竦め、患者を安心させるように笑ってみせた。
「怒っているんじゃなくて心配しているんだよ。今月に入って何回目だい? 最近妙に多いよね。前は……下級生の頃はもっと少なかった」
「そんな前の話と比較をされてもなぁ」
一拍置かれたことに何の疑問も感じていないらしく、留三郎は苦笑を浮かべた。
ああ気付いていないのか、と伊作は目を細めて俯いた。
上級生になって――思春期にはいってから、だ。喧嘩の数が増え出したのは。
学年が上がれば人数が減っていくので自然と出会う確立も高くなるから仕方がなかったのかもしれないが、留三郎が文次郎を見る目が変わってしまったのはその辺りからだ。
だからこそ伊作は自分の想いにもとうとう気付いてしまった。
――その相手が違う方を向いていることにも。
一瞬揺らいだ暗い感情を振り切るように顔を上げて、伊作はいつものように微笑みながら眉尻を下げる。
「仲良くしろとは言わないけどさ、意地を張り合ってばかりだと疲れない?」
零れた言葉は思ったよりも自分の今の心情を表しているようで、己の発言からさえも目を逸らそうと伊作は救急箱へ視線を注ぐ。
「っ! 意地張ってなんか――伊作?」
すかさず反論しようと声を荒げた留三郎だったが、影を落とした伊作の様子を不可解に思ったのだろう。ひっそりと名を呼び、怪訝な様子で窺う。
これは伊作が虐められたのを黙っていた時の仕草と同じだ。何か叫びたいものを抱えているくせに、無理やり笑いながら何処か違う場所を見つめている。
付き合いの長い留三郎は直感的に彼が何かを隠していることに気付いたが、誤魔化そうと笑う伊作にそれを告げても良いかと躊躇する。
もう互いに最上級生だ。伊作だって一年生の頃のように誰かに庇ってもらわなければいけないほど弱くなかったし、保険委員として毎年懸命に働いている伊作を虐めるような愚か者は学園内にもういない。
では、彼は何が不安なのだろう。
留三郎は眉間に力が篭ることを感じ、慌てて顔の筋肉を緩める。
自分の目付きが随分と悪いのは、旧友達から散々言われていた。委員会で下級生と触れ合うことが多くなってからは、大分和らいだ。それでも思案顔の際には怒っているかと間違えられたりすることも少なくはないから、極力気を付けているのだ。
文次郎だったら遠慮なく睨んでやるのに、と小さくと息を吐き出した留三郎は、そういえば自分の顔を盛大に殴ってくれたあの男が何処だろうかと思い立つ。
保健室にいないとなれば自室か、外の井戸で顔を冷やしているのかもしれない。頬に残る立派な痣と同じ物を反対側に付けてやったのだから、しばらくは食事の時にでも痛むだろう。
いい気味だ――。
思い出して少しだけ笑うと、留三郎の頬も痺れるような痛みを発した。文次郎から受けた一発目は無防備な状態でくらったからどうやらこちらも長く残りそうだ。
実際にはこの傷よりもずっと深い、抉られたような痛みが身体の奥で留三郎を苛んでいた。
手桶に張られた水面に映る痣だらけの自分を一瞥しながら、赤く擦れた目元をもう一度拭う。
唐突に叩かれたことと、そのまま済し崩しでいつものような喧嘩に発展してしまったこと。どちらもが留三郎を酷く打ちのめし、慌しい激情が通り過ぎた後になっても気を抜けば再び涙が浮かびそうになった。
どうして、いつもこうなるのだろうか。
今日こそ文次郎と普通に話をするのだと意気込んでいた数刻前の自分が馬鹿みたいだ。――本当に、馬鹿みたいだ。
殴り合いながら私恨を残して卒業すれば、もうお互い会わないままだろうとは漠然と感じていた。ほんの先にある未来を垣間見て、胸に落ちたのは嫌だという言葉。
文次郎ともっと話してみたかった。特別親しくはなれなくても、せめて他の級友達のような平素でもふざけ合って笑えるような関係くらいにはなってみたいと思った。
けれど、それさえも許されなかったらしい。
懐かしむように花の散った木を眺めていたその横顔に浮かんでいたのは、とても和らいだ笑み。
他人にも自分にも厳しい彼は不意打ちのようにそんな表情を見せることが度々あったが、自分と二人きりという状況の中で露わにするなんて思いも寄らず夢心地になりながらまじまじと見つめてしまった。
そんな視線に苛立ったのだろうか。それとも、柄にもなくありがとうだなんて正直に口にしたから逆に気味悪がられたのかもしれない。
考えていくほど思考は鬱々とした暗い方向へと嵌っていきそうになり、慌てて留三郎は頭を振った。
いつまでも引き摺ってどうする。喧嘩だって、日常茶飯事のこと。文次郎は次の日になっていればけろりとしていたし、自分もそうあるべきだ。
言い聞かせるように反芻させ、ともかく伊作が何を我慢しているのか突き止めようと留三郎は口を開きかけた。
しかし声が音となる前に、寂しげに揺れていた眼差しにゆっくりと見据えられて続く言葉が止まってしまう。
血が滲んで皮膚が擦れていた甲にはきっちりと包帯が巻かれ、止め具が既に付けられている。作業は終わったというのに握られた手はいつまでも離れずにいた。
首を微かに傾ける留三郎に、伊作はほんの少しだけ本音を零した。
「留三郎は文次郎が嫌い?」
数年間想い連なってきた自分の気持ちには敢えて蓋をして、ただ純粋な疑問としてずっと聞いてみたかった問い掛けをついに内側から吐き出した。
もしも、もしもと怯えているよりも現実を真っ直ぐ見ろと弱虫だった伊作を叱ったのは留三郎だ。満身創痍の患者を診て死ぬかもしれないと考えるより先に救おうと動くのは、その言葉があったからだ。
行動派の彼らしい台詞だったが、伊作にとってとても大事なものを教えてくれた思い出。
そうしたものが今も沢山息衝いている。
――だからこそ伊作は留三郎に敢えて尋ねた。
「……」
気遣うための穏やかだった表情に亀裂が走り、留三郎の背中が小さく震えたのは分かった。
けれど伊作はほんの少しの勇気を振り絞り、からからになった口内に張り付く舌を動かす。嫌な汗が米神に浮かび、繋いでいる掌もじっとりと熱をもっていた。
聞いてしまえば何かが変わる。その変化を、伊作自身本当は望んでいない。それでも――。
「嫌いじゃないよね」
確認する言葉の端々は、相手の震えが移ったように擦れていた。
みっともないと思ったが、これが精一杯だ。
留三郎が自分と同じ意味を持ってこちらを向いてくれることは、多分とても確率の低い話だろう。
幼馴染を慈しんでくれる目は好きだったが、伊作が押し殺している恋心に気付かないまま違う人の方を向いてしまったから、このまま告白したってただ留三郎を困らせてしまうだけだ。
彼の唯一にはなれなくても、重荷にはなりたくない。
それはずっと昔から、初めて伊作の手を引いてくれた時から決めていたことだった。
「……ああ。嫌いではない、と思う」
生唾を飲み込んでから言葉を慎重に選ぶ留三郎の眼差しが、ふと閉ざされた。
瞼を下ろして誰かの――文次郎の姿を思い浮かべている留三郎の表情は、いつだって伊作の心を騒がすような切なさを滲ませている。
悔しいとか哀しいとか、思わないわけではないけれど。自分には決して向けられない敵意を秘めた眼光に、文次郎の居ない所で彼を想いながら浮かべている控え目な微笑みに、いつも伊作の視線は攫われ続けていた。
留三郎の懸想を知った時に伊作の恋慕は始まって、そして終わった。
刹那的なものだったからこそ未だ未練がましく抱えている。どうして自分じゃなかったのかという口惜しさだってある。
だが、もしもの世界を思い描いたって寂しい心を慰めるだけでしかなく、現実を見れば伊作は口を閉ざすことしか出来なかった。
――綺麗な気持ちも浅ましい欲もなす術もなく打ち砕かれるこんな喪失感を、留三郎には味わって欲しくない。
目を塞ぎたいほどの自身の奥底を垣間見て今も尚苦しく足掻く伊作だったが、自分と彼の心中を秤にかけるのならばいっそ清々するほど向こう側に傾いてしまう。
自己犠牲と言えば美しく聞こえるが、誰彼構わず手を伸ばして手当てをするのも、目の前にいる恋しい人の想いを成就させたいと願うのも、結局は自己満足でしかない。
伊作は、それで良かった。
留三郎を殴るような相手なんて本当は選ばせたくないのが本音だ。けれど他でも無い留三郎が、自覚できないほど余裕もなく想いを寄せているのだから。
「嫌いじゃないのは、好きでもないってこと?」
――ねぇ言って。
言ってくれないと、諦められないんだ――。
伊作は握ったままの手元に少しだけ力を込める。
無言で見つめ返されながら、留三郎はそれでも視線を逸らしてはいけないと感じていた。
はぐらかしては駄目だ。こんなにも真剣な伊作の目を今まで何度も見たことはあった。必死に、耐えそうな命を救おうと懸命な横顔を隣で留三郎はいつも見てきた。
普段は柔らかい表情でいるためあまり気にしたことはなかったが、伊作の端整な造形を間近で見てしまい思わず頬に朱が浮かぶ。
けれど、留三郎の脳裏には何故か先程殴り合いをしたばかりの男の姿が過ぎった。
――どうしてだ。
伊作に質問をされたから意識してしまうのか。
いつだって顔を合わせればむっと口を曲げて留三郎のやることに文句をつけてくる、嫌な奴でしかなかった。
絶対に認めさせてやりたくて、反骨心に促される形で何度も張り合ってきた。文次郎の口から自分の名前が出てくることに愉悦を感じ、やがては彼と同等になれた。
けれども気が付けば、本当に望んでいた信頼関係などとは別方向になってしまって、留三郎はずっと苦悩を抱え続けていた。
伊作は、きっと気付いていたのだろう。
部屋を出るときに文次郎に会ってくるときちんと告げたが、伊作は驚きもしないでただいってらっしゃいと温かく笑っただけだ。緊張していた心持ちはそれだけで簡単に安堵を覚えて、やって来た文次郎を素直に受け入れられた。
そんな風に話せるのは伊作だけだった。一番仲が良い相手と言われて思い浮かぶのも、目の前にいる掛け替えの無い親友の存在だ。
優しい空間で触れ合っていたいとただ願うのであるなら、敢えて選び取らずとも彼の側に立っていれば何の障害もなかった。
「俺は……」
――それでも、文次郎じゃないと駄目なのだ。
天啓のような真実が閃き、錆付いて鍵をかけていた扉を突然開けた。
ああ、と呻くように俯いた留三郎の手を、伊作はとうとう離す。名残惜しげに指先で包帯をなぞり、それから激しく襲い来る哀しみを耐えるようにゆっくりと微笑んだ。
「二人とも身体ばかりが大きくなって、不器用な部分は相変わらずだよね」
呟きを残して伊作は立ち上がる。
迷いのない足取りで保健室を出て行く彼に、留三郎が追い縋った。
「伊作、伊作! お前、本当は――」
「君は部屋で養生していてよ。特効薬持ってくるから」
続く言葉を聞きたくなくて音を立てて引き戸を閉めると、伊作はそこに思わず寄り掛かってしまう。
重い息を吐き出せば、乾いた笑い声が小さく浮かんだ。
「ごめんね留三郎。私は私のやりたいようにやるよ。……君も、こちらにばかりかまけていないで後悔しないようにしなよ?」
敢えて扉の向こうへ伝えるように大きな独り言を漏らした。
振り切るように伊作は廊下を歩き出す。
我慢ならずに口にしてしまったのは、意地が悪かっただろうけれど。もう、決めたのだ。
* * *
留三郎に問うたことを繰り返し、伊作は文次郎にもう一度尋ねた。
逃げを許さない眼差しに見据えられ、硬直した文次郎は視線を微かに逡巡させる。彼自身はそれなりに友人と呼べる相手であるが、何せ間が悪過ぎた。分かっていて伊作は此処へやって来ているのだがそれは文次郎の知る所ではない。
「お、俺は」
「即答出来ない? 答えが出揃っているくせにいつまで迷うんだい」
ふっと溜息を吐き出して表情を和らげた伊作は、常に浮かべている優しい色を瞳に灯して文次郎を見つめる。
――本当に似ている。不器用な所とかそっくりだ。
そのくせ二人とも性根は愚直だから、意識するほどに相手の意図を巧く汲み取ることが下手糞で。お互いを見ているはずの視線は、何処か食い違ってしまう。
だから苛立つのだ。気付かぬ相手にも、上手に立ち回れない自分にも。
留三郎を理解しているからこそ、文次郎の事も伊作には良く分かった。上辺だけの情には満足し無いくせに、奥底にあるもっと大切な気持ちに自覚さえ遅れている。
悔しいな、と伊作は苦笑いをひっそりと浮かべる。
惹かれ合う可能性は自分の中にも存在していたのに、研ぎ澄まされた刃のようにその本性が猛々しい留三郎には形の合う鞘よりも、凌ぎを削り合う同じような刃先が悔しいほど似合っている。
そうしなければ、存在意義が廃れて本来の美しさを損なうのだ。
逆に鞘は、刃を包み守るもの。離れずに側にはいるけれど帰りを待つことしか出来ない。それでも無二の一対であり続けられる。
それで良いと伊作は決めた。留三郎の幸せを傍らで見守れるのならば、きっと己の位置付けが何処であって構わないのだ。
決意を固めてしまえば暗く澱んでいた思考は呆気ないほど霧散する。まだ来ぬ明日に不安を覚えるよりも、目の前にある現実を慈しんだ方がよほど実になろう。
「留三郎は君が好きなんだ」
あっさりと、まるで天気の話でもしているように伊作は朗らかな口調で発した。今度こそ驚愕の色を見せた文次郎に、思わず苦笑してしまう。
「長い月日の中で同じ花は何度も咲くのだろうけどね、そこに同じ花は一つとして無いんだ。文次郎、目の前にある蕾を綺麗だと思うのなら、誰にも渡さないくらい貪欲になって咲かせてみなよ。君の――君達の花を」
「伊作、お前」
掠れた声音が紡いだものも留三郎と酷く似通っていて、ほんの少しだけ寂しくなる。
伊作は感傷に蓋をして、文次郎の背を思い切り叩いた。
「今日は部屋譲ってあげるからさっさと行きな。自分の気持ちを信じて、ちゃんと話してくるんだよ」
言葉に詰まったままたじろぐ文次郎を促す。
明日になれば無かったことになってしまう今日の過ちを、自らの態度と言葉で覆さなければ意味が無い。沢山悩んで回り道をしてきたのだ。そろそろ道が合流地点に差し掛かっても良い頃合だろう。
伊作の想いに気付いてしまい、戸惑っていた文次郎だったが、彼の抱く真摯な気持ちを今更ここで無下にしてしまう方が余程失礼なのだろう。
――何より、今すぐにでも留三郎に会いたかった。
最初にどう声をかけようか、自分の気持ちをどう伝えようか。もしかしたら、触れることも許されるのではないだろうか。
沸き立つ感覚に文次郎は自然と笑みを浮かべていた。拳を振るうのは簡単だったけれど、こんな風に考えることの方が何て気持ちの良いことだろうか。
「留三郎」
恋しい名前を何度も何度も紡ぎながら、文次郎は駆け出した。
ずっと、好きだった人の元へ――。
文次郎を見送ったまま、伊作は肩から力を抜いて吐息を一つ落とした。
後ろで押し殺されていた気配が急に濃厚になり、やれやれ、とくたびれた様子で笑っている。
「ようやく動いたか。本当に馬鹿だなあいつは」
「でも心配だったからそこにいたんでしょう、仙蔵?」
振り返れば予想通りの意地悪げな笑みが目に入り、伊作もまた小さく笑った。
立ち聞きとは悪趣味だが、きっと文次郎の気持ちを察していたからこそ彼なりに気にしていたのだろう。多分、お節介な自分とは違って色恋沙汰の話なんぞはしていないかもしれないが。
「しかしお前もついてないな。別の男を好いている、その様に恋するなんてな」
長い髪をかき上げながら言う仙蔵は、はたして何処までを見ていたのだろう。
苦笑いを浮かべた伊作は、首を横に振ってから顔を上げた。
「知ってた、仙蔵? 私はね自分のことを世界一不幸だなんて思ったことは無いんだよ」
にっと笑った伊作は、雨上がり独特の涼やかな空を仰ぎながら、うんと伸びをした。
「あーあ、失恋しちゃったなぁ!」
複雑に絡まっていた想いではあったが、告げてしまえば案外清々してしまい、あまり気落ち声が出ていたことで伊作はふっ切れたように破顔した。
咲いた花は、来年にはどんな色となっているだろうか。
――楽しみが一つ、増えた。
おしまい
2014/5/21(発行:2009/10/10)
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