五年い組の日常
授業が終わって騒がしくなった教室内、筆を片付けていた勘右衛門はふと前の席へと視線を流した。
そこには先程まで一心不乱に黒板を追っていた長い黒髪の男がいたはずだったのだが、最近は放課後になってしまうとすぐさま席を立って姿を消すのが常だった。
普段通りにのんびりと寛いでいれば、教室から出ていく背中さえも見ないままとなってしまう。
それが二日三日と続き、流石に勘右衛門も不審がった。
というのも彼の放課後の日課の一つである委員会は(火薬委員の仕事は地味過ぎるのだけれど、学園内では重要箇所の火薬庫の番人なのだからとても大切である、と前に力説されている)恙無く仕事が終われば日が落ちる前には必ず終わるものなのだ。
なのに彼――同室者の兵助が部屋に戻ってくるのは大体夕餉の後か、風呂の前。
火薬庫は火気厳禁だ。
日が暮れてしまえば真っ暗闇の蔵で灯りを使うことはできないため、たとえ委員会時間が長引いてもどうしたってその日の作業は中断せざるおえない。
そして終わり次第、自分達五年生の友人の誰かに会うのが常だったのだけれど、同室の自分がこれほどまでに遭遇しないとなると他の組の三人とて怪しいものだ。
大体自分達に隠れて何かするということ事態、俄かには信じ難い。
大概何かあればまず自分に言いに来る。
聞いてないことまで報告に来る。
「豆腐がどうこうは要らねぇけど、何でこういう時に限って話してくれないんだよあいつ」
時折うざったくもあるそれがないと調子が狂うし、何だか信頼されていない気がして少しばかり落ち込みそうになった。
が、勝手に推測して勝手に気落ちするほど勘右衛門は軟弱ではない。
教えてくれないのならば忍たまらしくこちらから調べるまでだ。
「というか散々避けられているんだから、俺、そろそろ怒ってもいいよな? 怒っていいんだよなぁ?」
曇天を纏いながら凄味を増して笑う勘右衛門であるが、残念ながらそこに抱えている感情を吐露すべき相手は勿論この場にはいない。
代わりに――何かの生贄のように、一人で彼の愚痴を聞いていた八左ヱ門が引き攣った声を上げた。
「勘ちゃん、色んなものが噴き出てる」
若干強張った顔で、どうどう、と馬のように抑えられ少しばかり不服であるのだが、ここまで兵助への文句を聞いてくれた相手に対して申し訳なさもあるため、とりあえず漏れ出している黒いものを収めた。
ちなみに勘右衛門が今いる場所は、毎度お馴染み裏々山である。
ただいま委員会活動中である八左ヱ門は、この間ばっさり切られた予算の関係で火の車なため、餌代を浮かせるべく野草を毟っていた。
そこへ勘右衛門が凄い形相でやって来たため、半分放置しつつ話を聞いてやっていたというところだ。
「でも兵助が勘右衛門を無下にするってのは想像つかないぜ。無視されているわけじゃないんだろう?」
「うん……まあ。部屋に帰ってきても普通。でも聞かれたくないオーラ全開って感じ」
ここで吐きだした愚痴を、勘違いの一言で片付けないのが八左ヱ門の良いところだと勘右衛門は安堵する。
相手が鉢屋三郎であったら、面倒そうな顔をしてばっさりそんなことを言い出しそうだ。脳裏にその光景がまざまざと浮かび上がり、慌てて振り払う。
八左ヱ門は作業の手を緩めることはなかったが、真剣な表情で唸りながら答えを模索しようと悩んでいた。
真摯なその態度に嬉しく思いつつも、ここ数日疑念で渦巻いていた勘右衛門は話したことによって微かな余裕を持てたがために、燻っていた不安が徐々にもたげてくることを感じ取っていた。
そんなはずはない、とは思う。
八左ヱ門に答えたとおり、いたって兵助は普通なのだ。
でも、だからこそ何故、という言葉が滲む。
――嫌われるようなことを知らない内にしていたのかもしれない。
――黙っていなければならない危ないことをしているのかもしれない。
そんな風にいくつもの“もしも”が思い浮かんでしまい、勘右衛門の精神をいつの間にか疲弊させていたようだ。
思わず溜息が零れていたようで、草むしりをしていた八左ヱ門が初めて手を止めてこちらを振り向いた。
意思の強そうな眼差しが、無心で見つめてくる。居心地の悪さを覚えてしまい、勘右衛門の眉尻がさらに下がりそうになった。
「俺ってさぁ、兵助に隠し事されるくらい頼りない……ってことなのかな」
自嘲気味に呟きかけた言葉だったが、口にしてみると多分それが一番気掛かりな懸念なのだと自覚が生まれた。
親友同士だというのに、性格も全然違うし趣味だって成績だってまるでかけ離れている。
仲の良い五人の中でも互いが特別だと思っていたのは、もしかしたら一方的なのではという疑心が辛くて――一瞬でもそう感じてしまった自分が、嫌なものに映った。
勘右衛門の中に現れた奇妙なわだかまりの正体は、兵助に対するものではなかったのだ。
それは小さな、それでいて酷く心を掻き乱す自己嫌悪の欠片。
兵助に感じていた違和感が己に返ってくる感情だったことに気付いて、一人で悩んで八左ヱ門に相談してしまった自分の矮小さが恥ずかしくなってくる。
俯きそうになった勘右衛門を留めたのは、土に汚れながらも温かな掌だった。
「なーに一人で勝手に答え出してんだよ!」
「八左ヱ門……」
見透かされるような真っ直ぐな眼差しが微かに細まり、太陽の光を写し取った眩しい笑顔が傍らにあった。
「兵助は勘右衛門のこと好きだぜ。俺が保障してやる。だからうじうじ悩んでないで、さっさと本人にすっぱり問い詰めりゃあいいさ。勘右衛門だって兵助が好きだから色々考えちまうんだろ?」
根っこから明るい八左ヱ門の力強い言葉は、拍子抜けするほど自分の内側にあった後ろめたさにも似た感情を吹き飛ばす。
他人に肯定された。ただそれだけなのに。
お互いを親友として想っていて構わないのだと、許されたような気になってしまう。
じわり、と広がり出した温かなものに戸惑いながら、勘右衛門は苦笑を返すに留まった。
「はっちゃん、ちゃんと聞いてた? 俺だってそうしたいけど向こうが――」
言いかけて、勘右衛門は言葉に詰まってしまった。
向こうが先に去ってしまうから。何をしているのか話題にしようにもはぐらかされてしまうから。
そう説明しようとしたのだが、自分自身で矛盾点に気が付いたため声が続かなかったのだ。
八左ヱ門は静かに笑っている。
彼の言いたい事は何となく分かった。そして兵助がどうしてこんな行動を繰り返しているのか、何をしているのかは分からなくとも避けられている理由もまた何となしに察することができた。
「大体、兵助が変人なのは勘右衛門も知っているだろ。どうでもいいこと考えている癖に、時々思考が読めないことするからなぁ」
「ふっ……あはは、そっか。そうだよな」
おどけたように肩を竦めてみせてくれた八左ヱ門。それを契機に張り詰めていた気が、ようやく緩んで思わず笑い声を漏らしてしまう。
苦笑ではなく純粋に綻んだその笑みを眺め、八左ヱ門は満足そうに頷いた。
「よっし! ようやく笑ったな勘右衛門!」
明るく前向きな親友に話して良かったと、今は素直に思える。澱んでいた疑念は嘘だったかのように晴れやかな気分だ。
心からの感謝をそっと紡いだ勘右衛門は、裏々山から早速降りていった。
学園に帰ってくるなり、勘右衛門は手当たり次第に兵助を探し始めた。とはいえ今まで何処で何をしているのか全く知らなかったのだから、簡単に見つかるとは思っていない。
もしかすると学園外に出てしまっている可能性もあるのだが、それはそれで外出しているという事実を突き止めたことになるため一歩前進することに変わりない。
とりあえず、と勘右衛門は今の時間で居場所の分かる人物に当たってみた。
「兵助? いや、来ていないよ」
図書室の当直である雷蔵に話を振ってみれば、半ば予想通りの受け答えが返ってきた。
隣で何故か三郎が――いや、何故か、だなんてこの男に通用しない言葉の一つだ――座っていて勘右衛門を見ていた。
探る視線が楽しげに歪められている気がして、思わずこちらも顰めっ面になってしまう。
すると三郎は肩を竦めて押し殺した笑い声を上げるなり、さっさと背を向けて手元の書物へと視線を隠した。
「そう言えば最近合同授業くらいでしか会ってないね。お前はどうだい、三郎」
「食堂でも見かけないよ」
こちらには不躾な態度のくせに、雷蔵の問いかけには即答というあからさまな三郎ではあるが一々気にかけてられないので、勘右衛門は話を続けることにする。
「俺も授業と就寝の時くらいにしか会わないんだ。委員会に行っているのは分かるんだけど、普段はそれでも食事は一緒だっただろ?」
「喧嘩でもしたの?」
心配そうに雷蔵が窺ってきたが、笑って首を振る。喧嘩だったら単純明快だったのだけれども、と一言おいてから勘右衛門は立ち上がった。
「ありがとう二人とも。折角だし、明日は皆で飯食おうぜ」
そう言い残して図書室を出て行った勘右衛門を、そっくりの顔をした二人は唖然と見送った。
特に三郎に驚いている。
斜めがちな態度を取ったというのに突っ掛かってこなかった上に、爽やかに約束を交わしていった勘右衛門が逆に不気味である。
「意外とあれ、怒ってる?」
正直言って怖かったので、おずおずと尋ねてみる。
変装している少年の殊勝な様子に笑いながら、雷蔵は仕事の手を動かし始めた。
「三郎に怒っているわけじゃないよ。喧嘩ではないけど、兵助のやつ勘右衛門を怒らすようなことしたんじゃないかな」
しかしその怒りというのは憎たらしさからというわけではなさそうだった。思い当たる節はなかったが、勘右衛門から読み取れたものは何処となく感じた覚えがあった。
あれはどちらかというと――。
「三郎が八に、常々感じているところと同じようなものかなぁ」
ちらりと隣を眺めつつ、零した言葉は生憎当の本人には通じなかったようで不思議そうな顔をされた。
曖昧に笑ってみせた雷蔵は、手元の本を適当に揃え出した。今は別にそれを正確に伝えることは望まない。勘右衛門が兵助に思ったように、自分達もそれぞれが気付かなければ意味がないだろう。
「明日って言ってたんだし、今日中には決着つくでしょう。勘ちゃんはやる時はやるからね。三郎も皮肉れていないで、一回はっきり伝えてみたら?」
「だから何の事だ?」
困り顔のまま笑った雷蔵に困惑しながら、三郎はとりあえず入り浸っているお礼にと手伝いを始めた。
「食堂……食堂かぁ……」
図書室を出た後、当てなく廊下をただ歩いていた勘右衛門だったが、先程の二人との会話を思い出して行き先を絞ってみる。
食堂で会わなかったということは、一番賑わう時間帯外で兵助が食事をしているのだろう。
夕方ならいざ知らず昼までも見かけないとなると、食堂が開いている時間ぎりぎりに駆け込んでいるのかもしれない。
それならば、確実に彼と出会うだろう人間が一人思い当たる。
辿り着いた食堂をひょいと覗き込むと、夕食の準備がようやく終わったらしくおばちゃんが一息ついているところだった。
見回してみると食事当番の生徒はいない。聞かれるとまずい話ではないが、あまり変に広まるのもどうかと思っていたため、ちょうど良い。
「おばちゃん、今大丈夫?」
「おや、尾浜君じゃないの。どうしたの? 久々知君と喧嘩でもしているのかい?」
声をかけるなり本題を突付くような聞き捨てならない名前が出てきた。
僅かばかり瞠目すると、勘右衛門はとりあえず否定を示して詳細を尋ねる。
「兵助を見たんですか?」
「ここのところ準備中に来るのよ。遅くなるから二人分残しておいて欲しいって予約をしにね」
それを聞いて、思わず勘右衛門は仰天の声を上げてしまった。
完全に盲点だった。
てっきり一人でこっそり何かをしているのかと思い込んでいたのだが、ここに来て現れた第三者の存在に純粋な驚きを禁じえない。
慌ててそれは誰の分かと問えば、食堂のおばちゃんは朗らかに答えてくれた。
それこそ悩んだのが馬鹿馬鹿しいくらいに呆気なく、事件の全容は判明したのだった。
「四年生の斉藤タカ丸君よ」
夕暮れも深まった学園内。放課後の喧騒も薄れ始めた空は、西の方からどんどん薄暗い藍色に染まり出している。
運動場から生徒の姿が消えて、委員会活動をしている者も見かけなくなる。静まり返った外の空気を、長屋や人の集まる食堂からのささやかな歓声が時々震わせた。
そんな中、火薬委員の仕事もようやく終わりを告げて厳重に火薬庫の鍵が閉められた。
全員で確認を取った後、顧問の解散の言葉で下級生達がわっと駆け出した。これからお楽しみの夕食である。煤の汚れもさっさと落としたいのだろう。
走る彼らに注意を促しながら、苦笑して見送った教師の傍らに残ったのは上級生の二人である。
「今日も居残りなのか?」
「はい。斉藤の奴、筋は良い方なんですがまだまだ鈍臭いんで」
「成功するようにはなりましたよ、土井先生」
自分よりも大きな四年生が嬉しそうに報告する姿を横目で見ながら、兵助は呆れた様子で溜息を吐き出す。
「十回に一度だろ? これが実戦だったら絶対に成功させなくちゃ逃げ遅れる」
「逃げる方が前提なの?」
「華麗に忍び込むにはちょっとまだ」
肩を落としたタカ丸を、顧問が含み笑いを漏らして励ました。
忍者のたまごとなって日の浅いタカ丸ではあるけれど、兵助の言ったとおり筋がいいのは誰もが認める事実だ。だからこそ兵助は包み隠さず問題点の指摘も行なうし、きちんと現実を教える。
これが自分の担当している一年坊主達であれば、反発するばかりなので多少は過度に褒めなくてはならない部分も存在するのだが、タカ丸は六年生と同じ歳である。子供っぽい部分は勿論あるのだが、精神的には彼らよりも確かに大人だったから兵助のこうした教え方も受け止める術を持っていた。
それに兵助とて褒めないわけでもない。
「でも、着地が良くなった」
「本当? 受け身は基本だって、四年生の皆に色々教えて貰ったんだよー」
辛口であるのは兵助が率直な感性を持っているからである。だから褒めるとなると、単なる鼓舞ではなく限りなく真実に近い意見なのだ。
それさえこちらが承知していれば、なかなか上手な先生役だろう。
意外と教師の才能があるのかもしれないと、土井は二人のやり取りを楽しげに見守った。
「二人とも、とりあえずあんまり遅くなるなよ。もう暗くなり始めているからな」
「はーい」
微笑ましい気持ちになりながら一声かけると、火薬庫の鍵を預かって土井は職員室へと去って行った。
誰もいなくなったところで、二人は連れ立ってすぐ火薬庫の裏手の塀まで歩み寄った。安全のため、一応周りに人影がないことを確認すると兵助は壁の前で屈む。
「じゃあとりあえず一回やってみろ」
うん、と元気の良い返事を合図として、屈んだまま頭を下げた。長い髪が首筋から零れ落ちるように流れたが、気にせずに兵助は髪の間から向こうに立つ生徒を見守る。
飲み込みは早いため、ここ三日ほどで大体の感覚は掴めていた。
あとは勢いと脚力。
受け身さえ取れるのならば多少無理に飛んでも平気なので、今日はいきなり本番をさせてみようと思い立った兵助である。
壁に顔面強打したこともあった。飛び越えきれずに塀の上で盛大にこけたことも懐かしい。
ただ着地だけは、みっちりと教え込んである。復習もしてこいときつく言い含めてあったからこそ、懸命に練習しているタカ丸に四年生も一緒になって手を貸してくれたのだろう。
歳の違いや同級生ながら忍たま初心者であることに弊害がないかと、同じ委員会仲間として少しは心配だったのだけれど。
良い友達を持ってよかったと思う。
駆けてくるタカ丸の姿を見ながら、こっそり兵助は苦笑を浮かべた。
――さて、私の愛すべき親友達は今頃どうしているのだろうか。
何か言いたそうにしている同室者の苦々しい表情に罪悪感がちくりと痛んだものの、あと数日の辛抱だと言い聞かせる。
瞼を閉じてじっと待っていた兵助は、足音が近付いてくることを感じて意識を集中しようと耳を傾ける。
十回に一度が五回に一度くらいになれば上出来だろう。こうして隠れて特訓に付き合わなくとも、多少なりに形が取れてきたから周りの四年生達も教えやすくなっているはずだ。
元からそういう約束だった。
六年生と五年生では実力的にそう差があるわけではないが、五年生と四年生だと実際大分開きがあった。
けれど編入したばかりのタカ丸の場合は、一年生同等かそれより下。
ただでさえ現在の四年生は自分で精一杯な者が多く、また同級生でありながら年上でもあるタカ丸相手にどうすればいいのか探り探りだったから、客観的かつ具体的に駄目な所は駄目だときっちり教えられる者はいなかった。
こればかりはもう少し打ち解けなければならないだろうから、と最初に頼まれた時に兵助は一度そう説いたのだ。
けれどタカ丸の意志は変わらなかった。
五年生は皆礼儀正しく、タカ丸のことをきちんと年上扱いしてくれる。けれどそれでは四年生に遠慮されていることと同じだ。
唯一、同じ委員会の兵助だけはタカ丸を呼び捨てして後輩扱いした。その無遠慮さが嬉しくて、彼は兵助に教えを乞ったのだ。
――早くあの子達と、本当の意味で仲間になりたいから。
何故急いで鍛えようとするのか疑問を投げ掛ければ、タカ丸はそう答えて笑んだ。
その真意を知っては断れなかった。
数日前の放課後をうっかり回想してしまった兵助は、慌てて意識を現実に戻す。瞬間的なものだったのかまだ足音は聞こえていた。
互いの距離間を考えれば、そろそろ踏み込みに入るだろうと兵助は閉じていた瞼を勢いよく引き上げた。
そこにいたのは真剣な顔をした後輩――ではなく。
「兵助のぉぉど阿呆―!」
「勘右衛門!?」
目の前に迫っていたのは同じくらいの背丈の、凄まじい形相をした黒髪の少年。
腹の底から吐き出された絶叫に目を白黒させていると、構えたままであった兵助の身体に一瞬の重みが加わった。
そして同時に、蒼い制服が飛ぶように視界から掻き消える。
本当にあっという間の出来事だった。
「……えっと、大丈夫?」
奇妙な沈黙の間。
最初に立っていた位置で佇んでいたタカ丸が、心底困った様子でおずおずと声をかけてきた。
突然の事に放心していた兵助だったが、白昼夢というわけではなかったらしいことを知覚すると、壁越しずるずると身体を沈ませていた。
踏まれた部分が少しばかりの鈍痛を訴え出して、ようやく今しがた何が起きたのか理解し始める。
のろのろと長い髪を揺らして首を上にすれば、塀のてっぺんから長い影が伸びていた。
「お前っ! 気配りの仕方が違うだろ!」
「……勘ちゃん」
きちんと両足で塀の上に着地しているのは勘右衛門に間違いなかった。
あちゃあ、と内心でばつの悪い声を上げた兵助だったが、そんなこともお見通しのようで勘右衛門は凄味を増して眉をつり上げた。
「見ろよ兵助。俺は人馬の術が出来ないわけじゃない。からかわれることもあるけど、まじで気にしたことなんて一回もないんだからな!」
分かったなら返事しろと、一気に捲くし立ててきた勘右衛門に対して兵助は何も言えない。
心配事が一気に覆されてしまったのだから、言葉も出てこなかったのだ。
状況が飲み込めていなかったタカ丸も、勘右衛門の高らかな宣言と塀を登って見せた意味を悟り、朗らかに笑った。
人馬の術の練習に兵助が誰かを伴ったことは一度も無かった。教えているのを知られたら茶化されて面倒だと話したことはあったけれども、失敗ばかり繰り返す姿を人に見られたくないだろうという兵助なりの優しさであるのをタカ丸は知っていた。
もし四年生の皆がタカ丸の気持ちを知ったのならば、それで傷だらけになって練習を繰り返す姿に気を病むかもしれないという心配も勿論あったから、こちらからも何も言わなかった。
しかし、そんな思惑の他にも理由があったらしい。
タカ丸はさほど話したことのない、兵助の同級生の姿を楽しげに見つめた。
当時はまだ編入していなかったが、小さな友人達から伝え聞いたことがある。
塀から落ちた五年生がいるという話を。
怪我は幸い軽度のもので、ぶつかった一年生も無事だったため今では単なる笑い話なのだろうけれども、兵助にとっては違ったのだろう。
散々着地や受け身の話をしていた彼の真剣さを思い返してみれば、それはすぐに分かる。
「久々知君、尾浜君が心配だったんだね」
心配だったからこそ、よりによって人馬を練習しているところなんて見せたくなかったのだろう。もしかすると勘右衛門以上に、兵助は怪我をしていた勘右衛門に衝撃を受けていたのかもしれない。
だからこそ五年生の誰にも言わずに、黙っておけ、だなんて約束させたのだとタカ丸はもう気付いている。
でも勘右衛門はそんな風に気遣われることよりも、兵助が優しさ故にいつもと違う態度を取ったことの方が悲しかったに違いない。
「逆に心配かけちゃ駄目だよ? 僕に付き合ってくれたのは嬉しいけど、ちゃんと言っておかないと」
大人びた笑顔を向けてくるタカ丸に、兵助は黙って俯いた。
顔が、酷く赤いような気がして。この後輩にだけは見られたくなかった。
「……八左ヱ門の言ったとおりかぁ」
否定もせずにいる兵助の殊勝な態度が答えそのもので、勘右衛門の湧き上がっていた感情の昂ぶりもさっさと落ち着きを取り戻す。
代わりに浮かんだのは苦笑で、いまだに山にいるだろう友達の喜んだような声が聞こえたような気がした。
「ありがとう、兵助。俺が気にすると悪いって思ったから隠していたんだよな? でも一人で勝手に答え出さないでよ」
八左ヱ門の受入りを口にしながら、勘右衛門はようやく塀から降りて真っ直ぐに兵助の前に立つ。
記憶の中にあるものよりも、それは随分と綺麗な着地だった。
「仕方ないから今日は許してやる。だから、明日は昼だけでもいいから俺らと飯を食え! タカ丸さんも良いですよね?」
さっさと自分の気持ちをぶつけて、明日の約束を取り交わす勘右衛門の常と変わらぬ態度にとうとう兵助は苦笑した。
勘右衛門はそれを見て満足そうに頷く。
互いが感じていた胸の痞えが、やっと取れた瞬間でもあった。
そして次の日のことである。
賑やかな昼食の席に、久方ぶりのい組の二人が並んで座っていた。
ろ組のいつもの三人組はそれぞれ三種三様の表情を浮かべてみせたのだが、後には笑顔だけが残って皆で和気藹々と食事に勤しんだのだった。
「タカ丸さんの特訓ねぇ」
「昼休み、放課後、委員会の後。午前授業の時は午後からみっちり。なかなかハードだな」
「そうでもしなくちゃ人馬といえども短期間に習得できないじゃない。でも、まあもう私はお役目御免、かな?」
そう言って兵助は奥の机に座っている集団をそっと見やった。
紫の制服の少年達が、一回り大きな少年を中心に何やらはしゃいでいる。
受け身の練習を共にしたと嬉しそうだったから、四年生達もタカ丸への接し方が分かってきたのだろう。
あんなに楽しそうにしているから、きっと大丈夫。
彼にも自分のような大切な仲間が出来ればいいと、切に願う。
兵助の温かな眼差しが誰に注がれているのを察した勘右衛門も似たような笑みを浮かべ、言葉には全然してこないくせにそんな風に見守ろうとする彼の態度にちょっとばかり嘆息を吐き出してしまった。
「やっぱり先生向いているんじゃないの、兵助?」
「そうかなぁ。勘右衛門が言うなら、そうかもしれないけど」
「そうそう!」
「そっか。……ふふっ、そうだな!」
二人は顔を見合わせてにこりと笑った。
隣にある存在と食堂の喧騒は、変わらぬ日常を今日も静かに彩っている。
五年ろ組の非日常→
2013/02/10(発行:2010/10/10)
←Back