「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ……」
見事に晴れた青空の下で、ぶつぶつと一人呟く少年が途方に暮れていた。
最上級生さえも手玉に取る学園の秘蔵っ子、天才、変装名人、可愛くない後輩、不破の追っかけもどき、不破先輩の顔をした小悪魔etcといった栄えある渾名と全然自慢にならない(本人は結構気に入っている)名を欲しいままにしている、鉢屋三郎十四歳。
学園に入る前から忍者な振る舞いをしている彼だったが、長屋の屋根で悶々としているその顔にはいつものポーカーフェイスがさよならしていた。
傍から見れば不破雷蔵が常の優柔不断で苦悩しているようにも思えるが、場所が場所だけに完全に不審者な彼を不破と間違える者は誰一人としていない。
「鉢屋先輩なんであんなところにいるの?」
「思春期の悩みってやつじゃないの。僕たちもああなるのかなぁ」
「ありたくないねー」
「大人になるって大変なんだよ」
「あの人の場合は単に悪戯の方法を考えているだけじゃ?」
「っていうか五年生は授業ないのかなあ……」
それを窓から偶然見かけてしまった一年は組の良い子達は、授業もそっちのけで雑談を交わす。
勿論、数秒後に百発百中のチョークが飛んでくるのはお約束だ。
そんなは組の惨状を露とも知らず、鉢屋は何度目かの溜息を吐き出していた。
自身に言い聞かせ、脳裏に貼り付く光景を必死で振り払おうと懸命に九字を切ってみるものの、心の荒波は凪ぐことがない。
(私は何であいつを? っていうかそもそも別に好みじゃないだろ、普通に考えて。良い奴だが単に友達だぞ、落ち着け鉢屋三郎!)
他人を驚かせたりするのは得意だ。
けれどこうも予想外な仕打ちを受けるのは、鉢屋の本意ではない。
一人で悶えている自分が段々と馬鹿らしくなってきて、何だか怒りにも似た感情が湧き上がる。大人気ないとは分かっているが何故自分が掻き乱されなくてはならないのだという憤りが、沸々と鉢屋の中に溢れ出していた。
人はそれを、責任転換だと言うが――この場に彼の相棒である不破がいたのならば、人のせいにしちゃ駄目だよと窘めてくれただろうが、あいにく不在である――彼の感情の矛先は、自身を乱した張本人へと真っ直ぐに向かっていくのだった。
「これも全て竹谷のせいだぁぁぁぁ!」
Don't know!
ねぇねぇ兵助くん、と久々知に話しかけてきた斉藤は新しい玩具を発見した子供のように興味津々とした様子だった。
また何か不思議な事があったのだろうか、と少々げんなりし、火薬の使用量を書き留めながら久々知は相槌を返してみた。
「五年ろ組の三人が修羅場ってホント?」
「はぁ?」
突然思いもよからぬ話題が出て、久々知は勢いよく振り返る。
委員会活動もだいぶ慣れてきたようで、手際よく棚を見ていた斉藤は久々知の困惑している表情を怪訝に思い、首を少し傾げた。
「あれ、やっぱり単なる噂なの?」
「ていうか修羅場って何だよ。宿題の締切が間近……とかじゃないな、あいつらの場合」
三人と斉藤は言ったのだから、真面目な優等生の不破が含まれているのは当然だろう。ならばきっとさぼる鉢屋の尻を叩き、竹谷の勉強の面倒も甲斐甲斐しく焼くはずだ。
「そういうんじゃなくってさ、恋ばなだよ、恋・ば・な!」
「濃いバナナ?」
「何で僕の髪を見るんですか、久々知先輩」
「鯉と花?」
「端午の節句じゃあるまいし」
「あ、そういえば今日の夕飯は魚だって」
「へーいーすーけーくーん?」
真面目に聞いてよ、と地団駄を踏む後輩からは冗談には見えず、久々知は大きな瞳を更に見開いて唖然とする。
つまりは斉藤の話を総合すると、鉢屋と竹谷が不破を巡って対立しているらしい。
「今日の午前に屋根で悶々としてたって土井先生が仰っていた。僕も授業中だったからあの叫び声聞いてびっくりしたんだよー」
五年の午前は自由時間だった。
学園長からおつかいを頼まれて外にいた久々知はその事件を知らない。
だが学園を出る直前まで件の三人と一緒にいた。斉藤の言う三角関係独特の険悪な空気も無かったことを記憶している。いや、寧ろ自分でいうのも何であるが、仲睦まじいと言って差支えがなかったはずだ。
そりゃあ、傍から見れば鉢屋が不破を気に入っているのは丸分かりだし(じゃなきゃ日常生活の中で彼の顔をかぶり続けることを選ばない)、委員会で時折共同作業をしている不破と竹谷の仲睦まじい様子は、下級生だって知っている。
けれど――いくら何でもその噂は発展し過ぎだろう。
単なる喧嘩かもしれないのに、色恋沙汰の少ない学園内では格好の暇潰しだから尾ひれが付くのも早かったに違いない。
久々知は盛大な溜息を吐きながら最後の棚を元に戻し、斉藤を引っ張って火薬倉庫を出た。
一応、大切な親友達のためを思って最低限のフォローはしなければならないだろう。
「あのな、斉藤。かっこつけの鉢屋が嫌いな相手の名前をわざわざ公然として叫ぶと思うか」
「いいえ。だって鉢屋先輩って本当に嫌いなら視界から排除するタイプでしょう?」
「分かっているじゃないか。だからあれは、逆に仲直りしたいのにどうしていいか分からなくって悶えていただけだ。喧嘩なんてしょっちゅうだからな。あいつ、自分から折れるのが苦手だからな」
「へぇー、そっか! じゃあやっぱり単なる噂なんだね。兵助くんに最初に聞いておいてよかったよ」
にこにこしながら満足そうに笑う斉藤を生温い視線で眺めた久々知は、一つ咳払いをしてから神妙な顔付きで尋ねる。
流れ的には嫌な予感しかしないのだが、とりあえず聞いておくのが奴らと懇意な自分の義務ではなかろうかと一人で使命感を感じていた。
――不本意だけど。
「ちなみに斉藤タカ丸、その噂って何処まで広がっている?」
「修羅場のこと? それを言っているのは四年生の間だけだから、すぐ収まるんじゃないかな。まあ鉢屋先輩が屋根で叫んでいたのは小松田さんも聞いて」
「みなまで言うな」
大きなため息と共に何だか胃が痛んだのは気のせいだろう。まさか顧問の持病がうつったとは思いたくなく、久々知はこめかみを思わず押さえる。
お騒がせ事務員のことだから、放課後である現時点ではかなりの広範囲に鉢屋の奇行は広まってしまっていることだろう。これはまあ鉢屋の自己責任の範囲内だからしょうがないし、奴が突飛な事をやらかすのは日常茶飯事だから、慣れている学園の人間達は然程気にしないだろう。
問題は四年か、と久々知は遠い目をした。
勘違いしたまま言い触らすか、空気を察して他言無用にしてくれたか、はたまたそんな噂など信じないでいてくれるのか。まあ、口の軽い低学年には伝わっていないのが不幸中の幸いかもしれない。
「……とりあえず斉藤、噂はデマだって迅速に広めとけよ」
「うん、言っておくよー。早く仲直りできるといいねぇ」
管理票を先生に渡すために斉藤は職員室へと駈け出した。
そのまま別れた久々知は、年上の後輩の背中を見送りながら盛大に肩を落とした。
何か、とてつもなく疲れた。
そうして久々知はようやく理解する。
「部外者なのに一番苦労しているのって私じゃないか……?」
これから原因究明しに向かおうとしている時点で、なんやかんや言いながらも自分はお人好しなのだろうと、久々知は乾いた笑いを浮かべるほかなかった。
私って友達想いだなぁ、と呟きながら、今度あいつらに甘味でも奢らせようと心に決めるのだった。
「で?」
「で、って何がだ」
散々探し回った久々知は、活動の終わった学級委員長委員会室で不貞腐れるように一人居残っていた鉢屋をようやく見つけた。
声をかけてみるものの、予想通りに返答は素っ気ない。
だが先程色んなものをすり減らしてきて彼の名誉を守った久々知は、むっと眉を潜ませて部屋の中へと進む。
「変な噂の芽を潰してきた英雄に対してなんだその態度は」
鉢屋の隣にどっかりと腰を下ろすと、不破と同じ顔が少しだけこちらを向いた。
噂、と少し不思議そうな顔をしているところを見るに、まだ四年の噂はさほど他の学年にまで浸透していないらしい。
が、多分は組の庄左ヱ門辺りに午前の奇行について聞かれたのだろう。拗ねている。
宥めるのは得意じゃないのだが、普段はその役目である不破も竹谷もある意味でこの場にいない方が良い。
久々知は畳の上に残っていた菓子を勝手に拝借しながら、先程の斉藤との話を持ち出した。
「今思えば笑っちまう阿呆みたいな話だけどな。お前、何で竹谷の名前を叫んでたんだ。本当に喧嘩したのか?」
単に久々知は笑い話になるかと思っていた。
しかし始終無言の鉢屋が気になり、隣の様子を窺って見ると彼は悔しそうに頬を赤らめていた。
「……喧嘩、じゃない」
思わぬ反応に呆然としていた久々知に、鉢屋がか細い声でようやく口を開く。
喧嘩をしたわけじゃないんだ、と二度繰り返した鉢屋はほんの少しだけ涙目になりながら俯いた。
夕焼けが差し込む薄暗い部屋に、ぼそぼそと鉢屋の声だけが小さく響く。
久々知は笑みを引っ込めて真剣な表情でそれを静かに聞く。まるで懺悔のような告白を、あの鉢屋が素直に吐き出しているのだ。受け取る覚悟を決めなければ、彼の決意に相応しくないから。
「好きになるなら絶対雷蔵だって思っていた。側にいて安心するし、守ってやりたいなって思うから。でも、違った……」
鉢屋は言葉を切って何かを考えていたようだが、自分を真っ直ぐと見つめてくる久々知に向かって困ったように笑いかけた。
「好きになると、顔もまともに見られなくなるし、思考も全然うまく動かない。雷蔵相手には全然そんなことなかったのにさ」
「……鉢屋にも乙女回路が搭載されていたのか。それは知らなかった」
「言いたいことは色々あるが……うん、まあとにかくそういうことだ。すまん、フォロー感謝する。ついでに協力しろ、暇人委員会」
「立ち直り早いな。まぁそれでこそ鉢屋らしいか」
やっぱり苦労するのは私なのかと久々知は頭の隅で思ったのだが、こういうことを逆に不破に相談しては物凄く悩まれるか、もしくは大雑把過ぎて参考にならない回答が出てきそうだから、適材適所だろうと自分を慰めてみる。
「っていうかおかしいだろ、おかしくないか? 私がよりにもよってあいつをだぞ? 明日で世界は終わるんじゃないか 」
「わーい鉢屋くんが混乱してるぞぉ」
いつもの調子を取り戻したのか、それとも再び想い人の顔を思い出してしまったからか、鉢屋は声を荒げて床をどんどんと叩きまくる。
土井先生もこんな奇行を授業中目の当たりにしてしまえば、そりゃあ気味悪がるよなぁ、と久々知は棒読みの台詞を言いながら顧問への同情心を拭えなかった。
「まあ人を好きになることはいいんじゃない? 元から嫌いじゃなかっただろう」
「うっ、そりゃまあ。あいつの笑っている顔は結構好きだし、さ……」
湯気の立ち上る鉢屋の顔を気味悪げに眺めていた久々知は、乗り掛かった船だともう開き直ることにした。
しょうがない。
所詮自分は親友達が大好きなのだから、どうしても絆される運命なのだ。
肩を竦めて笑った久々知は、とにかくそろそろ夕食なのだし食堂へ向かおうと鉢屋を外へと連れて行くことにした。
きっとそこに、鉢屋がようやく自覚した想いの向こう側にいる人がくるはずだから。
「ところで鉢屋、お前の好きな奴って竹谷でいいんだよな?」
「――っ! それが前提で今まで話していたんだろうが、この天然豆腐野郎!」
確認のために聞いたのだが何故怒られたのか分からなかった久々知は、とりあえずその罵りを褒め言葉として受け取っておくことにした。
協力しろとの要請通り、久々知なりに色々と考えてみた。
第一、鉢屋は他人に対しての接し方がピンからキリまであるのだ。普段から鉢屋と竹谷が揃っている場面には出くわすものの、そこには必ず雷蔵の姿がある。
自分も加わる形であるから、彼らが二人っきりの時にどういった態度なのか想像も付かなかった。
というわけで、隣で再び悶々と考えている鉢屋に聞いてみた。はっきりいって自分は完全部外者なので躊躇いはない。
「普通本人に聞くか?」
「え、変? だって手っ取り早いじゃない」
盛大に溜息を吐かれても、久々知にはちっとも伝わらなかった。
鉢屋はとりあえず思い返してみる。
二人になったことは時々あったはずだ。そんな記憶が一応残っている。
授業外であれば殆ど四人でいるのだが、授業中であれば組の違う久々知は外れる。そうすると、不破と竹谷の三人でつるむことが多い。
二人組になって動く場合の鉢屋は不破と組むことが殆どで、竹谷と二人という状況をすぐさま思い出すことは出来なかった。
そもそも、竹谷のことを意識したのはほんの最近のことで(というかこれが恋路だという事実を知ったのは今朝だぞ、今朝! どんな面であいつに会えばいいんだよ? その辺り分かっていて敢えて聞いているのか、それとも本当に分かっていないのかこの天然は!)それより前にどんな接し方をしていたのか、すっぱり忘れてしまうほど動揺しているのだ。
――正直、覚えているはずもない。
「私がおつかいに出る前なんて、お前ら楽しそうに饅頭頬張っていたじゃないか。まあ、あの時は何か全然その気もなかったみたいだけど」
「あれは雷蔵がいたし、お前が言うようにそういう対象で見てなかったから……」
唸りながら頭を抱える鉢屋の姿は不破そっくりである。
久々知は呆れながらも、ずっと聞こうと思っていた疑問をそっと投げ掛けた。
「それだけどさ、鉢屋。何が決め手になって竹谷を?」
人気の無い校舎の廊下で、鉢屋が足を止めた。
連れ立って歩いていた久々知も同じように歩みを止め、項垂れている鉢屋の言葉をじっと待つ。
久々知にとって、鉢屋も不破も竹谷も同等の友達だ。それは鉢屋だって同じで、顔を拝借している不破が少しばかり抜き出ている程度だった。勿論、不破や竹谷とて彼らと同じだろう。
そこに恋愛感情なんて無かった。
だから鉢屋も、万が一にも友人達を好きになるんだったらきっと不破のはずだと思い込んでいたというのにだ。
もしも真実がそうなっていれば久々知も特に疑問を持たなかっただろう。
当然の成り行きだと思うだけで、こんな質問など思い浮かびもしなかったはずだ。
「……お前が出てった後、雷蔵が竹谷と虫食い文書について話をしていたんだ。今日の委員会で続きをやるって言っていて」
僅かに逡巡した鉢屋は、とつとつと今朝の事を語り出した。
つづく→
2013/02/06(発行:2009/07/19)
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