* * *


 長い髪を靡かせて学園から出かけていった久々知を見送った三人は、そのまま五年長屋の濡縁で取り止めの無い話を続けていた。
 他の学年は授業中だから学園は静かな空気に満ちていて、長屋には何人かの五年生が残っていたようだが、多数はそれぞれ好きな場所で好きなことをしているらしく、鉢屋達がいた近くには特に誰かの気配も感じられなかった。
 ぽかぽか陽気の下で穏やかに過ごす。普段は忙しく動いているため滅多にないこの空き時間は、とても有意義なものだった。

「そういえば竹谷。昨日の虫食い文書だけど、あれから資料がちょっと出てきてね。今日の委員会で仕上げられそうなんだ。生物の方は大丈夫かな」
「完成しそうなのか! 早い方がいいぜ、放課後になったら図書室に行くからなっ!」

 にこにこと擬音が聞こえてきそうなくらい和やかに笑い合う不破と竹谷を、鉢屋はじっと横目で眺める。
 三人でいると、うち二人が会話を始めてしまえばしばらくは間に入れずにこうして黙っていることがよくあった。だからこの時もさして気にも留めていなかったのだが、鉢屋の視線に気付いたのか竹谷と不意に目が合った。
 まだ不破と喋っていたからこちらを見るとは思っておらず、鉢屋は虚を突かれた形となり目を見開いてしまった。
 それを竹谷はどう思ったのか、この時鉢屋には分からなかった。
 暫しの間鉢屋を凝視していた彼はくすりと笑って、呆けていた相手の頬に指先で触れた。

「なーにぼんやりしてんだよ、三郎。ほっぺに餡子ついてんぞ!」
「!」

 鉢屋の頬についていた餡を指先で掬い取った竹谷は、戸惑いもせずにそれをぺろりと舐めて、自分の手の中にあった食べかけの饅頭を平らげる。
 突然の出来事に驚いた。
 一年生ばかりいる委員会を率いている竹谷は世話好きだ。だから時々、こんな風に同級生さえもまるで年下のように扱ってしまう癖がある。

 それは、知っていた。
 知ってはいたけれど――。

「た、竹谷っ、誰彼無しにそんなことしちゃ駄目だよ!」
「んー? 何の事だよ雷蔵?」

 思わぬ出来事に言葉を失っていた鉢屋の代わりに、不破が慌てふためいた声を上げた。顔を赤くして口を開閉させるだけで、二の句が告げないほど混乱している様子が見て取れる。
 それを他人事のように見ていた鉢屋は不思議そうに首を傾げる竹谷の後姿を眺め、ぼんやりと考える。

 ――ええっと。これは、どうリアクションを取ればいいのだろう。

 何故怒られたのか察した竹谷は、ぽかんとしたまま硬直していた鉢屋に振り返るなり申し訳無さそうに眉尻を下げた。

「すまん三郎、つい癖で。何だかお前って、こう構いたくなっちゃうんだよなー」

 いつもの邪気のない笑顔で、竹谷は鉢屋の頭をそっと撫でた。
 黙って見つめてくる瞳に映るのは酷く穏やかな色で、その手を払い除けようにも腕は動こうとはしなかった。
 普段通りに二人の会話を聞いていたはずだった。いつものことだと割り切って、完璧に取り繕っていたのに。
 けれど竹谷は気付いたのだ。
 目が合った時にきっと、鉢屋が僅かばかりに感じていた疎外感を察していたのだろう。仮面の奥から溢れてしまった、子供っぽい小さな寂しさを。
 癖というのは後輩に対してか生物に対してかは分からないが、彼の好意の表れであることには違いない。言葉で慰めることなんて器用な真似の出来ない竹谷なりに、これが精一杯の思いやりなのだろう。もしくは本人にはそんな気はないのかもしれないが、本能的に行動してしまうのかもしれない。
 寂しい時は黙って側にいてくれる、そんな男だから――。

 そこまで考えてから再び竹谷の笑みを正面から見た鉢屋は、急に背中を丸めて俯いてしまった。

「三郎? どうした、腹でも痛いのか?」
「え、大丈夫かい三郎?」

 心配そうな二人の声が何処か遠くに聞こえてくる。
 しかし鉢屋はそれどころではない。
 顔が熱くて堪らなくて、隠すのがやっとだった。



 * * *



「何と言うこそばゆい思い出……」
「うっせぇ。自分でも今思えば信じられないことだが事実は仕方ないだろ」

 余りにも痒くて堪らず、話を聞き終えた久々知は自分を抱き締めた。
 鉢屋も思い出してしまって恥ずかしくなったのか、そっぽを向きながら口を尖らせている。

「あれだな、あれ。前々から気にかかってた子が自分の事をちゃんと見ていてくれていることを知ったもんだから、キュンときちゃったのだな!」
「くそ、別に前から気になってたわけじゃねぇよっ!」

 そうやって吐き捨てる鉢屋が歳相応で、久々知は口の端をつり上げてしまった。
 可愛げのない台詞を言いながらもしっかりと竹谷への恋心を認めてしまっているのだから、こうして燻っていないでさっさと口説きに行けばいいのに。
 寧ろ大多数の人間に雄叫びを聞かせる度胸があるのなら、本人に直接言いに行けば良いだろう、と少し面倒になってきた久々知は思わず呟いた。
 耳聡くそれを聞き付けた鉢屋は、動かし始めた足をひくりと引き攣らせる。

「それが出来ればお前になんか頼まない」
「お、弱気なのか鉢屋。まあ一通りアプローチしてみればいいんじゃない? ほら食堂に着いたぞ」

 全然進展のなかった相談を切り上げられ、鉢屋は眉を顰める。それを気にせず久々知は食堂の中へ視線を廻らせて、少し奥に噂の渦中である二人の姿を見つけた。
 なかなか入ろうとしない鉢屋を無理やり引っ張り、彼らの前へと腰を下ろす。
 仲良く談笑していた竹谷と不破は声もかけずにやってきた久々知に驚き、そして彼に引き摺られて現れた鉢屋の珍しい姿に顔を見合わせた。

「久々知も三郎も今から飯か? 俺達もさっきようやく委員会が終わったとこだったんだ」
「ごめん、声かければ良かったね。先に頂いてるよ」

 全くもっていつも通りの二人である。
 朝から面倒なおつかいに走らされ、放課後は後輩の戯言にやきもきし、今は可愛くない同級生のお悩み相談までしてやっている久々知には、彼らの変わらぬ微笑みがとてつもない癒しに感じられた。

「おお、友よ!」
「どうしたんだよ久々知?」

 近かった竹谷の肩へといつもの調子で抱き付くと、背後から凄まじく鋭い視線が突き刺さった。

「……とりあえず三郎さん、俺らも飯にしませんか」
「そうですね、兵助さん。今度から気を付けて欲しいものですね」
 じとりと睨む鉢屋の嫉妬心丸出しの顔が笑えてたが、それをいうと更に怒られそうなので久々知は黙ったまま食事を受け取るため竹谷から離れるのだった。
「お前もいっそのこと密着してみれば? 吹っ切れるんじゃね?」
「ば、馬鹿言うなっ」

 ひそひそと耳打ちし合う二人を眺め、不破は怪訝そうに眉を顰める。竹谷も同じような顔をしていたがあまり気にした様子もなく、杯を進めていた。

「ねぇ竹谷。あの二人、何かあったのかな。朝は普通だったのにね」
「んー? 久々知がいなかったから三郎の奴、寂しかったんだろ。雷蔵が俺と喋っているだけで拗ねるんだぜ、あいつ」

 美味しそうに白飯を頬張る竹谷に対して、不破は目を丸めた。

「そうだったんだ……竹谷は本当に三郎のことよく見ているね」
「そりゃ好きな奴のことは気になるだろ?」

 不思議そうに首を傾けた不破に、竹谷は満面の笑みを浮かべた。
 運悪く二人の前に座ってしまった鉢屋は、その台詞と表情を正面から見てしまい、堪らず顔面から机に突っ伏してしまう。
 それを見た久々知は、流石にもう耐え切れなくなって盛大に噴き出した。

「ははは、あーもう馬鹿らしい!」
「何で笑ってんだよ久々知?」

 口を尖らせて怒る竹谷を横目に、今朝の出来事と現在の鉢屋の様子から事情を何となく感じ取った不破は、申し訳無さそうに眉を下げながらも微笑ましい彼らの姿を見て頬が弛んだ。

「こりゃあ応援したくなるね、兵助」
「ふへへ、私は応援というか巻き込まれただけだけどな。っはは!」

 今度は不破と久々知がひそひそと話し出したが、竹谷は顔を伏せたままの鉢屋が気になっていてそれどころではなかった。
 相変わらずこの手の空気が全く読めない男だ、と久々知は親友の横顔を眺めながら笑い続けていた。

「三郎、やっぱり腹壊したのか? 医務室に行った方がいいんじゃないのか?」
「……竹谷、好きって、どんな好きだよ」

 鉢屋にしてはくぐもった声が、精一杯の勇気を振り絞って出されたものだと分かったのは生憎竹谷以外の二人だけである。

「どんなってそりゃあダチとしての……ん、何だよ二人とも、その微妙な顔は」
「三郎は頑張らないと駄目だねってこと」
「ううん、でもそんな竹谷がこいつも好きだから安心しろよ!」

 釈然としない竹谷。苦笑を浮かべる不破。爆笑が収まらない久々知。
 竹谷の答えが案の定であり、暗に不破にも知られてしまったことを感じて湧き上がった羞恥もあり、鉢屋は机に頭を擦り付けて衝撃をじっと耐えていた。

「ちくしょう……やっぱり、竹谷のせいだ」

 相手の一挙一動、言動一つにこうまで持ち上げられては落とされるなんて、自分らしくなさ過ぎる。けれど、こんなにも甘い感覚を捨て去ることはできるはずのなく。

「三郎?」

 自分の名を呼ぶ竹谷の声に、心が痺れる。これって末期じゃないか、と鉢屋はとうとう頭を抱えて悶えた。

「ぐああ、俺本当に乙女過ぎる! こんなの知らねぇ、気持ち悪ぃ!」
「頑張れ三郎!」
「もうお前、自分で決着つけろよ」
「なあなあ、三郎って誰かと勝負でもしているのか? 水臭いぜ、俺にも教えてくれよなー」
「竹谷、三郎が変なことしたら僕に言うんだよ!」



 食堂の隅でわいわいと騒ぐ仲の良い五年生の姿はばっちりと目撃されて、三角関係の噂も鉢屋の叫びの件もうやむやなまま消失した。

 ――その代わり。

「ねぇねぇ兵助くん!」

 何か聞き覚えのある呼び掛けに、久々知はひくりと顔を歪めた。
 嫌な予感がする。こういう時の勘は信じろと、急性胃炎の相談をしに行ったとき顧問に言われていたことを思い出す。

「……また、何かあったのか斉藤」

 胸の奥に溜息はしまい込み振り返れば、斉藤は目を輝かせていた。

「鉢屋先輩と竹谷先輩が仲直りして、付き合いだしたって本当!?」
「……あ?」




おしまい


2013/02/06(発行:2009/07/19)
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