* * *



 授業中も上の空で八左ヱ門の横顔を眺め続けていたら、珍しく教師のチョークを避けられなかった。
 ああ不覚、と若干涙目になりながら頭を摩っていると不意に彼と目が合ってしまい三郎は焦った。
 いつも通りに、級友達の笑い声の中に八左ヱ門の声が混じって聞こえてくる。何も変わりの無い光景。
 隣の雷蔵だけが神妙な顔付きでこちらを見ているのには気付いたが、すぐに授業が再開されて三郎は声をかけることは出来なかった。

「八、あの」

 授業が終わってすぐ、声をかけたが遅かった。
 慌しく勉強道具を片付けて駆け出したぼさぼさ頭が扉から出て行くのを見出し、ああまた委員会か、とぼんやり思う。
 同じ組なのだから機会は沢山あるはずだと思い、その日は諦めたのだが。

「八、話が……」
「あ、俺は今から委員会だ。すまん」

「おい、八、聞けって!」
「一寸待て! さっき毒虫がまた逃げたって……」

「こぉら! 八左ヱ門待ちやがれぇぇ!」
「何怒ってんだよ。お前、今から学級委員長委員会だろ、さっさと行けって!」

「ちょ、本当に、少しでいいから――」
「すまん、学園長先生からお遣い頼まれてんだ! 団子買ってきてやるからなぁ!」
「ああもうとっとと帰ってきやがれ!」

 兵助に促される形で、それから三郎は何とか八左ヱ門と二人で静かに話せるよう心掛けてみたのだが、相変わらず相手は予想以上に忙しい身だった。
 八左ヱ門がいないとなると結果的に三郎は雷蔵と一緒にいることが多くなり、兵助に言われたことが引っ掛かっている身としては敢えて八左ヱ門が避けているのかもしれないと邪推するのも致し方ないだろう。

 八左ヱ門が離れる――。
 普通の友人としてさえもいられなくなるなんて、そんなの嫌だ。

 その答えだけは建て前と屁理屈で組み上げられた三郎の中で、告白前からずっと形を損なわず存在していた。



「随分と頑張ってるねぇ三郎?」

 三郎と八左ヱ門の追いかけっこを連日目撃している雷蔵は困り顔で笑う。
 今のところ唯一の自分の理解者(兵助は飯を奢らないと相談に乗らないから違う)である彼との時間が最近やたらと心休まるように思える。
 兵助は自分に辛辣だし、八左ヱ門にいたっては会話すらまともに出来ていない。
 自分は一体何をやっているのだろうか。
 重苦しい溜息を吐き出した三郎に、雷蔵は首を傾げた。

「ちゃんと伝えたんでしょう? まだ誤解解けてなかったの?」

 図星を指されて黙り込む三郎に呆れながら肩を竦める。
 こんなことならさっさと八左ヱ門に言っておけば良かったのだと追い討ちをかけようかと思ったが、最近の三郎の行動理由が透けて見えたため、雷蔵は開きかけた口をゆっくりと閉じる。
 もどかしいと自分が感じる以上に、三郎は今葛藤しているのだろう。
 ――きっとそれ以上に八左ヱ門も。

「……三郎。これ見て」

 雷蔵は部屋の隅に積んであった書物の隙間から一枚の紙が取り出した。白い紙切れの中に鮮やかな色が押し付けられている。
 三郎にはそれが何なのか一瞬分からなかったが、過ぎった既視感によって数日前の記憶が鮮やかに蘇る。
 ――花、だ。

「八がくれたんだ。お前が摘んできたとか言ってたけど」
「っ私じゃない!」
「だろうね」

 もしも本当に三郎が摘んできたのなら、直接渡すだろう。雷蔵相手ならば別段照れることもなく、土産を渡すのと同じようにあげられるのだ。
 それを知っている雷蔵は苦笑を浮かべている。穏やかな顔を眺めていればささくれ立った気分も少しは落ち着くものの、八左ヱ門の行動には苛立ちが膨れ上がるばかりだ。
 要らないと言ったはずだ。花を贈りたい相手は、雷蔵ではないから。
 全然分っていない八左ヱ門に、いつも以上に苛々が募る。
 好きだと言ったその気持ちに何の偽りもないというのに、それさえも認めてくれない。
 嫌だったら否定すればよかったのに。知りたくなければ聞かなかった振りをすればよかったのに。

 綺麗に色の残った押し花は不器用な八左ヱ門がどれだけ丁寧に作ったのか表れているようで、それをさも当然のように雷蔵に贈った事が腹立たしくてしょうがない。
 そんな風にちっとも悩まずに、自分の行動が正しいと頑なに信じる愚直さが忌々しくも感じてしまう。
 八左ヱ門の優しさが三郎は好きだ。
 けれど使い方を間違えたそれは、ただただ鬱陶しいものにしか映らない。

「お前も八も一生懸命だけど、空回りしているよ。一寸落ち着いてみたら?」
「……ああ。そうだよな」

 相手を責める前に、と兵助に釘を刺されていたというのに目的を果たす前段階でこんなに一人で怒っていても仕方がない。
 ゆっくり呼吸をして、床へ転がる。だらしなくはあったけれど慣れている雷蔵は咎めず、作業を再開すべく文机に戻った。

 開けっ放しの戸から午後の日差しが降り注ぎ、緩やかな風がそよぐ。
 雷蔵と過ごす時間は心が凪ぐ。生まれた時から一緒だったかのように錯覚するほど、お互いが空気のように傍らに存在することが当たり前だと感じているからだろう。
 横になることで少しだけまどろんできた思考の中、三郎はぼんやりと八左ヱ門の事を想う。
 ――雷蔵だったら、言葉がなくとも察してくれる。自分が一番自分らしくいられる。
 世界で一等好きなはずの八左ヱ門には言葉があっても尚分かってもらえなくて、鉢屋三郎という像を壊してまで伝えようとしても全然伝わらなくて。
 酷く、滑稽ではないか。
 これじゃあまるで、そもそも自分の選択自体が間違いだったのだと突き付けられているみたいで堪らない。
 哀しいくらいの焦燥感が胸を過ぎり、薄目で天井を見上げていた三郎は思わず助けを求めるように口を開いた。


「八じゃなくって雷蔵を好きになればもっと簡単な話だったのになぁ」


 視界の端の雷蔵の背が、訝しげに振り返ったのが見えた。
 ばつ悪げに目元を歪めた三郎は、吐き出した失言の重さが自分に圧し掛かることを感じる。
 八左ヱ門が信じている通り、雷蔵とくっつけば本当に楽だったろう。誰よりも自分を知っていてくれる存在は、卒業後も隣で笑っていてくれる相手だ。その人と結ばれればきっと自分はみっともない癇癪も起こさずに前を見ていられるはずだろうに。
 でもそうやって逃げ場のように扱うのは、他でも無い雷蔵に失礼な話だ。
 彼には彼の望んだ相手がいるように、三郎にも唯一の人がいるのだから。

 ――そういえば雷蔵は、好きな人に想いを告げられたのだろうか。ずっと迷っていたからもしかしたら言わないつもりかもしれない。
 擦れ違う自分達とは違って奥ゆかしいその気持ちが羨ましく思いながら、大きく息を付いて身を起こす。
 燻るわだかまりはどうにも溶けない。
 こんな状態で八左ヱ門とまともな話は出来そうもない。また勝手に一人で怒って、手を上げそうになるだろうことは簡単に想像付く。
 夕刻に戻ると言っていたが、まだ陽は高いから気分転換でもしてきた方が良いだろう。
 未だにじわじわと得体の知れない焦燥が心身を炙るような感覚が引かない。このままではまた、思ってもみない事を発して今度こそ八左ヱ門を傷付けてしまう。

「雷蔵、とりあえず外に出掛けてくるな。八が戻るまでには帰ってくるから」

 三郎はそうしてさっさと部屋から姿を消した。

 残された雷蔵は何処か不安そうに片割れの出て行った廊下の床を見つめていた。
 不意に、濡縁の柱から伸びていた小さな影が揺らめく。
 感じられなかったはずの気配を唐突に知覚して、弾かれるように顔を上げれば動いた影の先に黒い足先が見て取れた。
 驚愕のまま固まってしまった雷蔵に彼は困ったように笑う。力強い眉が垂れ下がり、何だか泣き出しそうにも思えて。
 心臓を掴まされたような衝動に突き動かされた雷蔵は、現実を怖れる自分を叱咤して手を伸ばす。
 触れた彼の手もまた、小刻みに震えていた。

「ごめんな……」

 何に対しての――誰に対しての謝罪なのか、問い詰めることなんて出来るわけがなかった。
 三郎が見てきたものを、雷蔵もまた見てきた。本人とは違ってほんの少しだけ遠くから。言い出せないままとなっていた三郎に乞われたから黙っていただけではない。雷蔵自身も、言い出すことを本当は恐れていたのだ。
 ――僕らは本当に良く似ているね、三郎。
 愚かな選択をしたと片割れが嘆くのならば、自分もまた自ら苦悩の焔へ飛び込んだと言えるだろう。
 きっと三郎に付き合わされているだろう長い黒髪の同級生の姿を思い浮かべ、彼だったら正面から自分達を叱るのかもしれないと少しだけ笑う。
 雷蔵はただ黙って寄り掛かってきた相手の背中を宥めるように摩り、湧き上る遣る瀬無さを噛み締めた。

「俺、怖かったんだ。いつあいつが、雷蔵の方が良いって言い出すか。俺はずっと一緒にはいてやれないからっ……だから!」
「うん……大丈夫だよ。怖がっていいんだ」

 誰の罪だと糾弾するのなら、全員の罪なのかもしれない。恐れから生まれた虚しさに縛られて、それは結果的に己自身を激しく苦しめたのだから。

「……お遣い変わってあげる。だからちゃんと伝えてきな。ね?」
「……ありがとう……」

 滲んだ肩口の切なさに胸の奥が痛んだが、もう慣れた。
 雷蔵はほんの少しだけ腕に力を込めて、耐えられずに咽ぶ大切な親友を勇気付けるように抱き締める。
 熱いもので歪んだ視界を伏せると耐えられなかった雫が一つだけ零れたが、腕の中の彼には気付かれず済んだ。





つづく→


2013/02/06(発行:2009/10/10)
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