陽気の良い縁側を、ぱたぱたと女性が忙しなく歩いていた。
手の盆には伏せられた湯飲みと握り飯が三つほど。空いている片手には薬缶が揺れている。
彼女はひょいとある一室を覗き込んだ。
開きっ放しの障子の向こうで、少年の情けない声が聞こえていた。
「あいてて! 若様、まだそれを振り回すには早いですよ!」
見れば楽しげな声を上げている赤子が、玩具代わりの小さな棒を少年に当てている。
少年は痛がっている様子もなく、苦笑しながら赤子を諌めていた。
暗い影を背負っていた頃とは全く違う、明るいその姿を見て、女性は心底嬉しそうに口元を緩めた。
「爆覇丸ったら遊ばれちゃっているわね」
「あ、奥方様」
呼ばれた爆覇丸は顔を上げ、恥ずかしげに笑った。
赤子も声に反応したのか、女性に向かって手を伸ばしている。
「子守りしてもらってありがとう。まだお昼食べていないでしょう? 一緒に食べましょう」
そういって女性は、片眼を瞑って見せた。
爆覇丸が爆家の本家で過ごすようになり、数年が経った。
始めの頃は分家の反発が凄まじかったものの、今ではなりを潜めている。諦めてはいないだろうが、手出しができないため押し黙るしかないのだろう。
本家と分家が仲違いすることを爆覇丸は懸念していたが、それよりも温かな家庭の中にいられることが何よりも嬉しくて仕方がなかった。
この場所にいられなくなることが、今では怖くてしょうがない。
当主である爆熱丸と、姉と、それから夏に生まれたばかりの彼らの子供。その中に敬愛している伯父の姿がないことが残念だが、別に会えないわけではない。
やっと廻り合えた自分の居場所。
普通の家の子であればありふれた光景だろうが、今この時の一瞬一瞬が爆覇丸にとっては何よりの宝物だった。
昔、守るべき者を見つけて全力で守りたい、と心に誓っていた。
母を助けた父のように。命と引き換えに自分を生んだ母に。危険な立場だと言いつつも自分に会いに来てくれた伯父のように。
殺されると知った時からその希望の炎は小さくなってしまったが、今再び灯り始めたことを爆覇丸は感じていた。
この人達を守りたい。
この人達の幸せを守りたい。
それが、何も持たない自分にできる精一杯の恩返しなのだ。
「そういえば爆覇丸。貴方、そろそろ誕生日よね?」
「え? そう、でしたか?」
一頻り食事を終えた爆覇丸は、姉の言葉に瞠目する。
この屋敷に引き取られてから毎年祝いをされるようになったものの、今まで自分が生まれたことを感謝されるということはあまりなかったため、彼は自分の誕生日というものに酷く無頓着だった。
今でもその日にちに違和感を感じるほどだ。よほどな環境だったのだろうと、爆熱丸達は眉を顰めたものだ。
相変わらずの反応の薄さに困ったように笑った姉を見上げ、爆覇丸は首を傾げる。
まるで覇王丸がいつも浮かべていたような表情なのだ。成長を見守ってきた親のような顔で、爆覇丸を見ている。
「本当に忘れているの? 貴方が待ちに待っていた元服でしょう」
「……っ!? 本当ですか!!」
その言葉に、爆覇丸はぱっと目を見開く。
顔色を窺うように常に微かな伏目の彼が、そうして喜びを露わにして目を開くとまだまだ子供なのだと感じさせる。
早く大人になりたいと、誰かを守れるような人になりたいと、そう願い続けてきた爆覇丸にとって、元服という言葉は何よりも贈り物だった。
形も性根もまだ幼いと痛感している自身にとっては、世間体だけだとしても大人になれるという証が堪らなく大きなものに見えていた。
瞳を輝かせる弟の姿に、夫人は少しばかり寂しそうに笑った。
共に暮らし始めてまだ数える程度しか年を越していないのに、小さな彼はもう大人への憧れを現実に変えられるくらいに成長してしまったのだ。
その事実が、何だか嬉しいような哀しいような。
夫である爆熱丸と一緒に、この子を守ろうと決めたのはいつだったろうか。
けれど本当は爆覇丸の存在に救われていたのは自分達だったのかもしれない、と彼女は苦笑を浮かべた。
爆家も覇家ほどではないにしろ難しい立場に立たされている。
この戦国の世が、力と大義名分を大いに抱えている一族を放っておくわけがなかった。
何より今最も危ぶまれているのは、爆家と覇家の領地を内包している国との関係だ。
自治を保っているからといって、国の領内に二つの家が存在する事実は変えられない。しかもその武道に長けた一族を召抱えているわけでもなく、国主はいつ寝首をかかれるか不安でしょうがないだろう。
また、いくら一族と国が結びついていないといっても、諸国が黙ってはいない。
何せ爆家と覇家が守っている刀は、天宮を制する者の証となる五聖剣のうちの二本。
他の刀の行方が知れない現在、その宝剣を狙う者は後を絶たない。何せ、天下を取るためならば手段を選ばない――五聖剣の伝説も今となっては御伽噺にも近いようなものなのだ――不埒な輩が、嘆かわしいことに世にはごまんといるのだから。
そんな御家事情に聡い爆覇丸は、早く義兄や姉、伯父の力となりたかった。
かつて父が、母が、命をかけてまで譲らなかった守りたい想い。
爆覇丸は彼らと同じく潔い生き様を夢見て、それだけを未来への糧として今まで生きてきた。
その念願がもうすぐ叶うのだ。
爆覇丸の思いを覇王丸から聞いていた夫人は、彼の考えていることが何となく分かった。
両腕の中に静かにしている息子を抱き直し、彼女は少しだけ心配そうに口を開いた。
「爆覇丸、貴方、前に言っていたこと……撤回してもいいよの?」
居住まいを正し、彼女はそう告げる。
前に言っていたことというのは、爆覇丸がこの本家に来てから半年程経った時のことだ。
本当の家族のように扱われ、彼は全身で幸せを感じていた。
だからこそ爆覇丸は選んだ。悩まなかったわけではない。けれどもう決めたことだった。
――俺は爆家の本家に仕えます。
彼はそう二人に告げた。
義兄上や姉上、と呼ぶのは止め、お屋形様や奥方様と身分を弁えた物言いになった。
自分の立場から遠慮をしたのかと思った二人は、爆覇丸を何度か説得しようとした。
だが爆覇丸はそんな二人の優しさをありがたく思いながらも、首を縦には振ろうとしなかった。
曲りなりとも分家であった爆覇丸が本家の二人の弟と扱われれば、後に生まれてくる二人の子供を薄汚い継承者争いに巻き込むだろうと彼は予想していた。
ただでさえ、本家と分家は仲違いをしている。
自分の存在をだしにして本家を攻めることくらい、分家の者達は何とも思わないだろう。本家に爆覇丸が入った時でさえ、再三喚いていたのだから。
爆覇丸はにこりと笑い、姉を安心させるように穏やかな言葉を紡ぎ出した。
「気持ちは変わっておりません。爆の本家は四面楚歌。若様もお生まれになり、めでたいと同時に危険もございます。俺は、お屋形様の力になりたい」
真っ直ぐな清い眼を、不思議そうに赤子が覗き見ている。
爆覇丸は双眸を細めて、小さな甥を眺めた。
「我侭かもしれません。まだ非力かもしれません。けれどもこの思いだけは、本物です」
爆覇丸の姿はもう一人前の男に見える。
夫人はそれを見て、母を思い出す。
少女といっても過言ではなかった母は、一人ぼっちで悲しそうに笑っていた。
けれど背筋だけはしゃんとしており、どれほどの中傷に遭おうとも自分を守ってくれていた。
そんな母に真実の笑顔をくれた青年。
二人の残像が、目の前に座る弟に重なって見えた。
+ + + + +
姿見の前で爆覇丸は思わず歓声を上げかけた。
子供っぽい自分の行動に恥ずかしさが込み上げ、口を開けただけで終わったが顔は赤面している。
爆覇丸に鎧を着せた爆熱丸は、それを部屋の真ん中で楽しそうに見つめていた。
「お屋形様、本当に俺が貰っても宜しいのですか?」
はしゃぐ義弟の上擦った声音を聞きながら、爆家の当主は大仰に頷いた。
実際に着ている爆覇丸よりも、心なしか嬉しそうにも見える。
「覇王丸殿から頂いた。祝いだそうだ。良く似合っているよ」
「覇王丸……様が?」
おずおずと自分の鎧を見下ろし、爆覇丸は最近なかなか会えない伯父の姿を思い浮かべた。
爆覇丸が引き取られ、本家に跡継ぎが生まれ、覇王丸は重なっていた心配事の荷が下りて一気に老け込んでいた。まだ覇家の問題が残っている、と指摘した所、自分の所より他の方にやきもきする性分なんだ、と笑っていた。
爆熱丸は度々相談に、彼の元を訪れている。
この鎧も、その時に貰ったのだろう。
「きちんと儀を行いたいところだが……すまないな、爆覇丸。私の采配が足らぬばかりに」
頭を下げた義兄に、爆覇丸は慌てた。
自分を受け入れてくれただけでも大した恩義なのだ。ましてや爆覇丸はもう爆家の分家の者でもなく、覇家の血縁者でもない一家臣だ。
臣下の身である爆覇丸のために華々しい成人の儀を行えば、後々何か言われるのは爆熱丸達である。
「俺は貴方方に祝ってもらえるだけで嬉しいです。ただ、その……」
真っ直ぐと見返してきた爆覇丸は、少し困ったように俯いた。
爆熱丸は小首を傾げたが、彼の視線の先にある姿見に気付き微笑んだ。
「ああ、覇王丸殿にご報告だね? いいよ。爆覇丸が行けば、きっとあの人も喜ぶさ」
「あ、ありがとうございます! では、少々お暇をいただきます!」
覇王丸は呆然と立ち竦んでいた。
広げられている書状を握る手が微かに震える。
「……五聖剣之道をここに持て」
静かな口調で、彼は女中に命じる。
すぐさま戸口から曇りなき姿の刀が、そっと献上された。
「旦那様」
「……わしは大至急、爆家の集落へ向かう。留守は頼む。もし万が一があれば、皆に逃げよと」
五聖剣之道と己の刀を腰に挿し、覇王丸は女中にそう伝えた。
彼女は手紙に何が書かれているのかは分からなかったが、持ってきた者がこの国の伝令だったということは記憶している。
良くない知らせだ。
悲痛な面持ちのまま彼女は頷いた。
覇王丸は厩へ行き、普段は乗らない馬を引いた。主人の尋常ではない様子に愛馬も困惑した様子だ。
事実、焦燥感が覇王丸の中で沸々と湧き上がっていた。
この文は脅しなのか、勧告なのか、虚言なのか。情報が今の状況では判断がつかない。だからこそ爆家の――それも本家へ向かわなくてはならなかった。
「くそっ! このような時期に!」
悪態を吐きながら、覇王丸は馬に跨り手綱を引いた。
明け方近くの薄い闇の中、彼は天を怨んだ。
爆覇丸の元服は明日だというのに。
あれほどまで己の出生を呪いながらも大人になることを夢見ていた少年に、これ以上の苦しみを与えるというのか。
空が白み始めた頃、爆覇丸はそっと本家の屋敷から出た。
本来ならば日が照っているまっとうな時間に出かけたかったのだが、誰かに見つかるとややこしいため早朝を選んだ。
無論、当主夫婦には話を通してある。
――とは言っても、彼らには自分の姿をいち早く伯父に見せたいからと告げた。
それは確かに真実なのだが、半分は嘘だった。
覇家に行くには、どうしても分家の前を通らなくてはいけない。それが爆覇丸は大層嫌だった。
単なる中傷なら自分一人が我慢すれば問題ないのだが、分家の者達は過去のことも蒸し返してそれを爆熱丸に奏上する。それが嫌なのだ。
本家内にも爆覇丸を良くは思ってない者も多いため、度々陰口を吐かれている。
これ以上夫妻に迷惑をかけることも憚られ、ましてやお暇を貰った身である。今できることは、こうしてひっそりと人々が表に出てこない時間帯にこの集落を抜けることだ。
「凄い霧だ……。視界が悪いな」
爆覇丸は辺りを見回しながら、屋敷から集落へ続く緩い坂道を歩いていた。
この辺りの地形は山に囲まれた盆地であるから、こうして朝はよく霧が発生する。上がり始めたばかりの太陽に照らされ、水蒸気の帳がきらきらと光っていた。
昔、覇王丸が教えてくれたことを思い出す。
自然の作り出す景色は大層美しく、趣があるものだと。
日の輝き。雲の陰影。遠く聞こえる鳥の声。それらを感じながら、爆覇丸は笑みを浮かべて集落へと降りていった。
朝霧に埋もれた緑の中を、爆覇丸は慣れた足取りで歩いていた。
着慣れない鎧がかしゃりと鳴ったが、それさえも歓喜を呼び起こすものでしかない。
もうすぐ覇家の村。覇王丸はどんな顔をして迎えてくれるだろう。
そんなことを考えながら、爆覇丸は歩を進めていた。
「……蹄の音?」
その時、爆覇丸の耳に荒々しい馬の駆ける音が聞こえてきた。
足を止めて辺りを見回してみる。
穏やかな集落での暮らしの中で全く聞いた覚えのない早馬の足音は、どうやら彼のいる場所よりも僅かに上から響いているようだ。
まるで人目を避けるように山中を駆け抜ける馬。
既に日は随分顔を出しつつある時刻だから、誰かが馬を操っていても不思議ではない。
だが、爆覇丸は漠然とした不安を感じていた。
それが何なのかはこの時分からなかったが――……。
蹄の音はどんどん遠くへ行ってしまった。
爆覇丸が向かっている覇家の村の方からやって来たようで、木々に反響しているためその馬が何処へ向かったのかは分からなかった。
だが爆覇丸は不可思議な焦燥感に駆られるが如く、止めていた足を勢い良く動かし始めた。
早歩きは徐々に走る形に変化し、彼は覇家の方角へと急いだ。
そろそろ森の出口が見えてくるはずの距離だった。
駆けていた足を止め、ようやく爆覇丸は安堵を覚えた。
ふと己の頭上に降り注ぐ光に気付き、霧の晴れ間を見上げる。もう随分薄まってきたようだ。
いつものようにそこにあるはずの青い空を探し、彼は凍りついた。
――赤い、空。
(違う。赤く染まっている。焼け尽くす炎に照らされて)
――黒い、雲。
(あれは煙。禍々しいほどの黒は、炭化されていく何か)
聞こえてくるのは儚い警鐘。僅かに聞こえる、何かの叫び。
爆覇丸は背筋を震わせた。
そして、先程感じた焦りが今度こそ形となって彼を追い立てた。
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