がたがたと足元が崩れ落ちそうだった。
 嫌な汗が全身から噴き出し、薄気味悪い感触が肌を伝っていく。

 爆覇丸は両手を縁側の床に素早く下ろし、腰を折った。そのまま頭を低く俯かせ、額が掌にぐっと近づく。
 柔らかな午後の日差しは心を和ませるものではなく、得体の知れない何かに変わった。自分の中に芽生えかけていた、男への不可思議な感情には瞬時に蓋がされた。

 爆覇丸は震える声を、縮こまる身体を持て余しながら、今までの自分の言葉や態度の横柄さに恐怖していた。
 息苦しくて、もはや零れだす声音が自分の物だとすら認識することも叶わない。

「本家当主様とはいざ知らず、失礼極まりない所業、どうかお許し下さい……」
「っ爆覇丸!」

 土下座をしながら謝り続ける甥に、覇王丸は慌てた声を上げる。
 それは制止のような気もしたが、今の爆覇丸の元へは届かない。彼にはこの後に起こりうるだろう事柄しか頭に無かった。

 爆家の者――それも、本家の血筋の者に伏礼をしなかった。口答えをした。感謝の言葉も口にはしていない。
 たったそれだけ。それだけが、爆覇丸が最も恐怖する対象だった。
 昔、分家の当主に頭を下げなかったことがある。その時は、酷い虐待じみた折檻を受けた。
 殴られることは間々合ったが、その日は殆ど気絶するように寝た覚えがある。

 それを、本家の。爆熱の名を受け継いだ者に対して犯した。
 自分を殺せる権限を持っている彼に。
 近い未来にそうなってしまうだろう事実を、自分は愚かにも早めてしまったのだ。

 考えるだけでも身が凍るような思いだった。
 今しがたまで抱いていた温かなものまでも粉々に砕け散ってしまいそうな、そんな絶望感が心を刺し貫く。


 死ぬんだ。
 もう、生きられない。






「……顔を上げなさい、爆覇丸」

 頭上から溜息と共に穏やかな声音が降り注いだ。
 驚き竦む少年の肩に、あの優しくて温かな手が触れる。爆覇丸の身体が目に見えるほど緊張した。

 言葉に従い、ゆるゆると顔を持ち上げる。
 男は――爆熱丸は、包み込むような微笑を称えて膝を付いていた。
 心配そうに覗き込むような様に、爆覇丸は困惑する。恐れ多いと言わんばかりに後退しようにも、その手が離してくれなかった。

「分家の者が君に何を言ったのか、大体の察しはついているよ。何度も私や父上にあの半端者を殺せと示唆してきたからね」

 残念そうに眉を寄せ、爆熱丸は呻くように呟く。
 爆覇丸はただそれをぼんやりと聞いていた。


 半端者。


 父と母の、残してくれた爆と覇の誇り。
 それは純血種達から見れば、ただの穢れ。
 爆覇という、どちらにも属せないような呼び名が示すように。

 それは、酷く鈍くて重い痛みを爆覇丸に残した。


「けれど、爆覇丸」

 爆熱丸はその暗い気持ちを払拭させるように、小さな笑みを作った。
 大丈夫だと言う様に、乗せた手で爆覇丸の丸まった背筋を真っ直ぐ上げた。

「あのおにぎり、美味しかったろう?」
「え? ……あ……」

 突然の脈絡の無いような言葉に、爆覇丸は困惑した。しかし、すぐにそれが何を示すのか理解した。




 ――『お兄ちゃんの奥さんが作ってくれた特別製の愛情おにぎりだぞ』――




「今日覇家に来たのは、覇王丸殿に君と会わせてもらうためだった」


 ああ。


「彼女は君におにぎりを渡してやって欲しいと懸命にこさえたよ。今はこれくらいしか出来ることがないからと」


 どうして。


「一握り一握りに君への想いが込められている。彼女はずっと心配していたからね」


 どうして、なんだ。


「君に会いたいと思っていた。私にとっても、彼女にとっても、君はたった一人の弟だから」




 どうして、この人達は――。 




「爆覇丸、君を引き取りたい。家族に、なってくれないかい?」





 爆覇丸は次から次へと流れ出ていく涙の奔流を止めることが出来ず、ぐちゃぐちゃの顔で爆熱丸と覇王丸を見比べた。
 彼らは優しく笑っている。
 手を伸ばしても構わないのだと、両手を広げて待っていてくれている。

 もう怯えなくてもいいのだと。

 溢れてくる熱い雫を隠すことなく、爆覇丸は爆熱丸の胸にすがり付いて泣きじゃくった。嗚咽を隠すこともなく、大人の仮面を脱ぎ捨てて年相応のまま。
 まだ小さな身体を、爆熱丸は緩く抱き締めてやった。息苦しくならないよう、背中を摩ってやる。
 その姿は、まるで本当の兄弟のように見えた。


 覇王丸は申し訳なさげに爆熱丸を見つめた。けれどその表情は安堵の色が濃い。
 爆熱丸は苦笑して、ようやく落ち着いてきた爆覇丸の肩をそっと叩く。
 目元を真っ赤に腫らした彼は、背後で自分を見守っている伯父の笑みに気付いた。

 切なそうに目を細めるのは、過ぎて行った日々を思い出しているからであろうか。辛くても毎日を過ごしてきた爆覇丸は、ずっと見守っていてくれた覇王丸の存在だけが支えだった。
 そんな彼に頼りっぱなしであった自分が嫌だった。いつの日か、助けになれればとも思っていた。
 けれど。
 それも、今日までなのだと思うと遣る瀬無い気持ちが押し寄せる。

 爆家には、彼を連れて行けない。
 きっと分家で一人だった頃よりも、会いに行くことはできなくなるだろう。

 本当の家族ができたことがとても嬉しかったが、同時に覇王丸と別れなくてはならないことが寂しかった。

「そんな顔をするな、爆覇丸。うちは見たとおりの貧乏集落だから、引き取ることができなくて本当にすまない」

 だが、と覇王丸は顔を上げた。
 陰を背負い続けていたその瞳が、今は晴れ渡る空のように澄んでいる。
 それを始めて見た爆覇丸は、目を見開く。

「俺はお前に会いに行くさ。いつだって、そうだったろう?」

 そうして、伯父は一番の笑顔を浮かべてくれた。
 憧れたあの大きな手で、爆覇丸の頭を撫でて。

「……うん!」

 父親の形見の刀を受け取り、爆覇丸は大きく頷いた。
 彼もこの時、生まれて始めての満面の笑顔を浮かべていた。





 この日を境に、爆の分家の離れには人影がなくなった。
 代わりに、本家に爆覇丸という子供が正式に引き取られることとなった。

 当主夫妻は血縁者である彼と長い思い出話をする。
 爆と覇の間で苦しんだ名無しの爆覇と、その両親の数奇な運命の物語をずっと、ずっと――。





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