森の中は湿っぽく、曇りの天気も相成って一層薄暗かった。
 飛び出してきてしまった爆覇丸は、あれほど急いて動かしていた足が重くなっていくのを感じた。

 未だにせり上がって来る熱いものは、激昂の残滓なのか哀しみの思いなのか判別はつかない。
 けれど、胸に残るものはただ虚しさだけで。
 爆覇丸は再び溢れそうになる涙をひたすら堪えた。


 ぼんやりと歩き続けていた爆覇丸は、不意に手元を見やった。
 刀が無い。
 腰元にも形見の品は見当たらず、あの時に放ってきてしまったのだと今更気付く。
 仮にも父親の残した立派な刀だったのに、酷い扱いをしてしまったと後悔が過ぎる。

 覇王丸にとってもあの刀は、亡くしてしまった義弟の形見だ。
 それを、怒りに任せて投げ捨てた。

 彼にとっては何気ない言葉だったのかもしれないし、家族のいない自分を気遣ってくれたのだろうと冷静さを取り戻した今ならよく分かる。

 覇王丸はきっと傷付いただろう。
 いつも余裕の構えをしながら、困ったように笑う唯一の理解者。爆家との断絶の事件で、家族を失ってしまった人。
 その彼が、残された爆覇丸を大事に思っていないはずがないのだ。


 一度だけ、覇家について尋ねたことがあった。
 爆家も覇家も一国の中に存在するが、両家はそれぞれ領主として土地を自治している。そのため彼らには仕える主は今のところいない。

 その理由は、両家が共に五聖剣のうちの二本を守護する一族だからだった。
 爆は五聖剣之武、覇は五聖剣之道を守り、いつか現れる将軍に刀と共に仕えるという使命が代々伝わっている。彼らは、天宮を治める器を持ち得ていると信じた相手にのみ仕えるのだ。
 そのためこの土地を治める国主には、あまり良い感情を持たれていないのだと覇王丸は爆覇丸に教えていた。


 両親を流行り病で亡くしたため歳若く当主に就いた覇王丸は、徐々に衰退する家を一人で支えていた。
 元服したばかりだったと聞けば、今の爆覇丸とそう変わらない歳のはずだ。
 国主の圧力にも耐え、恥を忍んで爆家の援助も受け、覇王丸はただ一族に課せられたものをまっとうしようと足掻いた。

 彼の父親が拾ってきた戦災孤児――爆覇丸の父――は、そんな彼の唯一の家族だったのに。
 爆家への使いを任せたばかりに、爆覇丸の両親は出会ってしまった。覇家にいながらも覇家ではない男。爆の分家の正室でありながら捨て置かれた女。
 その二人が結ばれることは破滅の道であると、覇王丸はきっと気付いていただろう。

 それでもたった一人の義弟に、義弟を愛した少女に、幸せになってもらいたかったのだろう。


 そう思えるのは、彼の言葉の端々が不器用な優しさを伝えてくるからで。
 救えなかったと悔いる彼の横顔を一番近くで見続けてきたからで。


「……っ……ごめんなさい、ごめんなさい……」

 懺悔の言葉が漏れ出た。

 家族じゃないわけがないのに。酷いことを、言ってしまった。
 覇王丸はきっと、今では何処にも残されていない血の繋がりというものの大切さを爆覇丸に教えたかったのだろう。
 失ってしまってからでは、会えなくなってしまってからでは遅いということを、彼は痛いほどよく知っているのだから。

 お祝いに、本当は行ってみたかった。
 殺される理由を見に行きたいわけじゃないけれど、あの人はたった一人の姉さんだから。一人ぼっちだった彼女に、祝福を送りたいのに。

 死にたくないというのは簡単だけれど。
 言ってしまえば覇王丸はどんなことをしてでも助けてくれるだろう。けれどそれで、今まで側にいてくれたあの人を失ってしまったら。


 ――今度こそ、本当に自分という存在は意義を無くしてしまう――。


 想像しただけで、腰が抜けそうになった。
 へたりと木の根に座り込み、爆覇丸は膝に蹲った。
 謝りたいけれど、これ以上一緒にいたら困らせるだけだ。
 泣きたくなる衝動を抑えながら、時間だけが過ぎ去っていった。



「迷子かい?」



 急に頭の上に、温かな掌を感じた。
 慌てて顔を上げた爆覇丸は、淡い緑色の瞳と視線をかち合わせた。
 見慣れない青年が優しげな面差しでそこに立っていた。

「お兄ちゃんは森を抜けている最中だけど、とりあえず集落まで一緒に連れて行こうか?」

 まるっきりの子ども扱いにむっとしたが、それを指摘する元気は無い。
 青年はニコニコと人好きをする笑みを浮かべながら、道無き道を指差した。爆覇丸の来た道とは逆方向だった。
 逡巡した爆覇丸は、今の状態で覇王丸に会える自信も無く、またいつまでも見知らぬ場所にいることも憚れて青年の手を受け取った。

 上機嫌で歩く青年に連れられ、爆覇丸はぼんやりとその手と顔を見比べていた。
 他人に手を繋いでもらうなんて、きっと始めてのことだ。
 思いのほか温かいその感触に、爆覇丸は沈んでいた気持ちを包まれたように感じていた。
 すると安堵感が急に襲い掛かり、腹の虫が鳴り響いた。

「坊、お昼まだなのかい。じゃあこれを上げよう。お兄ちゃんの奥さんが作ってくれた特別製の愛情おにぎりだぞ」

 真っ赤に顔を染めた爆覇丸に笑いながら、青年は包みを渡してくれた。
 まだ温かく、作り立ての湯気がたっている。彼はきっとそう遠くはないところから来たのだろうと予想がついた。

 遠慮するなと言われ、包みを開いた爆覇丸は初めて艶やかに光る白い米を見た。
 驚きと歓喜で染まる表情を嬉しそうに見やりながら、青年は食事を勧めた。

「美味しそうだろう? 食べているうちに着くからね」

 そう言って、彼は優しい手付きで手を引いていってくれた。
 始終微笑みを絶やさずに、他愛のない話をしながら。



 伯父以外の手はきっと冷たいのだろうと思っていたのに。
 冷たい者しかいないと思っていたのに。

 こんなに温かい人もいるのだと、爆覇丸は初めて知った。






 + + + + +






 森を抜けた爆覇丸は、自分の住んでいる爆家の村とは正反対の寂れた集落に唖然としていた。

 本家は村の丘にあり少しだけ離れているのだが、その眼下には城下町とも呼べるほど家々が立ち並んでいた。人の往来も多く、活気がある。分家はその村の側にあるため、敷地内でも塀の向こうから賑やかな様子が伝わってきていた。
 しかし、ここは。

 田畑は故郷と同じように集落の周りに広がっていたが、建っている家の数が明らかに少ない。瓦屋根も見当たらず、殆どが茅葺きだ。百姓が多いのだろう。
 道をすれ違う人々もどこかくたびれたような印象が付き纏っていた。
 けれど、爆覇丸を連れて歩く男が朗らかに挨拶をすると、村人は同じように生き生きとした表情で男に軽く会釈を返した。

 この男は村人と随分親しいように感じた。
 怪訝に思い仰ぎ見てみれば、邪気の無い笑みを返されてしまい爆覇丸は戸惑う。
 そんな子供の心理を知ってか知らずか、男はのんびりと集落を突っ切っていく。
 やがて、一軒の屋敷に辿り着いた。



「まあ、いらっしゃいまし! あいにく若旦那様は私用で出ておりますが……」
「相変わらず放浪癖があるのかな? こちらも私用だから、ちょいと待たせてもらっても構わないかい?」

 玄関口に出た女中らしき女性は、愛想の良い笑顔を浮かべて男を向かい入れた。
 女中に断り、男は慣れた様子で奥の間へと進もうとした。

 爆覇丸は困った。
 連れて来られたものの、このような格式の高そうな屋敷に何の縁もない自分が入っていいわけが無い。
 繋がれたままの手を見つめながら、彼は戸惑いの視線を男に投げかけた。

「こちらの子は?」
「ああ、この子は私の親戚さ。森で迷子になっていたからついでにね」

 女中の質問に当然のように返された答えに、爆覇丸は驚き目を瞠る。
 男は例のあの笑みを浮かべているだけで、まごつく少年を屋内へと誘った。


 屋敷の中は思ったよりも古めかしかった。外の集落と同じようひっそりと静まり返り、静かに時だけが刻まれ続けているような場所。
 分家の屋敷では、常に使用人が忙しなく働いている。そこから切り取られたように爆覇丸の住む離れは、生活の気配が殆ど感じられなかった。
 その独特の寂しい空気が、この屋敷の中には満ち溢れている。
 爆覇丸が出会った女中は玄関先の女性だけで、ゆったりと廊下を行く男の他には誰の影も見えなかった。

「……何でさっき、あんなこと言ったんだよ」

 奇妙な静寂の中、ぽつりと爆覇丸は漏らした。
 見知らぬこの男に親戚呼ばわりされる覚えなど、自分には無い。
 家族と呼べる人も、家族になれる血を持つ人も、今は爆覇丸の側にはいない。
 だからこそ余計に男の言葉が、胸に刺さった。

「おや違ったのかな? 坊の名は、爆覇丸というのだろう?」

 思わず、爆覇丸は足を止めてしまった。
 男は柔らかな微笑みを湛え、彼に振り返る。
 その気質を映したような緑の瞳がじっと答えを待っている。

 どうして、という思いが胸を過ぎる。
 爆覇丸なんて呼んでくれたのは、世界でたった一人だったのに。傷つけて、置いてきてしまったあの人だけだったのに。

「坊の話はよく聞いている。君のお父上には昔よく遊んでもらったしね」

 男は廊下を曲がり、縁側に出た。
 立ち尽くしたままの爆覇丸を手招きし、陽気の当たる床に腰を下ろした。
 見やれば、太陽は随分と南に上がっている。腹の虫が鳴るはずだ。

 ――そして同時に、覇王丸の元から逃げ出して随分と時間が経ったのだということを、爆覇丸に無情に告げている。

 謎かけをするように話す男をじっと見つめながら、爆覇丸は伯父の姿を思い浮かべた。
 話を聞いたというのはきっと覇王丸からだろうとは予想がつく。分家の者が他人に話すはずが無い。
 ますます男の正体が分からなくなり、爆覇丸は目を細めた。


 その時、陽だまりの回廊に慌しい足音が響いた。
 音源は徐々に近づき、まずは男が顔を上げた。楽しげにその横顔が笑った。

 きっと屋敷の主が戻ってきたのだろう。厄介者の自分は、きっと摘み出される。
 そう思いながら俯くと、男が爆覇丸の肩をぽんと叩いた。
 相変わらず、温かな掌の感触。
 彼は振り返るように、無言で爆覇丸を促した。


 背後で、足音が止まる。
 乱れた呼吸音に混じった、馴染みのある声に呆然とする。


「こ、の、馬鹿者! あの森から山に入ると熊も出るんだぞ! それを、刀も持たずに!」
「覇王……丸……」

 肩で息をつきながら、覇王丸はいつもどおりに叱り付ける。
 いつもどおりに。爆覇丸の道を正そうとする、真っ直ぐな声音で。爆覇丸への心配と無事だったことに対する安堵感が、惜しみなく滲んでいる。
 そして、いつも少しだけ哀しそうに見える双眸が、激しく揺らいでいたことを爆覇丸はしかと見た。

「さっきは余計なことを言った……。お前を傷つけてばかりだな」
「そんなわけない! 俺こそ、酷いこと、言った。父上の刀にだって、形見なのに」

 喋っているうちに、涙が溢れた。
 殺されてしまう要らない自分を、自分勝手で周りが見えない自分を、こんなに汗だくになって必死に彼は探してくれた。
 それだけで。それだけで。


 胸が、詰まりそうだ。


「ずっと悩んでいたお前に助けを差し伸べることができなかった。お前が何を言われたのか、分かっていたのに」

 静かに泣く爆覇丸の頭を撫でながら、覇王丸は後悔の念が篭ったような言葉を紡ぐ。
 微かに甥の肩が震えたが、無言でそれごと抱き締めてやった。

「覇家にはお前を救える力が無い。お前の姉さんと会えばどうにかなるかもしれないと思った。――ごめんな、爆覇丸」

 爆覇丸はもうよいと、首を何度も振った。
 自分の知らないところで、覇王丸はずっと奔走していたのだろう。少ない言葉の中から、切々とその思いが伝わる。
 大きくて温かい彼は、自分を見捨てたのではない。ただ、助けたかっただけ。

「もう、いいよ、覇王丸。もう、いいんだ」

 その気持ちだけで、十分だった。




 男は、嬉しそうに二人を見守っていた。
 ようやく涙が止まり、覇王丸の腕の中から下ろしてもらった爆覇丸は、男を見つめた。

 この屋敷が、この集落が、何であるのかを爆覇丸は悟った。
 ここは覇家の地。森を挟んだ向こう側にある、傾き行く覇王丸の故郷。建物だけが大きくて、家人の少ないこの屋敷が彼の育った思い出の場所。

 そんな場所に堂々と入ってこれるような存在。そして、覇王丸や爆覇丸の父との交流。
 自分に所縁のある者だと言う彼は何者なのか、心配事が払拭された今では燻っていた疑問がさらに熱を帯びた。

「仲直りしたようで何よりだ、爆覇丸。おにぎりが利いたかな?」

 能天気な物言いに苦笑し、爆覇丸はゆるりと頷く。
 美味しいおにぎりの温かさ、それから彼の優しさが何よりの薬だったような気がする。

 そんな男の気の抜けた笑みに呆れ返り、覇王丸は大きな溜息を吐き出した。

「お前は拾い癖が全く治らんな、爆熱丸。爆覇丸を保護してくれたことには感謝するが――」

 何気ない言葉に、爆覇丸は伯父の顔を瞠目しながら見上げた。
 それからすぐにへらりと笑う優男の顔を見やる。

 震えが走った。背筋に冷たい汗が流れる。
 口元を戦慄かせながら、爆覇丸は喉から声を絞り出した。

「爆、熱……丸……?」





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