「爆覇! 爆覇はおるか!」

 爆家の分家当主の怒鳴り声が、広い屋敷中に響いた。
 力を入れて歩んでいるせいかその足音は、縁側の板を踏み鳴らし、すれ違う者の身体を畏縮させる。

 一族の中で最も爆覇丸を疎んじているのは、彼だった。
 それは当然だろう。
 爆覇丸は現在、彼の養子としてこの家にいる。望んでいなかったその子供は正妻の不義の子であり、末席に加えているとはいえ年齢上では長男にあたる。ともすれば自分と直接血の繋がっている側室との子と、跡目を争える存在になるかもしれないのだ。

 そのため一層、爆覇丸への風当たりは強く理不尽なものとなっていた。
 今日とて別段用事があるわけではないのに、大声で鼠を叩き出すように呼びかけていた。




 薄暗い怒りを含んだ声に、爆覇丸は慌てていた。
 脆くなって少しだけ開いた塀の裂け目に、急いで痩身を滑り込ませる。

 当主の無意味な怒声には慣れているが、現状を見られればまずいことになる。

 自分の住んでいる離れの床下に、父が子供の頃に使っていたのだと言われて渡された刀を静かにしまいこんだ。
 辺りをもう一度窺い、爆覇丸は安堵の息を吐き出す。
 足音は、随分と近くまで聞こえ始めていた。


 少年は、度々屋敷をこっそり抜け出していた。
 行き先は人気の無い近くの森。覇王丸に無理をいって稽古をつけてもらうよう約束しているのだ。
 無関心な家の者達が自分に武芸を教えてくれるはずもないことを良く知っている爆覇丸には、彼以外頼める人物はいなかった。

 爆覇丸は一刻も早く強くなりたかった。
 そしてこんな家からは出て、父と母のように守れる価値のある人と出会い、その人のために生きたかった。
 ――亡くしてしまった父と母のように、守れることもできず、会合することもままならないことは、嫌だった。

 だから、爆覇丸の立場を気にする伯父に必死で頼んだ。
 自分の立場も危うくなるというのに、相変わらず爆覇丸の元に会いに来る彼は、苦笑しながらも了承してくれた。
 そして義弟の形見でもある、思い出の詰まった刀まで自分にくれたのだ。


 そんな伯父の思いを無駄にはしたくない。
 ばれてしまえば、全てが水の泡となってしまう。
 爆覇丸は細心の注意を払い、部屋と自分を注意深く見た。

 出る前と変わりは無い。
 体に付着していた埃や泥も、すっかり掃い終えている。
 地面と擦った傷は――普段から陰険な目にあっているため、勘繰られないだろう。

 よし、と呟いた爆覇丸は、さも今まで部屋に篭っていたと言わんばかりの態度で表へと姿を現した。

「御用ですか、当主様」

 いつも通りに感情を押し殺し、爆覇丸は当主の前で頭を垂れた。
 彼は鋭い目付きのまま、先程とはまた違う声音を出して爆覇丸を見下した。

「いたか、爆覇。また小汚らしい格好だな。お前の愚かな母を思い出す」

 床を見つめながら、爆覇丸は奥歯を強く噛み締めた。
 足元しか見えないこの男は、嘲りで飾られた醜悪な顔で笑っていることだろう。
 頭を上げることはできない。
 母上をそうしたのはお前のせいだ、と言い放ってしまいそうだった。

 今ここでこいつを切り殺せたら、どんなに清々することだろう。
 爆覇丸は暗い感情に取り付かれながらも、それは夢想だけに終わらせることにした。


 剣を教えてくれている師は、刃を正しく使えと繰り返していた。
 卑しい者の命を奪って、自らの心までも曇らせてはいけないと何度も爆覇丸に言い聞かせていた。

「自分の道を見据えろ、爆覇丸」

 伯父は、そう言って刀を握らせてくれたから。



「まあいい。もうすぐ、忌々しいお前と顔を合わせなくとも済むようになる」
「っ!?」

 突然の言葉に、思わず爆覇丸は目を見開き、喉を詰まらせた。
 背筋が戦慄く。じっとりと拳の中の汗が床に伝う。

 この男、今何と――。

「あの女との子が、本家の嫡子と懇意になったらしくてなぁ?」

 質の悪い笑みを浮かべ、当主は言う。耳障りなそれらが、真っ直ぐと耳に入った。
 爆覇丸の腕が、震えた。

「私は跡取りの祖父になるだろう。そうすれば本家に文句は言わせん。ようやくお前の間引きができる!」

 心底楽しげに、宣告を高らかに告げた男は母屋へと踵を返した。
 呆然とする爆覇丸だけが、その場に残された。



 死刑を言い渡される罪人は、こんな気持ちなのだろうか。

 父上は、こんな惨めな気分になったのだろうか。



 嬉しそうに自分を殺すといった男の嘲笑が、頭の中を何度も駆け巡る。ふらふらと立ち上がった爆覇丸は、自室へと戻った。
 生活臭のしない部屋の中、中央で彼はへたり込んだ。

 当主が言っていたあの女との子というのは、爆覇丸の前に生まれた父親違いの姉だ。
 彼女もやはり爆覇丸と似たような生活をしていた。一応、血の繋がりはあるのでここまで極端ではなかったものの、冷遇されていた。
 爆覇丸は一度も会わせてもらえなかったが、彼女には親近感を抱いていた。


 そんな彼女が、出世の道具にされた事実。
 それから自分が、もうすぐ殺されるという現実。
 要らない命なのだと証明されたようで、絶望感がひた走る胸の虚無。

 どんなに大人びていても実際には子供でしかない爆覇丸にとって、それらはとても重く圧し掛かった。






 + + + + +






 庭先で家の者が話していた噂で、本家の嫡子とこの家の長女が婚姻したということはすぐに知ることができた。

 爆覇丸は否応なく入ってくる情報に、目を伏せた。
 それを斬首刑場へ向かう階段を、一段ずつ上がるような感覚。死に近づくだけで、自分は足掻くこともままならないことを知らしめるのだ。



 あの日以来、爆覇丸はぼんやりと過ごすことが多くなった。
 稽古の約束がない日は、伏せったままで布団の上から出ないことも間々あった。

 様子がおかしいことに、覇王丸はすぐに気が付いた。
 けれどこれ以上伯父に迷惑をかけることは出来ず、曖昧に誤魔化していた。
 会う度に何か言いたげな彼の視線を、爆覇丸は黙殺した。

 揺れ動く感情は刃を曇らせた。
 稽古をしても、叱咤ばかり言われてうまくいかない。
 爆覇丸自身、もうこんなことをしても自分の未来は無いのだと諦めている。その諦念が、剣に迷いを持たせている。

「爆覇丸、もうこれで終わりにしよう」
「あ……でも」

 溜息を吐いて、刀をしまう。
 困ったように師は笑い、爆覇丸の頭をそっと撫でる。
 そうして「無理をするな」と優しく言って、毎度修行は終わる。

 何も聞かないでいてくれる伯父に、謝りたい気持ちと助けて欲しい気持ちが交じり合い、結局爆覇丸は伸ばしかけた手をいつも下ろしてしまっていた。


 何もかも、うまくいかない。


 思い浮かんだ言葉に、爆覇丸は苦笑した。
 生まれてから今までうまくなんていっているはずがない。精々このお人好しな伯父に出会えたことくらいしか、幸せだと感じた瞬間は無かったのだから。

「――なぁ、爆覇丸。お前の姉さん、結婚したんだってな」

 卑屈な思考の中へ、突然覇王丸の言葉が飛び込んできた。
 思わず硬直してしまった背中を、彼は黙って摩ってくれる。いつもと変わらない温かな、自分を無条件で受け入れてくれるような微笑みを浮かべて。
 爆覇丸は顔を俯かせ、動こうとはしなかった。

「お祝い、行きたいとか思わないか?」

 ゆっくり紡がれる言葉に、爆覇丸は無言で首を振った。
 現実を見たくない。
 異父姉が本家の跡取りを見ることは、自分の首を絞めている縄がまた一つ食い込んでいくことに等しい。
 結ばれた二人に会うことは拷問なのだ。


 爆覇丸が鈍い痛みを感じていた頃、覇王丸もまた暗い気持ちを胸に抱いていた。

 最近すっかり塞ぎこんでいる甥を励まそうにも、あまり口達者な方ではない覇王丸は自分の無力さを忌々しく思っていた。
 お前にも血の繋がった人がいるのだよと教えた頃は、とても無邪気に笑ってくれた。

 けれど爆覇丸は自分の立場、ひいては覇王丸の立場をよく理解していた。
 そのためか我儘は殆ど言わなかったし、心配されないように取り繕うことにもすっかり慣れてしまっていた。
 自分のせいで気負わせていると思っている爆覇丸が、唯一食い下がってくれた稽古。
 そんな彼の願いが嬉しくて、覇王丸はひたすら付き合うことを決めていたのに。

 その影で、爆覇丸に何があったのか気付くことができなかった。

 まだ成長しきっていない身体で、今にも崩れ去りそうな土台の上に立つ子供。
 彼は誰よりも寂しがり屋で、強がった素振りの裏で愛に飢えている臆病な少年でしかないと知っていたはずなのに。


 二人の心は互いを思い合う気持ちと、自分の無力さでいっぱいになっていた。
 だからこそ、その器はたった一言のさざ波で堰切ってしまう。


「お前の、家族だろう?」
「――!!」


 その、瞬間。


 爆覇丸の目の前は真っ暗になった。



 突然、涙を浮かべてしまった子供に覇王丸は驚いた。
 泣く所なんて最近では滅多に見たことがない。
 それほど、追い詰められていたのか。――追い詰めてしまったのか。
 後悔が滞りなく過ぎる。結局自分は、爆覇丸を傷つけているのだろうかと。

「あんたまで! 俺を、俺を要らないって言うのかよ!」

 一度溢れてしまったものは止まらず、激情のままに爆覇丸は吐き出す。
 言えなかったこと。言いたかったこと。信じていた、こと。
 全てがまるで嘘のように感じた。世界には自分一人しかいないのだと証明されたような気がした。

「俺はあんたの家族になりたかった! 何にもしてくれない、会わせてももらえない姉さんなんかよりも、ずっと大事な家族だと思っていた!」

 幼い慟哭は、虚しく森の中を反響する。
 嗚咽に変わり行くそれを、呆然と覇王丸は見ていた。

 初めてぶつけられる、彼の本心。聞けずにいた、爆覇丸の言葉。
 それが今、響いている。

「なのに……なのにっ! あんたはそうじゃなかったのかよ!!」

 まるで悲鳴のように泣き叫び、爆覇丸は走り去っていった。
 森の奥へと、足音が遠ざかっていく。

 彼が腰掛けていたその場所には。
 あの、父親の形見の刀が置き去りにされていた。





 Next→→→





←←←Back