名無しの爆覇。
 彼はこの家で、そう呼ばれていた。

 別段名を疎んじたことはないが、年上の縁者達はこぞって嘲笑と共にその名を呼ぶ。彼はそのような者達は愚か者だと取り合わなかった。


 彼の母は、外から爆家の分家に嫁いできた女だった。
 彼女は病気がちで、武を重んじる爆家での風当たりは冷たいものだった。夫となった分家当主との間に子供を儲けるものの、女子であった。

 出産が体を蝕み、彼女に次の出産の見込みはないとされた。不必要だとされた彼女は、まるで置き人形のように離れに放置された。
 分家当主は彼女に見向きもせず、他の女を側室に迎えた。


 母のか弱い手を取ったのが、爆覇の父だった。
 爆家と懇意であった覇家の次男坊でありながら養子という身であった彼は、血の繋がらない家の中での寂しさを理解し、ひっそりと彼女との密会を重ねてしまった。


 しかし、それも長くは続かなかった。


 事実が発覚し、覇家とは絶縁。爆覇の父親は分家の規律に則り、殺された。
 母親は連れ戻されるものの、腹の中に子供がいた。彼女は頑なに産むことを譲らず、結局子供に名前をつけることなくそのまま死んでいった。

 その子供が、爆覇だった。

 いくら生物学的に血縁関係が認められなくとも、爆覇は爆家の人間だった。分家は本家に爆覇を殺すように申し立てたが、世間体もあって、彼はそのまま分家の末席に据えられることになった。


 名前を授けられなかった子供は、爆家にも覇家にも爪弾きされる者、という意味合いでいつの日から「爆覇」と呼ばれるようになった。
 そこには無論、侮蔑の意味が込められていたのだが、当の本人は決して文句を言うことはなかった。

 自分は、爆と覇という武道に長けた二つの一族の間に生まれた者。
 それを現しているこの名は、父と母の血を持つ者として誇り高くもあったのだ。


 けれど、冷たい屋敷の中で育つ爆覇は、まだ十にも満たない幼子でしかなかった。
 孤独は彼の心を黒く塗りつぶし、卑屈さを顕著にさせていった。

 それでも爆覇の性根は真っ直ぐのままでいられた。分家の者には、見下したような視線を送っていた彼が、ありのままで話すことのできる相手がたった一人だけいたのだ。
 誰にも相手にされない中、唯一彼を認めてくれた大人の存在は、彼の心を正しく取り持ってくれた。
 きっと、寂しかった母親が父の差し伸べた手を見たとき、こんな気持ちだったのだろうと爆覇は思っていた。

 皮肉なことに、その相手というのが爆覇の父の義兄であった。
 断絶された覇家の次期当主。それが伯父の肩書きであり、分家の屋敷から出られない爆覇の元へ通うことを危険なものにしている原因だった。

 けれど何度爆覇が「来なくていい」と言ったところで、その大人は悪戯っ子のような笑みを浮かべるだけで、いつだって約束の日にはやって来た。
 また来たの、と嫌そうな素振りを見せるものの、爆覇は心底嬉しかった。


「なぁ、お前はその名前で本当にいいのか?」

 いつだか伯父は、爆覇にこう尋ねた。
 その頃には随分と自分の中のわだかまりを解した爆覇だったから、笑顔で頷くことが出来た。

「うん。だって父上と母上が俺を生んで下さった証拠だ。俺は一生、爆覇を名乗るよ」
「……そうか」

 しっかりとした子供の言葉に、感慨深く彼は目元を押さえる。
 それから顔を上げて、真剣な顔付きになった。

「実はお前の親父から、もしも子供が出来たらってことで名前を聞いていたんだ」

 え、と爆覇は息を呑んだ。
 そんな話は初めて聞いた。

「勿論、お前の母と一緒に考えたそうだ。――聞きたいか?」

 頬を掻きながら、伯父は言った。
 爆覇は困惑したように視線を彷徨わせたが、逡巡の後に迷いは見られなかった。
 彼は決めていたのだ。
 爆覇として、生きることを。

「……いいよ。俺、もう物心ついていない餓鬼じゃないし、これまで生きてきた自分も否定したくない。それに、さ」

 大人びた口調に、哀しげな視線を送る伯父に向かって、彼は勢い良く顔を向けた。
 爆覇は照れたようにはにかんだ。

「俺、あんたに爆覇丸って呼ばれて嬉しかった。ただの忌み名じゃなくって、俺の名前なんだなって思えたから」
「爆覇丸……」

 だから、と爆覇は続ける。
 忌み名として付けられた記号にも近い「爆覇」の名を、一人の男として扱ってくれたことに深い感謝の念が込み上げていた。
 爆覇丸、と。
 それだけで、彼は救われていたのだ。

「親のくれた名前はあんたが持っていてくれ、覇王丸」

 爆覇――爆覇丸は、背の高い伯父の足元に縋りついた。
 両親が自分を望んでくれていたということが、今は何より嬉しくて。次から次へと流れ出てくる涙の奔流に耐え切れそうもなかった。





『 業 火 』


 ――あの日の夕焼けは、まるで地獄の焔――





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