雪が降る。
 全てを閉ざしていくように、冷たい白が世界を覆っていく。

 北の国々は門に鍵をかけたように内に篭り、身に沁みている吹雪の怖さを密やかに感じていた。そうして毎年廻り来る辛い季節の通過を待ち望む。
 青葉城も例外なく冬篭りの準備を万全に整え、この時期を静かに過ごしていた。
 今年は初冬は暖かかったため、例年に比べて雪が降り出した時期が遅かった。いつもならば雪解けを迎えている月だというのに、また新たな雪が今朝からちらついている。

 半分だけ開けた窓からそれを気だるげに見ていた政宗は、手の中にあった煙管へと視線を戻した。中に詰まっていた灰を落として机の上に置く。
 動いた視界の中に入るのは目にも眩しい銀世界。
 上着を羽織って庭に出てみれば、葉を落とさぬ緑樹に白が良く映えていた。花の彩りは失われているが、それでも洗練とした美しさがある。
 政宗は雪に埋もれた辺りを見回した。少し積もるだけで景色が一変するため、夏に植えた種子がどの辺りにあったのかすぐには分からなかった。
 今とは真逆の暑い季節を脳裏に浮かべ、政宗は遠くにいる彼の人へ想いを馳せた。

 西の地はもう春が訪れているのだろうか。
 見事な桜が咲いているのかもしれない。

 無味乾燥とした日々を送っているあの冷徹な智将に、北国では花が咲くということはとてもめでたいのだと教えたのはいつの頃だったろうか。
 冬の間でも勿論椿など見事な花は咲くが、雪解けを教えてくれる梅が咲き始めると寒さに耐え忍んできた民達は皆笑顔を綻ばせていた。
 冬が嫌いなわけではない。
 けれどやはり春が恋しく思えてしまうのは、美しくも無言で全てを侵食していく雪が時折柄にも無く恐ろしく感じるからだろう。

 珍しく饒舌に話をしていれば、元就は黙って庭師を呼んだ。
 突然のことに驚いていれば、彼は何やら命じた。庭師は何か気に召さないことでもしたのだろうかと始終おどおどとしていたが、命を聞くなり慌てて何処かへ行ってしまった。
 帰ってきた庭師が元就に献上したものは、政宗に手渡された。それは見慣れぬ種子だった。
 困惑して尋ねてみれば、目の前の無表情は起伏の無い言葉で淡々と告げた。
 持って帰るがよい、と一言。
 相手の本音が読めぬままに受け取ったが、贈与など絶対にしないだろう相手からの贈り物に少なからず胸が弾んだ。

 ――それが、気紛れに立ち寄った中国での、夏がもう終わりに差し掛かっているある日のことだった。

 城に帰ってからその日が自分の生誕日だったと知って、思わず苦い顔をしてしまうほどの衝撃はあった。
 戦を仕掛ける前に策を張り巡らせてあるのが元就の戦い方であるが、一体彼は何処まで知り得ているのか、本気で気になったものだ。
 無論、込み上げてくる笑いは止められそうもなかったけれど。
 偶然だったのか意図的だったのかは分からない。だが貰ったあの種子は春に咲く類のもので、何事にも興味を示さない彼が確かに自分の話を聞いていてくれたのだということの何よりの証でもあった。

 だから春になったら。
 咲いたこの花を元就に見せてやりたいと、いつもよりも少しだけ雪解けが待ち遠しくなった。
 興味本位で調べた時に、彼の生まれた月日が春なのだと知っていたから余計に。

(現実はそう甘かない……ってな。分かっちゃいたが)

 微かに山が出来ている雪の塊を手で払えば、そこから顔を出したのは奥州の寒さにも耐えて背を伸ばしている草がある。まだ蕾もない、ともすれば雑草にも見えなくはない姿で鎮座していた。
 今年の冬は暖かくなっていたから、もしかすると早くに咲く兆候が見れると思っていた。そうであれば元就の生誕日の日ちょうどに、花を共に観賞できていたのかもしれない。
 だが暦は既に弥生に差し掛かる。仮に今から奥州の道が開けようとも、その日は確実に過ぎてしまうだろう。肝心の花だって、まだ咲いてはいないのだ。

 政宗は屈んでいた腰を上げ、止まぬ空を見上げた。
 越後ではもっと積雪量が多く、度々家から出られないという事態が起こるらしい。上杉の地に比べれば伊達の地はまだ恵まれているだろう。
 一人でこんな不気味なほど静かで重苦しい雪の中に埋もれてしまえば、きっと普段ならば考えないようにしていることばかりを思い返してしまうだろうから。
 そうして溜息を吐いた自分に気が付き、政宗は忌々しげに舌打ちをした。

(独眼竜とあろうものが。いつからこんなにsentimentalになりやがった)

 政宗は部屋へと上がり、力任せに扉を閉めた。
 一気に暗くなった室内を睨み付けた彼は、唯一残された左側の視界を瞼で遮った。暗闇の中の静寂に、己の鼓動と呼吸音だけを感じる。
 雪如きで女々しい感傷に浸るなんて、奥州を統べる王として似つかわしくない。
 戦乱の世、いつ刃を交えるかもしれない相手の生誕日のことを深く考えるなんて馬鹿げている。どうせ雪解けが来ない以上、自分も動けず相手を迎えることも出来ない。
 だから、仕方がないのだ。
 焦れる感情がこの胸に燻っていても、目の前にある事実はどう足掻いても覆せないのだから。





 眠りの淵に立っていたはずの政宗は、いつの間にか暗闇の中に一人で佇んでいた。
 独特の浮遊感に、これは夢だと気付く。

 ――何故、生まれてきた。

 突然の罵倒が、闇の淵から響いてきた。
 聞き覚えのある声に反射的に振り返れば、そこには、見ない振りをし続けている肉親の姿がある。
 狂ったような、悲鳴のようにも聞こえる女の詰り。
 もう平気だと言い聞かせて塞いだはずの奥底の傷を、抉り出すような鋭さを伴った言葉。

 ――御前なんか、生まれてこなければ良かったのに。

 嗚呼、息が出来ない。
 苦しくて苦しくて、奇妙な汗が全身から浮き出てくるばかり。瞬きを忘れて、声の主をただ呆然と見つめることしか出来ない。

 ――誰が御前の誕生を祝福するものか。御前はあの時、熱に浮かされたまま死ねばよかったのだ。

 隙間を吹く風のような細い吐息ばかりが続き、何か言いたいのに、声が出なかった。
 全身は麻痺したように動かず、足先はみっともなく震えそうになった。
 罰が下ったのだ。
 らしくもなく浮かれてしまったから。そして、叶わない願いを望んだから。

 ――御前は醜い獣だ。あの人を喰らい、あの子を喰らい、それでどうして誰かを愛せようか。

 気が付けば、泣いている子供が足元にいた。
 泣きじゃくって俯くばかりで、膝を抱えることしか出来ない子供が。

 これは自分だ。過去に確かに存在していた、自分なのだ。

 視線だけを下ろして見れば、哀れみを抱いてしまうくらいに弱々しい生き物が目に入る。
 前を見ようとしない愚かなそれが、自分だったのだ。

 ――……そうだ。御前は、獣。餌場を貪り尽くすまで死の羽を広げ続ける、呪われた子供だ。

 低くなった聞き慣れぬ声に、ふと視線を戻す。
 目の前にいたはずの、鬼のような顔付きで立っていた美しい女はもうそこにはいない。
 代わりにいたのは見たことのない男だった。けれど既視感を感じさせる面影がある。
 薄暗い中に佇む男は、自分の足元を指差した。
 子供がいる。だが聞こえていたはずの嗚咽は無く、俯いていた顔は鈍い動作で持ち上げられていた。

 ――何故生まれてきた、血塗れの鷲の子め。御前は毛利の血を何処まで啜れば朽ちるというのだ。

 男の酔ったような罵倒に、戦慄が背筋を走り抜けていく感覚を覚えた。
 視界の端に捉えた子供の瞳はぼんやりと虚空を見つめる。嫌になるくらい見覚えのある子供の顔に、咄嗟に叫んだ。


「元就っ!」

 吐く息が白い。見上げた天井は、寒さで微かに軋んでいる。
 吹雪く外の風が窓辺を揺らすが、就寝時間が訪れた城内は静寂が続いている。まるで人の気配が闇へと飲み込まれたかのように、冷たい空気がただ流れていた。
 此処は本当に現世なのだろうか。
 積もりゆく雪に押し潰されそうなくらい、静か過ぎて気持ちが悪い。

 疼く右目を抑えながら、政宗は布団を押し退けて立ち上がった。
 荒い呼吸が退かない。肺が無理やり抑えつけられているかのように、苦しい。巡っていく己の血流さえも感じながら、まるで生きた心地がしなかった。
 気配を断つことさえ忘れてあの庭を目指して走れば、困惑を浮かべた小十郎が慌てて部屋から飛び出してきた。

「何処へ行くおつもりですか!」
「煩い!」

 引き止められた腕を振り解き、政宗は走る。
 早くなる動悸が急かす。行かなくては、行かなくてはと響くたびに背中を押した。
 厳重に閉ざされた戸を無理やりに開けば、極寒の風が身を刺す。冷気を感じる間もなく痛覚が全身を襲ったが、政宗にはそんなもの関係無い。
 素足のままに庭に躍り出て、昼間よりも一層深く広く積もった雪を掻き分けた。吹雪は容赦なく吹き荒れる。狭い雪原に現れた歪みを修正するように、政宗の歩く道をその傍からすぐに消してしまっていく。
 それでも政宗は止まらなかった。
 手が悴み、足が赤く腫れだしても、押し寄せてくる衝動だけが彼を突き動かし続けた。

「政宗様っ! 御気を確かにして下さい!」
「放せ、小十郎! 俺は行かなきゃなんねえんだ!」

 小十郎に羽交い絞めにされても、政宗の瞳は暗闇を彩る白に向けられ続ける。憎むような鋭い視線を投げながら、自由にならない身体に苛立ち政宗は暴れた。
 行かないと。
 泣いている。
 意図の読めぬ叫びを繰り返す政宗に、小十郎は眉を寄せた。それにも気付かずに政宗は真っ暗な空へと吼えた。
 まるで慟哭のような叫びに怯んだ小十郎を振り切り、政宗は這い蹲って庭の奥へと辿り着く。
 そうして無心に雪を掘り続け、指先に違う感触を見つけた。
 無意識に笑みを浮かべた政宗だったが、次の瞬間その表情は凍りつく。

「あ……ああ……どう、して」

 一歩下がり、二歩下がり、信じたくないというのに彼の目は現実を直視することを止められなかった。
 女の声が木霊する。或いは、荒ぶ吹雪の唸り声が男の言葉を思い出させた。

 ――誰が御前の誕生を祝福するものか。

 ――何故生まれてきた。

 母親が自分を指差した。男があの人を指差した。
 二人は憑かれたような目をして糾弾する。

「畜生! 黙れ!!」

 政宗は耳を塞いだ。
 だが、見てしまった真実は履がえようもない。
 咲かないまま凍えて、雪の下で死んでしまった花は――生き返らないのだ。


 ――御前が、幸せになれるものか。 


 闇夜の中、女と男が嘲笑った。
 泣いている子供と虚ろな目をした子供の手を引き離すように。







 あれから、政宗は自分がどうやって生活していたのかあまり覚えていなかった。
 けれど時は誰にでも平等に流れ、あれほど待ち望んでいたはずの雪解けは呆気なく訪れた。
 季節はもう卯月に入る。夏が再び巡ってくるのだ。
 祝うことも、祝ってくれたのかと問うことも出来ないまま、その日は既に過ぎ去っていた。

 白い塊が残る庭の奥には、一本の植物が倒れている。
 蕾も膨らませずに死んだ花。冬を越せずに腐って枯れていった花。
 興味が失せたような冷めた目で枯れた残骸を見つめていた政宗だが、文を持つ掌は耐えるように握り締められている。温かくなった陽気に対して、その指先は細かく震えたままだった。
 中国から届いたその紙片には、国主が病で倒れたとの主旨が書かれていた。奥州が冬篭りをしている最中の、晩春のことだという。
 政宗には分かっていた。
 きっと夏は越せない。冬を越せなかった、あの花のように。


 ――会いに行く間もなく、元就が還らぬ人となったという知らせが舞い込んだ。
 水無月の、ある日のことだった。





未 だ 春 遠 く

――そして凍えるような寒さだけがこの身に残った――




 - END -





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旧暦には間に合わず、新暦で元就誕生日記念なんですが……。
死にネタを持ってくる時点で最悪な奴です、ごめんなさい。バッドエンドで申し訳ない。
三月に雪が降ったと聞いた時から書こうと決めていましたが、思っていたよりも政宗が弱過ぎでした…;;
夢に出てくる女は政宗の母親で、男は元就の父親です。ってここで説明するくらいなら書けよって話ですね…。
※弥生=旧暦三月(春)、卯月=旧暦四月(夏)、水無月=旧暦六月(夏)
 ちなみに政宗の誕生日の旧暦八月=葉月は秋になります…。
(2007/04/16)


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