駆ける。
 駆ける。

 風の速度で。森を飛んで。ただひたすら、急ぐのだ。


 君の元へ。





 初めて出会ったのは、薄闇の早朝。
 信玄が同盟を組みたいとぼやいていた相手の現状を見極めるため、佐助は西の地まで足を運んでいた。
 噂では散々な評判の相手を、どうして大将の御眼鏡に適ったのかが理解できずに佐助は不満気に大きな屋敷を見下ろしていた。

 兵士を駒呼ばわりする毛利元就は、きっと自分のような影の者をまず人として認識しないのだろう。
 忍として生を受けたのだから、道具扱いは慣れてはいる。
 けれど、武田にいると――正確に言えば、幸村の元にいるとそんなことすら忘れてしまいそうなほど、彼らは自分を一人の人間として見てくれていた。

 だが、きっと。
 元就は冷めた瞳で一瞥するのみで、そこに映るのは意思を持つ道具なのだとしか思わないのだろう。
 そう思って、少しばかり心が痛んだ。



 そうこうしているうちに、ぼんやりと明るくなっていく山の際を佐助は仰いだ。
 綺麗な日の出だ。
 自分には、全然似つかわしくは無いけれど。

 背の高い木の上でそれを眺めていた佐助は、屋敷の縁側へ誰かが出てきたことに気付いた。
 白い襦袢に薄緑の単を羽織っている人影は、佐助が今しがた眺めていた太陽に向かって手を合わせた。
 清廉された動作は日課なのだと窺えたが、妙に顔が綺麗な造作をしているせいか、その行動はまるで御伽噺の一幕のように思えた。

 相手は男だというのに、どうしてそのような考えに至るのだろう。
 佐助はひっそりと苦笑をして、眼下の人物の行動を見守った。
 祈るように合わされた手を前にして、彼は目をゆっくりと瞑る。そうして微かに口を開いた。
 低く響く声音が、じんと空気を震わせた様な気がした。
 聞こえてくるのは神仏への祈りの言葉か、今も何処かで消えているだろう人々の御霊の成仏を願う言葉か。
 謳うように、静かな旋律が静寂の朝に流れていった。
 伏せられた瞼のせいで若干幼く見える彼を、佐助はただ黙って観察し続けた。
 寂しげで消え入りそうな横顔に、心が揺れた。その事実に、微かに動揺を覚えながらも。

 毛利の屋敷に寝泊りしているらしい彼は、一体何処の御曹司なのだろうか。
 上等な織物を身に纏っていることから、上流階級の者なのだろうと想像できる。見目麗しい姿もまた、高貴な血筋なのだろうかと思えた。
 柔らかそうな手先は、陽光に煌くほど眩しく白い。ここから窺うことは出来ないが、きっと傷など負った事などないのだろう。
 佐助は、まるで羨望するように目を細めてそれを見つめた。
 あの手は、自分のように薄汚れていないのだろう。時折血の色が取れなくなった幻覚など、見たことがないのだろう。

 綺麗な人だけれど。
 掃き溜めのような地獄に浸かってきた自分からは、まるで遠い世界にいる住人だ。
 伸ばした手になど気付かずに、届かないまま終わってしまうに決まっている。だから、求めることはできない。

 自嘲めいた笑みを口の端に浮かべた佐助は、彼の声が止んだことに気付いた。
 屋内へ戻ったら、自分もまた動き始めよう。
 そろそろ家人達が置きだす頃合だ。日常を見ることで家中の雰囲気を掴まなくてはならない。
 そうして佐助が体勢を立て直そうとした時、不意に鋭い視線が身体に刺さった。
 驚き目を瞠ったその先には、先程の男が佇んでいた。
 人を射殺せるような眼光を灯して。


 確かに、自分を見ていた。



 気付かれたことに驚きと戸惑いと、微かな喜びを感じながら佐助はその場を慌てて去った。
 彼が、噂の毛利元就だと知ったのはそれからすぐ後。
 綺麗なのだと思っていた手は、自分と同じか、間接的に言えばそれ以上に血に穢れていた。戦場に築かれる屍の山を歩いた回数は、忍である自分よりもずっと多いのだと分かった。部下を駒と称しながらも自らも省みないその佇まいに、本当は多くの人々が慕っているのだと気付いた。

 そして。
 あんなに冷たい瞳を浮かべる彼の声は、淀みがないけれども。
 一人で日の出と日の入りに紡がれる静かな祈りは、寂しげで儚くて。まるで何かを悼むような色を奏でていた。


 気が付けば惹かれていて。
 遠いと思った人は、意外と、近かったことを知って。
 手を、伸ばさずにはいられなかった。

 その手は、届いたのか届かなかったのか良く分からないけれども。
 彼はそれに気付いてくれた。
 影だと謗られるのだと諦め半分だったのに、彼は無言で――答えも返してくれなかったけれども――いつからか隣に居ても許されていた。
 生きる場所が違うのに。元就は、自分のことを見えないものとして扱わない。
 佐助はそれだけで、酷く幸せな気持ちになれたことをきっと永遠に忘れることがないだろう。



 だから、今も。


 一時的にだが結ばれた同盟先から送られてきた、凱旋の知らせを聞いて居ても起ってもいられなかった。
 馬鹿な忍だ、といつもの態度で笑ってもらいたいから。
 どんなに汚れようとも光を失わないあの眼で、闇から離れられない自分を照らしてほしくて。




 ――そうして今日も君の元へと走るのだ。





 駆 け る 。



 - END -





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創作者さんに50未満のお題・選択式お題(題目:待ち侘びた知らせ)より。
出会い編、みたいなサスナリ。ベクトルは逆だけれども結構似たような根底の二人だと思います。
自分が汚れているという自覚があって同じものを持っているけれど、お互い一番大事なものが別だから深入りは決してできない。
だけどやっぱり焦がれる部分もあるんじゃないだろうかな、という感じです。
……いつもどおり雰囲気で汲み取って下さい……;
(2007/02/07)


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