もうひとりのわたしたち

- A ⇔ R -

 ゆめをみました。
 かなしい、ゆめでした。


「……、おはようございます元就殿」

 自室で起床した幸村は、小さな屋敷の木戸を開いて朝の空気を取り込みながら敷地内を一周して自室の隣にある元就の部屋を訪ねた。
 いつもだったら構わず溌剌とした声音で挨拶をするところであったが、生憎というか今朝の目覚めはすこぶる悪くて幸村は柄にもなく戸を開ける指先にさえ躊躇を見せてしまう。
 元就の朝は常に早くて、部屋から出てこないだけで幸村よりも遅くに起きてきたことは滅多にない。
 病に侵されている身体に負担をかけないようにしながら抱き締めながら同衾した夜も、幸村が目覚めた時には遅くとも同時に目を覚ます。そういう人だった。

 だから今日だって遠慮することなく声をかければ良いのだと分かっていたけれど、どうしても一呼吸の心の準備が必要だった。
 何故なら、目覚めた時の自分は滂沱の涙を零して呆然と天井を仰いでいたのだ。
 その夢はひたすら悲しくて、痛々しくて。
 大事な人を失ってしまう――元就という灯火の傍にいることが本当の意味で許されてから、もう見なくなっていたはずの悪夢だった。

「おはよう幸村。……幸村?」

 お互いがどん底に落ちた最中で出会い、散々同じ屋根の下で過ごし続けていたのだから涙の痕を元就に隠せるとは思っていない。幸村だって元就が辛いものを抱えているのなら、言葉など発さずとも察せるのだ。そうやって二人は暮れていこうとしていた世界の中で足掻いてきたのだから、疑う余地など頭を掠めさえしなかった。
 それに幸村は元就に、嘘は言わないと誓っていた。
 崩れ落ちそうな絶望に晒され続ける中で、幸村にとっても元就にとっても死んでいいと思っていた己の心をあるがまま生き続けさせたのはお互いの存在があったからで。
 今、こうして平穏な暮らしを続けていられる事だって諦めなかった約束のため、二人が決して折れない決意を胸にしたからこそだった。

「朝からどうしたのだ」
「いえ、ちょっと夢を見ただけです」

 掠れた声音でそう笑うと、元就が僅かばかりに眉を顰めたのが分かる。
 誤魔化されたと思ったのだろうか。
 幸村は少しだけ逡巡して口を開いた。

「自分を傷付けるようなあの幻を見たわけではございませんよ。でも、この手から何もかもが零れ落ちていく、悲しい夢でした」

 失ってしまった全ては幸村の傍で今も生きている。
 目の前にいる元就だって失わずに済んだというのに、それでも怯える心は執着をするからこそ大きくなるのだと身を持って知っていたから、今更何故、だとは考えなかった。
 寧ろ幸せな今だからなのかもしれない。

「ただひたすら涙が止まらなくなって……申し訳ございませぬ。久方ぶりだったから吃驚しただけです」
「幸村」

 曖昧に笑ってこの話を終わらせようとする幸村を引き留めたのは元就の腕だった。
 頑なに名前を呼び続けて、彼は背が伸びて一段と逞しくなった幸村の身体に細い手を絡めると一気に引き寄せる。
 抱き付くような形になって大好きな人の体温が一気に濃密になったため幸村の頬に朱が浮かんだが、それもすぐに収まって応えるように相手の背中へ腕を回した。
 自然と支え合える今の関係がとても素晴らしく思えたのだけれど、あの古寺で過ごした時と同じく有限である事実がやはり辛い。
 抱き寄せてきた元就の身体は病人のそれで、逆に抱き付いた幸村の方が抱える様にして腕の中に閉じ込めている。弱々しさはまだ感じられないけれど、昔から白い面差しも健康そのものと断定できるほどの力強さを持ってはいなかった。
 それは、真田の下屋敷の隣に住んでいる半兵衛にも同じことが言えて、元就が彼の住まいを訪れて談笑している姿を見かける時にいつでも感じてしまう切なさだった。

「此処にいる。そなたも我も、信幸殿もな」

 優しく宥めてくれる元就の台詞に深く頷いて、幸村は更に力を込めて徐々に細くなっていくのだろう身体を掻き抱いた。



 黄昏時が近付くたびに幸村はよく考える事があった。
 本当に自分の今の生活は満ち足りたもので、確約された居場所ともう何にも邪魔されず大切な人と静かに暮らしていける現状はもったいないほどの幸福だろう。かつては卑下にして自分の身の丈には合わないと独りで勝手に嘆いていたのかもしれないが、それでは望んでくれた彼の意思をを貶めることとなるのだから今では決して思いもしない。
 何より強く願ったのは他ならない幸村自身である。自分の中にある元就への真実の想いを絶やさずに信じたから、この生活は叶えられたのだ。
 誰にだって文句を言わせるつもりはなかった。
 でも――。
 もしかしたら、あの数々の選択肢の道を間違えていたとしたら今頃自分達はどんな風に過ごしていたのだろうかと、二人ぼっちで過ごした山で眺めた夕日を思い起こす都度にかつての箱庭へと思いを馳せてしまうのだった。
 それは今現在の幸村の日々が安定したものであるからだろう。

 紅に染まる屋敷の屋根を仰ぎ見ながら、この手にあるのは血生臭い槍ではなくて日溜まりの匂いがする竹箒。近付く冬の気配を察した紅葉が次々と積もっていたため午後からかき集めていたのだが、気が付けば随分な量となってしまったためちょうど一息いれていた所だった。

 寂れた印象の拭えない小さな屋敷であるが、幸村は元就の世話をしながら佐助と共に三人でここに暮らしている。
 佐助は細かな部分を補ってはくれるが基本的には常に二人の間を邪魔しないよう見守っていてくれて、あとは殆どを前と変わらず仕事に費やしていたため不在の方が多かった。
 現在真田家の当主として徳川に仕えている幸村の兄である信幸からの忍務と、彼と幸村の間を行き交う仕事の橋渡しを担っていて、もしかすると主人の幸村よりも忙しいのかもしれない。
 それにすぐ気付いた幸村が、佐助を兄の所へやろうとしたのだがすぐさま却下されている。
 元主君である信玄にもその事について話したが好きにさせてやれと言われるばかりでどうしようもなく、結局幸村は佐助を連れて毛利家の所有するこの屋敷へ転がり込んだわけだ。

 約束していた願い。
 二人でまた一緒に暮らそうという、ほんのささやかな夢は叶って現在にある。

 かつて最大の壁となって立ちはだかった半兵衛との和解は、幸村の感情面から見るとさほど晴れやかにとはいかなかったが元就がもう気にしていない素振りだったので特に言うべきことはなかった。
 ただ、同じ隠居暮らしとして友人のように語り合う二人の姿を見るたびに、幸村の若い情熱はやきもちを焼かせた。半兵衛も分かっていてそうするからからかわれているのは気付いていたが、ようやく一緒になれた大事な人を、どうして他の男――しかも元就の事を多少なりとも想っていた相手と二人きりになんてできようか。

 朝の出来事が尾を引いているのか、どこか沈んだ顔を覗かせる幸村に遠慮したらしい元就は竹中邸へ向かうのを取り止めた。
 今頃は自室で書物でも読んでいるだろう。
 幸村の目の届かない場所に一人で行かれるよりは安心できたが、けれどそうやって気を遣い合ってしまった自分達のぎこちなさが少し悔しい。

「ああ、駄目だ駄目だ。俺はどうも元就殿に甘えてしまう」

 頭を振った幸村は片手を柄から放して、己の手首に括られている三文銭を頼りなく見つめる。
 この片割れは元就の腕に巻かれている。もう二度と離れないという、証として。

 二度と――そう、一度は隔てられてしまったから強く願ったのだ。

 軽い音をたてたそれらをぎゅっと握り込んで、幸村は空から降り注ぐ赤い光を見上げた。
 暮れていく夕日。落ちていくは輝きの時間。
 流された運命の濁流の中を必死にもがいて、幸村達の太陽は再び昇ることが叶った。いつ沈んでもおかしくなかったあの日々の中で、命を燃やしてもう一度世界へと踏み出すために身勝手な己の戦いへと幸村も元就もそれぞれのために赴いた。
 結果として赤く染まる大阪城の階段で、諦めなかった二人は再び巡り会えた。それは奇跡なんかじゃなかったはずだ。

 けれどもあの時、幸村が元就を探す決意から逃げ出していたのなら。
 或いは元就が古寺から動かずに帰りを待ち続けていたのなら。
 何かの拍子に全てが狂ってしまっていたかもしれないのだと、平穏になったからこそ様々な可能性に思い当たって気付かされた。今朝の夢だって幸村は過去に幾度も見たことがあったから、そうした不安材料が表面化するとああして眠っている間に脳裏を過っていくのかもしれない。
 例え想像の中の出来事だったとしても、辛い気持ちには変わりがないのだから余計に目覚めた時の涙を止める術が見当たらなかったのであった。

 哀しい夢。寂しい夢。元就が自分の指先から零れて、消えて行ってしまう斜陽の夢。
 綺麗でただひたすら幻想的な花弁の舞う、終末の足音を響かせる真っ赤に染まった世界の破滅が無力な幸村の目の前で目まぐるしく通り過ぎていく、そんな夢だった。



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