もうひとりのわたしたち
- R ⇔ A -
深くなる雪景色をぼんやり見つめる幸村の腕の中には、冷たくなった遺骸が抱き締められていた。
それはつい先程、彼の目の前で消えていった命の器。
掛け替えのない大切な存在であり、幸村の全てであった男の哀しい最期の姿であった。
頭髪の短くなった首筋は酷く涼しくて、夜の雪が風に吹かれて幸村の肌を何度も冷やしていく。
しかし自分自身には頓着せず、幸村は抱いている者を浸食しようとする粉雪だけを幾度も振り払う。そのたびに揺れる六文銭の音色さえ、寒々しい世界と相成って無情な世界を奏でていた。
元就は死んでしまった。守れなかった。
その言葉ばかりが絶望に浸った脳裏に反芻するばかりで、遺骸と同じく冷えていく己の身体にも気付かずに幸村は目の前にある現実をそれでも必死に受け入れようとしていた。
別れの挨拶は終わった。後は見送るだけなのに――。
離れ難い手はいつまでも解くことはできずに、膠着状態のまま幸村は悲しみと寂しさと憎しみを織り交ぜた感情の海をひたすら彷徨い続けていた。
「……竹中半兵衛」
押し殺した声音で吐き捨てたのは、彼を蹂躙して挙句に殺してしまった男の名。忌むべき敵とも言える相手。
幸村は身勝手な己の心を理解していた。故にこんなにも寂しくて虚しい元就のいない世界の中に取り残されても、自分自身が決めた真実を貫くべくしていまだ現世に居残っている。全てを奪ったあの男を屠らなければ後から滾々と湧き出でる憎悪に押し潰されそうだった。
元就は決して望みはしないだろうが、もう決めてしまった。
彼を守るために旅立つ決意をした時のようにこれは幸村自身の戦いなのだから。
ぎりぎりと食い縛った唇から血が滲む。焼け付くような痛みが胸元から込み上げて、元就を抱き締めた腕に力が籠った。
「――けほっ」
いまだ血の臭いに噎せ返るお互いの身体を見下ろしている内に、喉元から零れ落ちた咳は血気を孕んでいた。元就の血を舐めたからか、それとも――毒は好みにも回り始めているというのだろうか。
もしもそうならば時間は無い。
幸村は名残惜しげに元就の身体を抱き寄せて、部屋の中央に横たえた。
外は吹雪き出している。山道は危険だったが、この天候に乗じなければ麓の里にいるだろう半兵衛から行方を晦ますことは不可能だ。
奥の蔵から萎びた具足櫃を取り出して荷物を纏め始めた幸村は、黙々と作業を続ける。この寺の中をこんなにも長い時間一人でいたのは初めてだったから、しんと静まり返った敷地が奇妙なものにも見えた。
元就がいないだけで世界の色は変わるらしい。
白と黒と赤しか見えなくなったこの目は、かつてのように何もかもを遮断してはくれなかった。衝撃が大きいと言うのならば今だってさほど変わりはないというのに幸村の身体はどこまでも正常だった。
代わりに、もう心は修復できないほどに壊されてしまったのだけれど。
火を焚いて湯を沸かして汚れを全部拭き取ってしまうと、荷を纏めてから今度は袈裟を着込む。立てかけられていた琵琶を見つけてしばらく眺めていた幸村だったが、これ以上嵩張りそうな物を旅に連れて行くわけにはいかないため置いて行くことにする。
眠っている元就の傍へ添えて手向け代わりにした。最後に聞かせたのが確か壇ノ浦であったのを思い出して、何たる皮肉な事かと自嘲が浮かぶ。
――水底よりも遠くて近い西の空であの人は待っているのだろうか。
幸村は元就が直前まで使っていたであろう文机に座ると、一通の文を書きしたためた。
もうこの絶望と幸福の詰まった寺には戻らないと決めてある。
この場所を失えばもう幸村に帰るところなんてありはしないし、元から元就の傍らを離れるつもりは毛頭ない。
書き綴った墨が乾くのを待ちながら、懐に入れてある元就の遺髪を取り出すと緩やかに撫でた。
この髪の長さが二人を隔てていた時間そのものであり、元就の生が止まってしまった証でもあった。まるで幸村のように伸ばしていたその後ろ毛には、元の持ち主の流した血潮が貼り付いて端々が赤黒く染まっている。
構わず幸村は遺髪に唇を落として、瞼を深く落とした。
ゆめをみた。
かなしい、ゆめだった。
体温が下がっているせいで、目覚めた時から足が酷く引き攣った。こんな場所で転寝をするほどには疲れ切っていたらしい。
先程まで鮮明な夢を見ていたせいで、一瞬ここが何処だか分からなくなった自分を腹立たしく思いながら乾いた文を折り畳んでいく。
「あの夢は、俺の願望か。ふふっ……もう叶いもしないというのに愚かだな」
こんな現実を目にしておいて、まだ甘い幻想に浸ろうという軟弱な自分に吐き気すら込み上げた。
ちっぽけな屋敷に元就と二人で穏やかに住んでいて、佐助が時々現れては世話を焼いていくという些細な日常風景。そこには兄の姿もあって、戦の影はもう薄れていて――あんなに憎かった半兵衛までもが優しい風景に溶け込んでいた。
確かに望んではいたのだ。誰にも邪魔されずに、戦わなくてもよい居場所を元就と共に見出すことを約束まで交わした。
しかし元就を失った灰色の世界の中で、そんなものは無意味だ。
逃げ出したい自分の弱い心が見せた虚像なのだ。
部屋を振り返ってみれば、元就は冷たくなったまま二度とその目を覚まさない。呼び掛けてももう笑ってはくれない。
あんな夢、見たくなんかなかった。
幸せ過ぎて哀しい。もしもあちらが現実だとしても夢か幻かと疑いにかかってしまうほどに。
諦めなかったのはこちらの幸村だって同じ事だ。ずっとずっと最期の瞬間まで信じ抜いて――失った。
「元就殿。元就殿はどちらが良かったと仰いますか? こちら側では嫌ですか?」
答えの返らぬ問い掛けを繰り返しては、心も身体も空っぽになっていく感覚に囚われる。
笑ってほしいと嘆願されたのにこの顔はもう歪にしか笑えない。出会えてよかったと微笑む元就の残像が何度も再生されるのに、横たわる骸にはもう愛してやまなかった孤高の魂が抜け出ているというのが信じられない。
夢の中では今も隣にいてくれて綺麗な笑顔を見せてくれていたというのに、幸村が生きているこの場所ではもう灯火の鼓動さえ聞こえなくなっているのだ。
何て遣る瀬無い話なのか。
堪らず幸村は元就へと手を伸ばしたが、何度触れても指先が伝えてくるのは確かな死の温度だけである。
あんなに抱き締めて温めたのに二人の体温が同じになる事は二度とないのだ。
「……どうか待っていて下され。お一人には致しませぬ」
込み上げる悲しみを堪えて再び盛り上がった涙を慌てて拭った幸村は、嗚咽めいた吐息を漏らしつつ今度はたった一人で誓いを立てた。
先程起こしておいた火を簡単な松明に移し、室内へ放り込む。すぐに炎が床に引火して熱気が溢れる。雪が降っているとはいえ季節柄、火事が起こりやすい事には変わりがないため火の手が回るのは早そうだ。
幸村は眠る元就の顔を名残惜しそうに見つめた後、廊下を足早に出て行った。
そうしてそのまま先程作っておいた荷を背負い、同じように蔵で見つけてあった編み笠を被ってしまうと槍を引っ掴んで勢いよく外へと出た。
火種を本堂の方にも投げ込んでしまうと、そのまま彼は朽ちた門の影に佇んで己が住んでいた思い出の地が燃え尽きるのをじっと見守った。
母屋の屋根が落ち、本堂が黒々と煙を上げる。
指先は悴んでしまっているというのに、赤々と雪景色を舐め尽くしていく炎によってか不自然なまでに頬が火照っている。
轟々と幸村の意思を受けたように炎は力強く燃え広がり、この分であれば予想よりも早く燃え尽きるだろう。憑りつかれたように食い入る視線を向かわせていた幸村だったが、もう今夜は限界だった。
燃やしていない蔵の中に荷を下ろして横になると、そこで意識がふっつりと途切れてしまった。真っ暗な睡魔に支配された世界ではもう夢なんて見なかったから、飛び起きることもない。
やがて大きな音をたてて本堂までもが陥落し、全てが焼失した次の日――幸村は無言で母屋の跡から元就を探し出して、斜陽の見えるあの場所へと埋葬する。震える手を合わせて、再び目を開いた時には今までぼんやりと現実を捉えていたその双眸に色濃い闇が虎穴から顔を覗かせていた。
そしてとうとう彼は石畳の階段を下り始める。
復讐劇が今まさに幕を上げようとしていた。長くて短い斜陽に至る旅路は、幸村にどんな結末を見せる事となるのか――想いの果てにある真実を知る者は夢の向こう側の自分自身だけ。
- END -
(2012/03/04)
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