そして彼は斜陽を見た
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それは真に父を救う道であろうか、と若殿と周りから呼ばれている毛利宗家の嫡男が真剣な目付きで問い返してきた時、半兵衛は嘲笑ってやりたくなった。
元就を戦から切り離そうとする決断を彼ら毛利家は下したが、密談を後に去ろうとした半兵衛を呼び止めたのが彼、毛利隆元である。
元就とは違って謀略には不向きな穏健な人柄で、自分と父親や弟達を比べては劣等感に苛むようなまっとうな人間だ。薄暗い闇に浸かっている半兵衛から見れば随分と綺麗な人種で、自分の抱くような絶望感なんて考えもしないのだろうと思わせた。
救う道?
――とんでもない。今まさに目の前で呼び止めた男の贄に選ばれただけの話だ。糸を絡めて、あの白い首筋をゆっくりと締め始める最初の段階を踏もうとするための種を撒いているに過ぎない。
仮面の下の微笑みで、全てを隠し通しながら半兵衛は不安そうな青年に囁いた。
「元就君がどうしてああなったか、君には検討が付いているんだろう?」
「――それは」
更に蒼白になった隆元を満足げに眺めながら、言葉は続けられた。
「僕だって下調べぐらいするさ。小さな毛利家が強大になるまで、元就君がどんな戦いをしてきたのか知っているよ。例えば――彼には当主になる意思は元々なかった、とかね」
既にそれなりに大きくなった孫がいる元就が一体いつから戦い始めていたのかは、半兵衛とて正確には分からない。気が付けば毛利は西国の殆どを呑み込んでいたのだから薄ら怖いとは何となく思っていたが、調べていくうちに毛利家に襲い掛かってくる火の粉を振り払い続けていた結果として今があると記録書は淡々と書き綴っていて彼の才の恐ろしさは印象深かった。
しかし才を振るうも、時の運というものは必要だ。
自分が豊臣という最良の地を見出したように、元就にもそのような土壌が無ければここまで大きくはなれない。
息を呑んだ隆元は俯いたまま動かなかった。
生き残っている毛利の血族の中で、彼が一番元就と共に過ごした時期が長い。
それでも彼はあくまで息子だ。自身が生れ落ちる前の出来事までは知る術を持たず、伝聞でしか耳にしたことはないだろう。
一瞬でも懸念を抱かなければ一切を知らないままであっても気にはならなかったろう。人の心に機敏な隆元には知らぬ存ぜぬを通りきれなかったはずだ。
「……稀代の天才軍師殿には何もかもお見通しというわけですか」
ふっと吐息を零した隆元は自嘲を浮かべてみせた。
だが半兵衛の口元は僅かに強張る。見通せたからこその自分自身の刻限を知ってしまった不幸がこの身にあり、異端ではないにはやはり分からない苦しみなのだと深層を抉られたような気がした。
「元就様――父上は、ずっとずっと遠くを見つめておられた。それが何なのか無知なる私には分からなかったが、時折私を通して違う誰かを見ておられるような気がした」
けれど、元就はそうしてしまう自分自身を嫌い続けて、寒々しかった心を更に閉ざしていった。
毛利のためと身も心も全て投げ打って生き続ける父の背中が、本当はとても小さかった事を最近になってようやく隆元は感じ取った。歴史の流れに無理やり舞台上へ引っ張り出されて、それでも必死に演じ続けるうちに仮面を被っている己にすら気付かなくなって、ただひたすら誰かのために生きていた。
そんな父が哀しかった。
半兵衛の甘言に乗ったのも、彼の中の誠意と信愛があったからこそだ。
時代も織田か豊臣かの二択へと狭められている時流、孤高に佇む毛利もまた選択を迫られている。元就一人が君臨し続ければ確かにこのままでも国を守り、育て、天下になど左右されない今の中国は在り続ける。
しかし跡継ぎである自分が存在する事自体、いつまでも元就があの細い双肩に毛利の呪縛を背負いながら人形に生きる日々の終幕がいつかは来るという暗示である。
隆元は怖かった。
自身の采配がどれだけ拙いものなのかよく理解していて、空虚な精神をぼろぼろに擦切らせながら両足で立ち続ける元就にずっと依存しそうな弱い心が確かに存在する。一人の男の手で守られ続けていたからこそ、希求心ばかりが増えて結局は彼に全てを圧し付ける形となる。
ある意味でそれは彼への確かな忠節であったが――父は、疲れ切ってしまっているのだ。
もうずっと疲弊していて気付いていないようだけれど。
「私は、私として元就様をお守りしたい。その手段が許されぬ裏切りだとしても構いませぬ。故に竹中殿、必ず父の命はお救い下され。戦場から切り離し、身代わりとして毛利のために尽くす事も無い場所へどうか――」
「無論だよ。君達が僕らの軍に協力してくれるのなら、ね」
重ね重ね繰り返される嘆願に頷いて、半兵衛は立ち上がる。
毛利は大丈夫だろう。約束の日には隆元が主導の元で、元就を孤立させて毛利から追い出す算段はつけそうだ。
それでもまだ不安気な隆元を一瞥して、再び帰路の道へと戻っていく。
半兵衛の陰惨な笑みに気付く者は誰一人としていなかった。
そうして捕らえたはずの元就は、自分しか見ずに、自分だけを一心に憎み、やがて世界を呪って死にゆく半兵衛だけの華となったはずだった。
――あの男が訪れるまでは。
* * *
秀吉さえ欺いて元就を手に入れたというのに、その報告を聞いた時は何の冗談かと本気で思ったものだ。
元就を閉じ込めている古寺と付近の山里は半兵衛が治めている土地だった。寺から一番近い里には息のかかった者を住まわせて、間接的に元就の世話を任せていたし、彼が山から下りようとしたり知らない者が寺を訪れる様子であれば逐一報告するよう命じてある。
辺鄙な場所であるし、あそこに人が住んでいるなど誰も知らない。
時折旅人が山を越えるために通り過ぎていくが、殆ど頂上に近い場所にあるあの寺を見つけ出すにはそれなりに奥まで入らなければならず、里から山の向こう側まで続く拓けた道はぐるりと山の裾を回り込む形で伸びているから、敢えて危険な山道を歩かずともよかった。
しかし、例外はいくらでもある。
旅の琵琶法師が盲目故か誤って山道に迷い込んだという話も耳にしたし、半兵衛の意図を何も知らない村の猟師が山へと何度も出入りしているのも聞いている。
仮にも毛利を盾にしている状態で、あの元就が何の縁も持たない者に会ったところで自ら動けるわけもない。ましてや自害も許していないのだから、みすみす殺されるような真似もすまい。
とはいえ半兵衛の醜く歪んだ執着心は、織田との戦いを前にした忙しい日々の中で日に日に澱んでいた。依存心が強くなると呟いていた毛利の子らの言った通り、元就にはおかしな才能があるようだ。
すぐにでもあの青白い肌を愛でて、自分と同じ色に染めたいなどと考えてしまう己が滑稽で虚しかった。
そんな中で半兵衛が使っている草達の口から出た風評に、素直に驚きを感じた。
織田の忍を探っていた彼らは、梅雨の季節に残党狩りをする忍らと応戦する亡国となった武田に与していた忍を見つけたらしい。その戦いぶりと言うや、死しても尚喰らい付くかの如く苛烈なもので次々に敵を切り伏せて真っ赤に染まりながら走り続けていたという。
真田に付き従っていた忍隊は全滅したと聞いているが、何人か生き残りがいたのだろう。
しかし腑に落ちないのが、目撃した場所だった。
戦いから落ち延びるためならば一刻も早く遠国へ離脱するのが手っ取り早い。武田軍の残党の話も幾らか耳にしていたから生き残っている事自体には疑問はない。或いは全滅の報を聞き、何かしらの忍務を帯びていたのに帰るに帰れなくなったのだろうか。可能性としては色々と考えられる。
だがその忍が襲われていたというのは、半兵衛の領地から織田の領地へと連なる山々の谷間である。この境目には山があるから簡単に戦場にはならず、不可侵のままとなっている。織田の忍が通り道として使っているらしいことは承知済みだ。
散らばった仲間を探しているというのなら、武田の敗戦した長篠の辺りからうろついていても理由は付く。或いは亡骸を探しているのかもしれない。
とりあえず気に留めておき、その日の報告は終了したのだが――その血塗れの忍が真田忍隊の長であった猿飛佐助だったと後日知る事となり、半兵衛の疑念は一気に膨らんだのだった。
付近の捜索と情報集めをするため半兵衛は久方ぶりに自領の里へと足を踏み入れた。通い慣れた道すがらであるから行程は滞りなく進み、日が高いうちにとうとう元就を監視させている村まで辿り着いた。
今まで通ってきた里の民達からは特に目ぼしい噂を聞かず、もしかすると懸念だったのかもしれないと半兵衛が溜息をついていたところに、例の監視役の男が報告に上がってきた。
何か変わった事があれば些細でも口上するようにと命じてあったから、普段から取り留めのない話を聞かされる。他人であれば退屈だったろうが、元就の事ならば一つも取り零さずに知りたいと思えるから不思議だ。
抵抗して罵倒して冷たい視線で射抜いてくる、ちっとも懐こうとしない彼。
どうせ死に追いやるのだからそんな関係こそが心地良いと感じていたはずなのに、最近は少しおかしい。
身体の中身が空っぽになってしまったから、共にいるうちに半兵衛の絶望を僅かばかり感じ取って気遣わしげな表情を浮かべることが時々ある。それに対しては苦笑して返すのみだったが、苛立ちは込み上げなかった。
お互いに、もう生き長らえることに疲れてしまっているのだろうか。
早く元就と一緒に眠りたいとぼんやり願う思考は止めれず、何だか秀吉に謝りたくなった。
「……竹中様? 聞いておられますか」
「ああ、すまない。少し考え事をしていたんだ。どこまで話しただろうか」
「珍しく書置きがありまして、弦をご所望されたと申し上げました」
弦、と訝しみながら問い返すと、世話人の男は強く頷いて少し言い難そうに口を動かす。
「寺は住職の住んでいた頃のままですから、壊れた琵琶などを見つけて直そうとされたのでしょう。何せ娯楽もない場所ですから、快くお運びしたのですが」
寺に囚われている誰かに関わる事を、半兵衛は酷く嫌っている。
男も重々承知しているからその誰かを見たことはなく、見ようとも思わなかった。けれど長く閉じ込められているその人が生活していけるように便宜を図るよう半兵衛自身から言い付けられていたから、男は欠かさず寺と里の中腹辺りにある山小屋へと食糧などを運び続けていた。特に何が欲しいと文句をつけてくるような相手ではなかったから、姿は見えなく反応も無いため少しばかり怖くも感じていた。そのため今回の書置きを見つけて男は素直に嬉しく思ったのだ。
だが半兵衛の反応はいまいちで、自分の行動は正しかったのか不安なのだろう。
ご迷惑だったろうかと窺ってくる男に、半兵衛はひっそりと笑みを向けた。
「良いよ。彼の暇潰しができて助かるさ。報告ありがとう。僕がそちらに向かうと伝言の書置きを後で送っておいてね」
労いをかけると男は深々礼をして、半兵衛が滞在している屋敷を跡にした。
残った仮面の男は誰もいなくなった広間でくつくつと喉を鳴らす。
自分の勘はどうやら当たっていたようだ。
「さて少し揺さぶりをかけてみようか。久しぶりに君との知恵比べが楽しめそうだね元就君」
一目見て分かった。元就の雰囲気は以前と随分変わってきていた。何もかもを奪い取ってその命すらも手中にされているはずなのに、凍えていた双眸に微かな光が見え隠れしている。
半兵衛の予想は見事的中していたのだ。
あの男――長篠で討ち死にしたはずの真田幸村が生きて、ここにいる。
その事実を認識すると、臓腑がぐっと熱くなって憎しみにも似たような怒りが腹の底から湧き上がってきそうだった。
「豊臣は将来織田を潰すよ。これは予想じゃなくて事実だ。けれど大義名分が付いた方が兵士達は沢山集まるし、よく動く。毛利も随分頑張ってくれているのだけれどね、数だけはどうにもならない」
「ゆ……っ真田を持ち上げ、武田の残党を誘き寄せるためか。それとも武田が豊臣の下だと世間に知らしめる為か」
かかった――半兵衛は胸の内でほくそ笑む。
幸村を知らないと言う元就が半兵衛の言葉を戯言だと一蹴しないまま、内情を探るように話を続けさせる。それが何よりの答えであった。
焦れているだろう元就の心が徐々に乱れていくのが手に取るように分かる。
口元からすらすら生まれる言葉を違う場所から見ているような錯覚に陥りながら、半兵衛の視線は何度か元就の後ろへと這った。
立ち塞がるようにして半兵衛の前から退かない元就は、随分とあの青年に心を溶かされているようだ。彼が自分以外から影響されている現実が気に食わずに、半兵衛は半ば八つ当たりのようにして元就ではなく、話を聞いているだろう幸村へと会話の矛先を向けた。
「悪い話じゃないんだと思うけどな。日の本一と謳われた男が、このまま古寺の中で埋没しちゃう方が馬鹿らしくないかい? それとも君にとっての最愛のお館様は、仇討ちもしてやれないほどちっぽけな男だったのかな、幸村君?」
「……」
無表情を装いながらも元就の表情は確かに歪んでいる。
半兵衛は話を切り上げて、そのまま踵を返した。直情的な幸村ならば居てもたってもいられずに出てくるなど反応があるはずだ。
暫し気配を断って様子を窺うのも悪くないと、半兵衛は帰る振りをして門の影へと身を潜めた。
これで他人であったとしても元就には確実に影響を与えたはずだ。その者を生かしたままここへ置いておくなんて許せない。使えそうな逸材でなければ、今すぐにでも元就の目の前で殺してやろう。
予測が外れて本当に元就が一人きりのままだったとしても、彼には更なる毒を含ませたのだから無駄ではない。誰かの傍にいれば誰もが不幸になるのだから――半兵衛の手の中で飼われて死ぬしか道はないと知らしめたはずだ。
溢れそうになる狂気を圧し込めて、半兵衛はじっと待った。
そうして見てしまったのだ。
元就を軽々しくも抱き寄せる変わり果てた幸村を。
そのくたびれた袈裟に身体を寄せたまま、頼りなく震えている頭を不器用ながらも優しく撫でた元就の手を――。
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