そして彼は斜陽を見た

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 半兵衛は自分自身の暗い望みがいつの間にか形を変えてしまっていたのに気付いた時、それは彼にとっての全てが終わってしまった後だった。
 咽び泣くことすら許されず、この手で殺してしまう結果となった元就の最期を看取ることすら阻まれて、花開いた瞬間に喪った命へと繰り返し問い掛ける。
 元就が半兵衛に残したものは何もなかった。この荒涼と広がる喪失感と皮肉気な笑みだけがべったりと貼り付いているだけだ。
 他は全部幸村に明け渡して、彼は死んだ。
 一緒には逝けなかった。

 鬱々とした大阪城内の自室であの日の事を思い返し、そして半兵衛はようやく自覚した。
 幸村に感じていたものは生贄を奪われる危機感よりも、恋慕を邪魔される嫉妬心だったのだろう。自分では頑なにするばかりだった元就の心を横から掻っ攫っていったあの虎が酷く妬ましく――羨ましかった。
 導き出される真実は単純明快だ。
 竹中半兵衛は毛利元就をただ普通に愛おしく想っていた。何の垣根も壁も必要としない世界であるのならば、間違いなく想いの丈を口にしていただろう程に純粋な恋をしていた。
 寂しさから生まれた紛い物。真田幸村と同じだというのが癪ではあったが、幸村の元就への好意を肯定すると言うのならば自分もまさに同類。悲しい華に囁きながら愛でたか、毒を注いだか、その違いだけだ。
 ならば半兵衛にもこれから襲い掛かる未来図の想定など簡単だ。
 ――必ずあの男は、来る。

「僕と違って嘘なんかつかない……君が選んだ男だからね」

 咳き込む喉元を引き攣らせながら、半兵衛は今は外している仮面を握り込みながら瞼を閉じる。
 元就にも幸村にも、決して謝罪など口にはできない。狂った蛮行であったとしてもそれは確かに半兵衛の弱い意思の具現化だった。罪も罰も己に等しく降りかかるとしても構わない。
 寧ろ戦場で死ねると思うとあれほど怖かったはずの死に対して、不思議と恐怖はなかった。
 ただ、その中に結局巻き込んでしまった親友にだけは申し訳なさでいっぱいになる。

「ごめん、秀吉……」

 彼を信じられなかった自分に。彼を裏切った自分に。半兵衛は独りきり病を耐える布団の中で涙を流したのだった。

 * * *

 大阪城は徳川・伊達連合軍に占領されて豊臣の時代の終局が半兵衛の前にあったが、そんな中で自分がまだ生きている事実が不自然にも思えた。
 混乱を尻目に現れた紅蓮の鬼は、唯一の目的だったはずの半兵衛の命を取らずに去っていった。最後に手向けらた呪いの言葉は親友を失ったと思っていた心に陰惨なほど反芻されたが、半兵衛の希望の光たる秀吉もまた幸村はとどめを刺したはしなかったのだった。
 最後の因縁の戦いの中で、半兵衛は自分の淀みをようやく吐き出した。
 相手が幸村だったからだろうか。もうこの世界で半兵衛を理解してくれるのは幸村以外になくて、けれども元就を奪われた彼には敵たる男に憐憫など与えず、生き地獄へ続く明日を叩き付けてきた。
 それなのに半兵衛から秀吉を奪わなかったのは――元就が好いていた優しさを、最後の瞬間まで手放さなかった真田幸村の強さだ。
 完敗としか言いようがない。
 それでももう、悔しさなど湧き立たなかった。
 元就を自分の隣まで引き摺り下ろそうと徒労していた自分は、怠惰であったのだ。守りたい存在があったからこそ全てを投げ打って元就へ注ぐことはできなかった。
 しかし幸村は違った。
 自らが元就の傍らへ向かおうと走って、走って、我儘だと言われようが構わずに高いところへ懸命に上ろうとした。かつての仲間であったはずの武田の残党も振り払い、師から賜っていたはずの美しい志さえ打ち捨てて、感情を向ける全ての存在を元就一人に集約してしまった。
 一歩外れれば狂愛にしかならない想いの歪み具合は半兵衛と何ら変わりがなかったが、求める方向性が真逆だった。
 半兵衛が望んだのは自分へと向けられる全てあり、幸村が望んだのは自分から向ける全て。
 比べるまでもない。

「僕の闇には外から違う光が差し込むけど、虎の洞穴は底無しの闇、か」

 その闇の中で後生大事に抱えていた灯火を失った時、本当に彼の闇は彼自身の姿までをも喰らったのだ。
 それを羨ましいだなんて、もう思えなかった。

「半兵衛……すまぬな」
「いいんだ。僕はせめて君だけは失いたくないよ」

 意識がまだ朦朧としているらしい秀吉を抱き締めながら、半兵衛は久方ぶりに心の底から笑いかけた。
 覇王の城が陥落し、豊臣は敗れた。力を求め続けていた秀吉の表情は陰っていたけれど、何かを失ったとしても人は生きている限り進んでいける。
 こんなにもまだ生きていたいと願える活力が自身の奥底に潜んでいたなんて知らなかった。
 きっと、半兵衛の中の寂しさは元就との別れを決定打として永遠に癒えないのかもしれない。
 それでも良いと思える。
 歪んだ愛し方をした挙句に殺してしまった想い人の幻影に囚われ続けるのが、大切な人を守れず復讐も叶えられなかった幸村と孤独な死を待つ身となった半兵衛に科せられた贖罪なのだから。

「……星が見えるね」

 衝撃で開けられた天井の向こう側に、暮れた直後の藍色の空が覗いていた。
 斜陽の時刻は過ぎ去ったのだ。




 伊達政宗から伝え聞いて、幸村が死んだと知った。
 長い間、戦後の療養ついでにとうとう秀吉に病の事をはっきり指摘されて、半兵衛はあまり表を歩かなくなっていた最中だった。
 徳川から恩赦を貰い受けて秀吉と共に隠遁生活を送りながら、これからの天下について考えつつ見聞を広めたいと述べた秀吉を半兵衛は全面的に応援した。決して豊臣の臣達がいなくなったわけではないから、徳川の世が好ましくなければ近いうちにもしかすると決起も辞さないかもしれない。
 その時、この身体はもう動くことはないのだろう。
 それでも秀吉が秀吉らしく歩む道がまだあるのだと分かるから、ほんの少し残念だと思いはしたが以前のような気持ちはもたげなかった。
 浮かぶのは悄然とした響きを持つ、寂しいという言葉だけ。
 政宗は幸村がいつ死んだのかは教えてはくれなかったが、かつての宿敵であった独眼竜自らが遺言を託されていると渋い顔で半兵衛に教えてくれたのだから、それは戦場でのことなのだろうと想像が付く。
 ――アンタと同じ病になっていて身体が蝕まれていた、と政宗はぽつりと呟いた。その言葉に嘆息が込み上げる。

「本当に厄介な男だ……僕が望む何もかもをこうも平然と奪い去る」
「奴の最期の頼みを俺は呑んだ。アンタなら手がかりを知っているはずだろう、竹中」

 軽い金属音をたてて政宗が取り出したのは、幸村の槍に巻き付けられていた六文銭だった。
 元就の手首に巻かれていた幸村の想いの証。
 それは半兵衛に自分自身がもう彼らの間にも入れず、現世で一人取り残されている事実を否応にも突き付けてくるのだった。
 政宗が探している場所と言うのは身に覚えがあり過ぎたが、まだ傷口は癒えずに赤く濡れたままでとてもじゃないが告げる気にはなれなかった。


 遺言を果たすべく幾度か半兵衛の庵を訪れた政宗は、その日、別の誰かを連れてやって来た。
 最近眠っている時間の方がぐっと長くなって、随分と視界がぼんやりしてきた半兵衛には人影が誰であるかすぐには判別ができなかった。緩々と上半身を傾けて覗き込んでくる政宗の方へと顔を向けてみると、その後ろにいる客人は消沈した様子で頭を垂れて俯いているらしかった。
 旅に出てしまっている秀吉は便りをくれたけれど、半兵衛はあまり返事を書こうとはしなかった。――苦しいよと書いてしまえば、彼は戻って来てしまうだろうから。新たな時代の始まりの中を駆け出した親友の背中を押すのが自分の役割なのだと半兵衛は己に言い聞かせ、そうして手紙を書けないままやがては床から起き上がるのも億劫になった。
 だから好きで訪れているわけじゃなくとも、間を空けずにやって来る政宗には正直感謝したい気持ちもある。誰からも忘れ去られてこの一室で死んでいくなんて耐えられそうもないからこそ半兵衛は、幸村と元就を巻き込んだ一連の出来事の発端を生み出してしまったのだから。
 しかし気まぐれな政宗とはいえ、武士の弱った姿を他人の目に晒すなどといった無礼な真似はしなかった。たとえ彼の右目と共にこの庵にやって来ても、決して中には入れないのだ。単純に病が移るから、という考え方もできたのだけれど――好意的に見ても許されるのではないかと今では思えた。
 今日は珍しく人を連れてきている。政宗が入室させたならば、秀吉にも許可をされている者なのかもしれない。訪れる人は少ないけれど、豊臣軍の者や薬を持参してくれる家康などとは時折顔を合わせている。その所縁ある人物なのかもしれない。
 誰だろうかとぼうっと見つめていると、今日もまたしつこく政宗は半兵衛に幸村の告げた“何処か”について尋ねてきた。
 閉ざされた雪山、燃えた古寺、それから雪地を濡らした赤い花――。
 断片的に思い出してみても、今も胸は鋭く痛んだ。幸村はきっと元就と同じ場所に、己の人生と共にあった渡し賃を葬って欲しいのだろう。
 いい加減、元就を幸村に逢わせてやりたいとは思っていた。
 だがそれによって忘れ去られる自分の存在が虚しい。もう幾度も自己意識の中で論議していたというのに、いまだ引き摺られている思考が愚かしかったけれども強いふりをし続ける事には飽いていた。
 何よりも、元就をこれ以上待たせるのは忍びない。
 半兵衛が焦がれる程に強くて弱かった存在。それを支えたのもまた、半兵衛がそうありたかった高潔な焔だったから。

「――あの山、珍しい色の花が咲くんだよ」


 去っていった政宗の背中を見送ることもせず、天井を見上げていた半兵衛はふと近くにまだある気配に気付いて瞼を開いた。
 あの客人は、じっと動かず半兵衛の枕元に座っていた。
 案外にもしっかりとした掌が炎の小さくなった蝋燭を後生大事に抱くようにして、何度も喀血を受け止めた半兵衛の細い手を握り締めている。うつるよ、とやんわり促してみたのだが放してはくれない。
 ゆっくり吐息を繰り返しながら、半兵衛は客人へ向かって独り言を紡いだ。

「僕はね、真っ赤な彼岸花なんかより淡い彼岸桜の方がずっと好きだ。夕日を受けるとじんわりと明かりが灯ったみたいに綺麗なんだよ」

 半兵衛は笑った。
 客人も笑う気配がして、何だか夢中で話したい気分になった。

「まるで命が燃えるのをこの目で見たかのような、幻想的な景色でね。秀吉にも教えた事はなかったけど――たった一度でよかったから、元就君にもそれを見てもらいたかったな」

 これは何処にも昇華できなかった睦言。言いたい相手だった元就にも、自分の真実を吐き出せた幸村にも告げる事はなかった半兵衛の――真実の願い。

「そこの戸を開けてくれないかい。もうすぐ、日が沈むんだ」

 客人の手がそっと障子を開く。
 西側の空が軒下の向こう側へと何処までも何処までも広がっていた。

「ねぇ君、一つだけ僕にくれないかな」

 答えはなくとも熱い拳が固く指先を握ってくれたから、もう何の不安もなかった。
 微睡を覚えながら半兵衛は西に煌めく幽世へと思いを馳せる。
 あの二人はもう川を渡った頃だろうか。約束を果たして巡り会った彼岸の国は、もう暮れていく寂しさも感じない世界となって幸村と元就を静かに眠らせてくれるはずだ。
 咎を受けた自分にはそんな世界に浸れる権利などないけれど、願わくば一つ。

「向こう側で待ち続ける強さを、どうか分けて欲しい」

 置いて行かれるのが怖かった。
 忘れられてしまうのが恐ろしかった。
 だから待ってくれる誰かと一緒に滅んでいきたかった。弱かったから、頑なに結ばれた約束と誓いが信じられずに一瞬だって手を放すこともできなかった。
 ――それも、もうおしまいだ。

 そっと添えられたもう片方の手の温もりを感じながら、銀糸を輝かせて半兵衛は穏やかな笑みを浮かべる。照らし出された傍らの人影の輪郭が薄ぼんやりとだが見て取れて、驚くよりも妙にくすぐったい気持ちにさせられた。
 寂しい心に嘘はつけなかったけれど、余計な事を一切考えずにこうしていると酷く幸福な気持ちにさせられた。
 自分はもう秀吉も、夢も、元就への想いも、追い掛けることは叶わなくなってしまった。唯一幸村に奪われずにあったこの命の灯火ももうすぐ果てるだろう。
 自分は逝くけれど、だからこそ道の先で待っていよう。
 現世でも常世でも元就が幸村を待ち続けたように、幸村が己の真実を貫き通したように。
 無言で頷いてくれた人の手を弱々しく握り返した半兵衛は、眩しく輝く斜陽に笑いかけた。
 親友に会えなかったのは残念だったが、きっと待ち続けた果てで再び会い見えるだろう。その日を楽しみにしながら待っていよう。
 いつか追い掛けてきてくれる大切な人々が迷わぬよう、対岸に赤い花畑の見える川辺でずっと――。

「ありがとう――官兵衛」

 そうして彼は安らかな寝顔を浮かべたまま、静かに斜陽の国に誘われていったのだった。


 一足遅れて慌ただしい足音が庵中に響き、帰還を告げる声が高らかに室内へと滑り込んだ。
 それは彼が望んでいた親友の声音だったのだが、魂を失った器にはもう届かない。旅立った彼はきっと川辺の前で導たる桜の枝を抱きながら、いつかやって来る彼にとっての温かな世界を待ち続けているのだろう。
 ほんの少しでも再会が早くならないようにと願いつつも、憧憬に満ちた視線で向こう岸を眺めているのかもしれない。

 秀吉は最後の最期まで半兵衛の手を握って、側にいてくれた男に繰り返し感謝をした。彼は困ったように笑い、そうして二人で寂しがり屋な半兵衛のまだ温もりがある手を握り締める。
 いつかそちらに渡る時が必ず来るから――追い付けるその日まで、それまでどうか忘れないで待っていてほしいと暮れゆく空に願った。



- END -


(2012/02/28)


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