そして彼は斜陽を見た
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元就を知ったのは、単なる偶然だった。
豊臣が本格的な旗上げをする以前より、西国から広がってくる稀代の謀神の噂というものを半兵衛は耳にすることが多かった。彼自身、有能な才ある者として随分と周りから勧誘を受けていたから余計に話題として上るのだ。
だが同時に半兵衛は、自分と他人の境界線というものを重々知り得ていた。
かつて仕えていた主家からも離れ、渾名にさえなっている蜀の諸葛亮を倣うかのように独りで早々とした隠遁生活を送っていたのは、変わり映えのない乱れた世の流れを既に見限ってしまったからだったのかもしれない。
時折訪ねてくる召し抱えたいと乞う者共を適当にあしらいながら、自分と同等かそれ以上とさえ聞く毛利元就の存在に興味はあれど、積極的に関わりたいなどとは決して思わなかった。
だが二度目に名前を聞いた時は違った。
半兵衛は自らの刻限を知ってしまっていたし、何よりも世界に絶望し始めていた。故に、がらんどうな心で毛利家の安寧だけを求める彼の生い立ちや戦歴、人となりを調べ上げていくうちに、ぽっかりと空いてしまっていた半兵衛の空洞と同じ物が彼の中にもあるのかもしれないとそればかりが気になってしまった。
一度視界に捉えてしまえば、既に狂い出していた心の底の淀みが転がり落ちるように元就が“そう”であると身勝手なまでに認識し始める。
歪んだ精神で見出したものが正しいはずもないことを、重々承知していながらも――伸ばそうとしていた腕はもう引っ込みのつかないところまできていて、脆弱な意思は選ばざる負えなかったのだ。
まるで熱病に侵された一目惚れの衝動と同じ。
だが半兵衛にとっての運命は元就ではなく、きっと生涯唯一無二となる友であろう秀吉だけだ。
そしてこの感情は恋などといった甘ったるいばかりの幻想などでもなかった。
最期まで世界を呪い続ける唄をお互いに吐き捨てながら重なり朽ちていく愛の形など、言葉にする方がかえって陳腐になるのではないか。
紛れもなく抗えない現実に共に堕ちていくためだけの、憎悪に塗れた関係。綺麗でも儚くすぐに消えてしまうものなんて無意味なのだから、彼との間を結ぶのは深い深い闇だけで構わない。そうすれば自分に絡まった絶望の糸は元就にも絡み付いて、二人をきっと離さないだろう。
独りきりで死んでいく悲しさが、ほんの少しだけでも軽くなるのだろうから――。
正直な気持ちを曝け出すというのならば、やはり自分は寂しかったのだろうと半兵衛は思い返す。
誰もが野望や願いを抱いて戦いに向かう戦乱の時代に生まれ、隠遁できるほど非凡ではなかったからこそ歩むべき道が示された。そして数々の声を避け続けた中で、半兵衛が自ら選び取ったのが秀吉と共に行く覇道であった。
誰も彼も同じ道を歩むことは難しく、違う道を選ばざる負えない時の方がきっと多いだろう。
それでも半兵衛は秀吉にこそ光を見た。
絶え間なく続く争いの日々を終わらせて、この日ノ本に時代の流れと共に襲いかかるであろう未来の脅威から守るというその夢の実現を垣間見たのだ。
力だけであれば、彼の第六天魔王の方がより強大ではあったろう。だが人心の掌握しながら上に立つ者には人の心を省みてもなお、折れぬ強い眩しさが必要だ。そして何より国を憂う想いが。
――半兵衛は自分が弱い人間だというのを自覚していた。
そしてそれは、秀吉も同様なのだの気付いた時に半兵衛の決意は固まったといっても過言ではない。
彼の心は弱かった。だがそれを克服できる強さと、実現できる力がどちらも存在していた。
きっと彼ならできる。
確信にも近い天啓を、あの頃の自分は感じ取ったのだろうと半兵衛は幾度も思い返す。
前を悠然と歩いていく秀吉の隣で一緒に歩き出した歩幅が、だんだん離れ始めたのはいつ頃からだったろう。
大きな背中は常に強い輝きを抱いていたから、少しくらい遠ざかっても彼との間に距離なんてないと盲目していたのかもしれない。変わらずその背は夢を導く旗印であったから、半兵衛自身一歩後ろから眺めるのが好きだったからこそ自分の足下を見下ろすことが遅れてしまったのだ。
ふと眺めた二人で歩いていたはずの道。
自分と彼の歩調はずっと共にあったのに、今から走っても埋まらないほどの距離間がいつからか生まれていた。
どうして、と恐慌めいた衝動が駆け抜け、半兵衛はあの強い光の傍らへと一刻も早く近付きたくて焦燥にかられながら前進する。なのに半兵衛が踏み締めた一歩は昔よりもずっと小さな歩幅で、縮まるどころか差は広がる一方のように思えた。
秀吉の名前を呼びたかった。
待って、置いていかないで――そんな柔な叫びが喉元までこみ上げそうだった。
でも、彼を求めながら弱音を吐いて振り向かせることは絶対にできない。
何故なら秀吉にとって最愛だっただろう一人の女性の存在を、彼は自身の掌で切り落とした過去がある。半兵衛もまたその所業に同意し、言葉と違わず実行した意志に敬服さえ覚えたのだ。
彼は間違っていないと何度も繰り返して。
本当は優しい人だと知っている。己の弱さを知っているからこそ、飽くなき力を求めて強くなろうとしたと理解している。
だから半兵衛がそう呼べば、きっと振り返ってくれるのかもしれない。
だがそれによって彼が苦痛の果てに乗り越えた山を再びもたらしてしまうのは分かりきっていた。
あくまで秀吉を支える立場であるはずの己が、進んで重荷になるような言動を零すなどできるはずがない。
自分と彼は親友であるとお互いに言えるのだけれども、天下に対して挑むからこそ二人の間には絶対的な垣根を作らなくてはいけないと思っている。即ち主君と臣下という違いであって、秀吉を覇王に伸し上げるには不可欠な線引きだった。
――自身のちっぽけで愚かしい感情面を素直に見るのならば、親友として何の隔たりもなく互いに平等に付き合っていた前田慶次なんかと自分は違うと言い聞かせて少し躍起となっていたのだろう。
あの曖昧な関係の中で、結果的にあの二人はすれ違った。
自分はそうはさせない。秀吉を独りにはしない。そう意気込んで才を揮い続けていたけれど、時折――戦や政など一切関係のない穏やかな場所で少しだけ思い出を眺めていた秀吉を知っているから、彼とあの女性と慶次に繋がる特別な縁は未来永劫完全に断ち切れるわけはないのだとある日唐突に理解してしまい、半兵衛は湧き立った醜い感情に失笑さえ浮かべた。
複雑に絡んだ思考と無意識に弱い自分を認めたくなくて、その時に滲んだ感覚を半兵衛はすぐに忘れた。
忘れようとした。
この時にはもう、孤独の寂しさから逃れられなくなっていたのだと思う。
誰かと長く共に過ごしてきたからこそ、一人でいる時よりも自分が自分らしく存在できていた事を理解してしまったから。
一度知覚してしまうと人間は比べてしまうものだから、似たような道を辿っても懐かしくなって、そうして虚しさは余計に際立って胸に居座るばかりだ。
秀吉を理解しているし相手もまた誠意を持って理解しようとしてくれているのは分かるのに、どうして物足りないなんて貪欲に思ったのか分からない。
でも、秀吉はきっと自分がいなくなっても変わらずに前を歩み続けてくれるだろうという安堵と信頼と、その陰に落ちたやるせない恐怖心が生まれていた事を聡い半兵衛は苦々しいまでに自覚していた。
夢が叶えばそんなものすぐに見えなくなるだろうと信じていた。
けれど結局、秀吉との間に生まれた空白はどんどんと開いていくばかりで引き離されないようにするのがやっとだった。
そんな毎日に疲れていたのかもしれない。
疲弊した心の透き間を狙うかのように、体調を崩し始めたのは暮れていく季節だった。
元々線の細い半兵衛である。些細な不調くらい慣れていたし、今は肝心な時期であるから一時も気が休まることはなく秀吉のために昼夜問わず謀略を張り巡らせて、涼しい顔をして激務を続けてしまった。
悪化の一途を辿る中で、ようやく密かに医師の手配を回せた時には足掻いても取り戻せない暗闇の奥地まで足を踏み入れていた。
病名を聞いた時、始終動き続けていた半兵衛の思考は真っ白に染まった。
絶望の二文字が叩き付けられた衝撃に耐えきれず、今まで誰にも崩さずに守りきっていた表情の仮面が剥がれ落ちる。それを目の前の侍医が気の毒そうに見つめて、双方の間に空々しい沈黙が流れた。
幸い、無理をしなければこれ以上の悪化はしないと診断を受けたところで、半兵衛の状況は何も変わらなかった。
鬱々とした気持ちを抱えながら、変わらず秀吉の半歩後ろで笑っていて、軍備や兵力を整えながら忙しく日々を過ごす。
病はどんどん身体を蝕み、精神を枯らせていった。
こんな気持ち、誰かに知って欲しいなんて思わない。同情なんてもっての他だ。
弱る心にそうやって皮肉を吐き捨てながら自身へ言い聞かせていたが――その本心はどうだったのかと無理やりにでも暴かれていたのなら、内側から覗いたのはどんな形をしていたのか。
傍らにある温かく輝かしい場所を眺めながら、自分の足下はなんて凍えているのだろうとぼんやり思う毎日は緩やかな死にも等しい。
それでもまだ半兵衛は立っていられた。
秀吉を追って、走り続けていられた。自分の生に制限ができたとしても、今は生きている。彼の側で生きているから、大丈夫だと見せかけでも笑うことができたから。
中国を攻めるため、噂に聞いていたあの毛利元就との開戦が豊臣軍の内部で予見されていたちょうどその頃。
とうとう半兵衛は血を吐いた。
戦場で見慣れた鮮血ではなく、黒々とした呪いを溶かしたような粘ついた喀血は彼の纏っていた白い装束を紅に染めて、残された時間の短さをはっきりと突きつけてきた。
(嗚呼、僕は本当に、この国の未来も秀吉の行く先も見れずに、独りで置いていかれなくてはならないのか)
考えないようにしてきた事実に気付いてしまったが故に、凍え切っていた心は唐突に寒さを理解したかのように震えさざめいた。
戦場で倒れる時は夢半ば。せめて天下を秀吉の手中に治めるまでは倒れるわけにもいかず、武士としての死に場所さえも半兵衛は選び取れそうもない。
平穏な日々に焦がれていれば畳の上で大往生も、ある意味で幸せだろう。
だがそんな日が来る前に自分は間違いなく死ぬのだ。
たった一人で。
(――そんなの、嫌だよ)
惨めに死んでいく自分の姿を秀吉も大勢の部下達にも見せたくなんかなかった。彼らは未来のために戦うと決めて、明日への道を造り続けているのだから振り返っている時間なんてない。
竹中半兵衛という存在一つくらいで振り返って欲しくなんかなかった。
――そう考えているのに。
誰にも省みられずに道の途中で朽ちていく姿を思い描いて、呼吸さえ出来なくなるそうなほど辛く感じているのもまた、半兵衛自身であった。
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