そして彼は斜陽を見た
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毛利家に裏切られて半兵衛の虜囚となった元就は、そのまま人目に付かされずに竹中領内である長閑な山間まで連れてこられていた。
ほんの小さな集落を通って広い山奥へと入り込んだが、罪人のように運ばれてきた元就は手足を縛られている上に目隠しまでされていたから周囲の状況が正確には分からない。
ようやく外の景色を目にできたのは、これから一人で住む場所だと告げられた古寺の長い階段であった。
「逃げられると思わないことだね」
「……無駄な足掻きはせぬ」
半兵衛が通した簡素な座敷へと進んだ元就は、横目で少しだけ相手を睨んでから部屋の中央にゆっくりと座り込む。
一瞬だけ交わされた視線の強さに知らずの内に半兵衛は息を呑んだ。
足掻くことはしないと言ったその目は、まるで自分を瞬時に射殺すことができようかと思われるほど鋭い。無駄は行わないと諦めているようで、隙があらば半兵衛の首を掻き切るなど厭わない。修羅の道を歩む覚悟ができているそんな瞳だ。
愚考と知って行動に起こさない聡い相手は好きだ。さらにその上を行き、この自分の裏を掻こうとしながらもその態度を隠しもしない彼に、苛立ちを覚える前に感心してしまう。
やはり、彼は自分の生を彩ってくれる存在なのだ。
湧き立つ痛みと甘さに酔い痴れて半兵衛は薄笑いを浮かべた。
「君の態度次第だよ。毛利を悪いようには使わないさ。長年、君の治世に足並み揃えて従ってきた者ばかりだ。従順さと纏まりの良さは僕も認めているよ」
逆撫でするような言葉選びの半兵衛に、汚らわしいものでも見るように元就は冷たく見上げる。
それに意を介さず、半兵衛は彼の傍にしゃがみ込む。一層近付いた他人の温度に元就が怯む間も無く、吐息が頬にかかるほど至近距離で顔を覗き込んだ。
「でもこれだけは覚えておいてね?」
傍から見れば純粋そうな笑顔を貼り付けさせた半兵衛は、力任せに元就の髪を引っ張り上げた。痛みに眉を顰めた元就は、それでも男を睨み続ける。
残酷な事実を突き付けられる事を、知りながらも。
「僕はもう君を世間に出す気はないよ。そして君が抵抗するなら、御家はめでたく断絶させる。君が生きていようが死んでいようが関係なく、ね」
楽しそうに、まるで歌うように軽やかな声で半兵衛は紡ぐ。
抉られる心中に見ない振りをしながら、僅かばかりに元就の瞼が下ろされた。現実を直視し続けることに身体が拒否を始めた。
それを理解しているのか半兵衛は尚も嘲笑う。
知将と名高い中国の鷲をようやく手に入れた。何て甘美な事実なのだろうか。
自分自身の寒々しい心の隙間がこれでようやく埋められていく気がして、半兵衛は至極満足だった。元就を畳に引き倒しても、同じくらい白い肌を蹂躙しても、押し殺した悲痛な吐息を耳にしても、彼の笑みはおさまらずに黒い狂気を滲ませる。
半兵衛は最初の夜にそうして、元就の首へと見えない鎖を絡めた。
誰も他にいない山奥の古寺に捨てるように置いて、夢のために自らは外の世界へと出て行く。
その手に鎖の端をしっかりと握り締めて、半兵衛は彼が自分の箱庭から掌へと堕ちてくる日を淡々と待つこととなった。
独りきりで朽ちていくばかりの元就が決して傍から放れないようにと幾度も呪縛を耳に吹き込みんで、彼が一体誰の物なのかを理解させるべくそれから何度も古寺を訪れて元就へと絶望の種を贈り続けた。
――その芽が早く出れば良いのに。
「半兵衛? 何か言ったか?」
「ううん何でもないよ秀吉。ところで武田が織田に敗れた話は聞いたかい?」
ひっそりと浮かべた暗い暗い愉悦をひた隠しにして、半兵衛は大切な親友の隣で変わらない姿のまま振舞った。
微笑む半兵衛に秀吉は怪訝に思いつつも、差し出された情報へとすぐに意識を持っていく。
それで良いだろう。秀吉には前を向いてもらえればそれで半兵衛は構わなかった。
道連れだなんて醜い願望を、一番に大事な人へと向ける事なんて耐えられない。自分の生ある限り、彼と共にある道を歩くことこそが最も意義のある時間であるとは重々承知しているから。
だからこそ、半兵衛には元就が必要だった。
汚らしい感情全てをぶつけても構わない、それでいて心の内側に氷刃と表裏となる疵を持っている人間が。
「武田が瓦解か。先の毛利といい、半兵衛の先見の明は恐ろしいな」
「……ありがとう」
秀吉の言葉はいつも自分を勇気付けてくれたはずだった。
でも今は嬉しいと同時に鈍痛が生まれるくらいに、溺れるような苦しさを覚えてしまう。
口の端を歪めて笑んだ半兵衛は、仮面で表情をぼかしながら敢えて明るい口調でこれからの軍議の内容を告げた。
先が見えるからこそ、自身の終焉を簡単に予測できてしまうからこそ半兵衛は怖くて仕方なかった。
徐々に近付くのは破滅の足跡。
未来を見据える秀吉には決して見せられない、背後に忍び寄る闇の影。
欲しかったのはぼろぼろの自分を照らし出して暴いてしまうような煌々たる
光などではなくて、伸ばした手を僅かばかりに温めてくれる小さな灯火。いつかは一緒に掻き消えてくれるか細い灯で十分だった。
そこに誰かがいるというのが分かるだけで、荒れ狂いそうなほど揺らめいていた感情が鎮まる。
誰でも良かったのだろうと問われれば、応と答えられるだろう。
そこにいたのがたまたま毛利元就という人間だっただけの、何とも歪な始まり方。けれど半兵衛は巡り会ったその人を手中にしてから、何故と考える事を放棄した。
戻れる場所にいるわけではないのだ。望まない結末をどうにか望んだ形にするべく足掻いて、足掻き切って、それでこの体たらくしか選べないのだから覚悟を決めるより他なかった。
確かな言葉とするならば、半兵衛は元就を好いていた。人が人へと抱く懸想が美醜関係ないとするならば愛していると言っても過言ではないかもしれない。
だがそこには優しさなんて存在しない。甘い幻想を与えたとしても元就が振り向くことはなく、半兵衛の命の時計が再び躍動し始めるわけがないのだ。
時間が無かった。
幸せな未来を夢見ることも、誰かに優しくするのも、愛を囁く暇さえ半兵衛にはもう残されていなかった。残されていないと、知ってしまった。
限られた選択の中で元就は、半兵衛の短い腕の中でどうにか奪えた灯火なのだ。常世へ誘ってくれる案内燈篭になってくれる人なのだ。
だから、今更彼を現世へと帰すわけにはいかなかった。
早く芽が出て花が咲けばいいと、半兵衛は一途に願い続ける。確約の無い一方的な約束は不安ばかりが先走って憔悴しきった彼の思考をさらに歪ませ、深淵の深みへと足を引きずった。怯えに似たこの焦燥を解き放つには、確かな証が必要なのだ。
自分の血を吸った毒の華が元就の胸に咲く光景を想いながら、半兵衛は瞼を閉じた。
きっと妖しく赤く染まった、黒く、禍々しいほどに綺麗な大輪が花開くはずだ。
それはまるで彼岸の向こう側の花畑みたいな――。
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