07 斜陽の中で吼えた虎


- 4 -

 ――終わった。
 全部、終わったのだ。
 結局は半兵衛を呪いながら許してしまった自分を、元就は仕方ないと笑って受け入れてくれるだろうか。少しだけ不安があったが、最期に貰った無垢な笑みを思い出してそれもすぐに拭えた。
 幸村は酷く穏やかな眼差しで階段を降りていこうとする。達成感なのか虚脱感なのか、足元に力が入らず膝が笑い出す。立っているのも億劫で、歩くことすら苦痛であった。
 けれども足は止められない。自分の旅はまだ続くのだ。

「真田、おい待て。お前に話が……」

 降りていく幸村を遠巻きにしながら、本丸に到達した徳川軍と伊達軍が次々と城門の向こうへ入っていく。秀吉と半兵衛を捕らえに行くのだろうと分かったが、幸村は一人でその波に逆らって降りていく。
 そんな彼に気付いて慌てて追いついた政宗が、声をかけようとした。
 先程まで感じていた威圧感は失せており、そこにいるのは自分の知っている少し寂しそうな目をした青年が一人いるだけ。血生臭い猛虎も、闇を抱く赤い鬼も何処かへ消えてしまった。ふらふらと身体を揺らす、小突いただけで倒れそうな痩せた男がそこにいるだけだ。
 憑き物が取れた顔を浮かべて、幸村はゆっくりとした動作で下へ降りていく。これならばようやく話が通じるかもしれないと思ったが、常世に住む幽鬼のように酷く青褪めた顔色が引っ掛かった。
 浮かんだ焦燥に掻き立てられ、堪らず声を荒げても幸村は振り向かなかった。けほけほと何度も咳を繰り返しながら進む、段差を理解していないかのような危なっかしい足取りに冷や冷やする。
 硬直した背後からの視線に気付いたのか、一瞬こちらを向きかけた幸村は込み上げてくる嗚咽のような咳を徐々に大きくした。
 握力を保つのも限界のようで、幸村の手から槍がとうとう落とされる。耳障りな音をたてて六文銭が鳴り響き、激戦の中で限界だったのだろう返り血で黒ずんでいた紐が唐突に切れた。
 転がっていこうとする六つの銭を幸村は必死の形相で追おうとしたものの、込み上げてくる奔流を耐え切れないのか一度止まって身を屈ませると、発作を耐える病人のように苦しげに浅い呼吸をしながら嘔吐する。
 べしゃり、と音を立てて彼の口元から吐き出されたのは、真っ赤な血の塊。
 政宗の血の気が一気に失せた。

「お前、まさか――!」
「げほっ……こほっ……」

 驚愕して絶望に震えた独眼竜とは対照的に、呼吸を抑えた幸村は何事も無かったかのように立ち上がろうとした。だが幸村にはもうそんな力が何処にも残されていない。上がらない足をふら付かせていまい、政宗が支えようとする前に石畳へ転げ落ちていく。
 転倒の痛みも麻痺している幸村は、自分の腹部から流れ出した血にも頓着せずにただそこにある誰かの手を掴もうとするように、見開いた眼で散らばった六文を探し続けながら手を伸ばす。その姿は滑稽であり狂気めいている反面、切なく儚い。
 ずるずると感覚がなくなってきた下半身を引き摺りながら、ようやく幸村は一つ目に触れる。ああ、と感嘆めいた声を漏らした彼は力尽きたように頭を垂れた。
 紅に染まった鉢巻がその拍子に地へと着き、幸村自身から流れていく血溜りに触れてさらに黒ずんでいった。

「そこにおられるのは、伊達殿だろうか」

 吐き出された声の脆さに、政宗は目を細める。
 返答も聞かぬまま、否、もう周りの音は幸村に聞こえなくなってきているのだろう。発音もたどたどしく弱い。弱視になってきたのもその足取りで何となく気付いていたが、自分を伊達政宗だと認識することすら危うくなった男が悲しかった。

「白い、花の。浄土の見える、あの場所に……届けて……」
「……ああ分かった。分かったから」
「お願い……あの人へ、これを……」
「だから、もう泣くな」

 聞こえたのかどうか分からなかったが、静かに涙を流していた幸村は宙を見つめて微笑む。
 その先にあるのは赤く染められた大阪の町。忌むべき戦の炎に焼かれて炎上する空は、曇っているというのに照り返しで暮色に見える。
 あれは人の命を脅かした焔だというのに、目の霞む幸村には花畑で望んだ斜陽に映った。願いを乞わなくとも此処に望むべき場所はあったのだと、安堵の色であどけない顔が綻ぶ。
 もう大丈夫。もう、歩かなくても辿り着ける。
 探していた西の果ては此処にあるのだから――。
 とても満ち足りた気分になって幸村は既に感覚のなくなってきた手を緩慢に動かして、頼りない合掌をするとはにかむように目を細めた。
 どうかどうか、と願いを込めて。大好きなあの人の側へ、今度こそ辿り着けますように柔らかな祈りを沈み逝く夕陽に捧げた。
 やがて幸村の手がぽたりと冷たい石畳に崩れ落ち。ようやく掴んだはずの一文が、その指先から華奢な音を立てて転がっていった。
 最後に浮かんでいた面差しは無垢な子供のようだと、政宗は一人切なさを抱いて目を閉じた。

 こうして、復讐劇の幕は下りた
 大阪の役は徳川と伊達の同盟軍の勝利に終わり、豊臣の世は衰退していったという。
 紅蓮の獣の存在は誰もが揃えて口を噤み、やがては悪夢であったかのように人々は忘れていった。彼の想いも、彼の望んだものも、誰も知らないまま掻き消えていく。
 今日もまた、無情な歴史は新しい頁を繰り返し刻み始めるのだ――。





(散りゆく華は斜陽の如く、復讐劇は静かに終わりを告げる)
route-Revenge

END












 春分を迎えた山村は、雪解けと天下泰平を祝う人々の笑顔で賑わっている。そんな山々を抜けて、二人分の騎馬が田舎道をひた走っていた。
 一人は手綱も握らずに威風堂々とした姿で馬上に座り、もう片方は真剣な眼差しで視界の端を通過していく山々へと注意深く目を光らせている。背中に交差されて携えている赤い双槍は見事な設えで、彼が手練の武人であることは素人でも察せるだろう。
 何かを探している様子で村々を尋ね回っていた彼らは、馬を休息させるために大きな木陰へと足を止めた。
 旅人の道程の安全を祈るためだろう地蔵がぽつんと祭ってあり、槍を持っている男は微笑ましそうにそれを眺めている。刀を差し直していたもう一人の男は、呆れたように肩を竦めた。

「地蔵は閻魔の娑婆の姿だぜ? 見守られているというか監視されているみたいで俺は窮屈だ」
「ならばこの御眼は、現世をお見つめになりながら黄泉路も映されておるのでしょうか」

 軽口を叩いたつもりだったが返された言葉にはっとして、男は隻眼を歪めて小さく謝る。
 地蔵に礼をしていた男は困ったように微笑み、首を微かに振る。

「……片目に蒼……あの、竜の、お侍様ですか?」

 短い沈黙へと戸惑いがちな少女の声が入り込んだ。
 彼女は眼帯の男が怖いのだろう、もう一人の男へと近付いていく。優しげな面差しを見つけて少女はあっと声を漏らした。

「槍のお侍様、帰ってきたのね! ほら、これ預かっていた文です。戻ってきたからお返ししておきます。ああ、御無事で良かった……」

 少女の言葉に槍を背負う男は一瞬顔を強張らせたが、すぐさま解いて緩やかな笑みを浮かべる。出会った日と同じ声で礼を述べられた少女は照れ臭げにはにかむと、そのまま田んぼの向こうにある村へと走っていく。振り向かれて手を振られるたびに、男もまた手を上げる。
 そして――少女が行ってしまった後、くしゃりと顔を歪めて俯いた。

「Shit, あいつ、俺が来ることが分かっていやがったんだな。遺言代わりって奴かよ」

 眼帯の男が文を広げながら、湿っぽく呟いた。隣の男は、泣き出しそうに手元の包みを握り締めた。
 文に記されていたのは、旧竹中領のとある山の地図。それは彼らがずっと探していた真田幸村の軌跡が途絶え、再び現れた小さな檻を示す物。
 秀吉と共に隠遁生活をしている半兵衛は、何があったのか決して話そうとしなかったが、不意に漏らした呟きからようやく聞けた地の名を辿り、辺りの山々を巡っていたのだが思わぬ所から幸村の残した手掛かりが現れてすぐさま場所が特定できた。

 山は雪解けて、温かな季節を謳歌する日を待つばかり。
 木漏れ日に照らし出された焼けた寺跡を通り抜け、獣道を辿った先に開けた森の端に空へと続いていきそうな緑の野が広がっていた。
 その真ん中に、老樹が生えている。風で運ばれた白い花弁に驚きながら仰ぎ見れば、季節外れの桜が萎びた枝に咲き誇っている。ざわめきをたてるたびに、はらはらと舞い踊る光景は幻想的であった。
 二人はその根元へとそっと穴を掘り、包みを置いた。詰められた遺灰が零れぬよう、口の縛る赤黒い斑模様に染められた細長い布をきつく結った。その先に括った六文銭が、語りかけてくるように揺れる。
 土をかけながら涙を滲ませ、幸村とそっくりの顔を持つ男は問うた。

「政宗殿、源二郎は……徳川に守られて生き延びた私をどう思うのでしょうね」
「あいつはあいつの道を選んだ。アンタは、アンタで生きろよ信幸」

 笑って逝った幸村を見たからこそ分かる。
 政宗は夕焼けに染まり赤く見える桜の花を眺めながら、あの寂しい炎を思い出す。愛しい者を求めて啼いていた虎は、極楽浄土へと渡れたのだろうか。
 ちょうど暦は彼岸を迎えている。
 真西に沈んでゆく斜陽の向こう側で、きっと彼らは出会えるはずだ。
 そこで今度こそ幸せな物語が紡がるだろうか――。







 霧深い川の畔に、白い彼岸花を持つ男がぽつんと佇んでいた。
 幾度も向こう岸へ渡る舟を見送りながら、けれど男はずっとたった一人の存在を待ち続けている。
 最後の記憶で腕に巻かれていたはずの渡し賃はここにないのだから、永遠と彼は此処にいるしかないのかもしれない。
 遠目に見える美しい夕焼けの国へ想いを馳せずにはいられないけれど、やがて来るだろう男は待っていないときっと寂しがるに違いない。だから、ずっとずっと待っていようと男は美しい笑顔を浮かべて立ち続ける。
 ――そして、ちゃり、と。
 愛しくも待ち遠しかった音が、男の耳に飛び込む。

「……まだ、言っていなかったことがあったから待っておった」
「はい。俺も、まだ貴方に伝えてない言葉があったから探しておりました」

 二人は笑う。互いが互いを愛しいと想った笑顔を浮かべて、空いていた掌をそれぞれ結び合う。
 もう永遠に離れることはない証として一人分の渡し賃は二人の固く繋がれた手の中に納められ、ゆっくりと岸辺を離れていった。
 醜くて美しかった世界。出会い、別れ、失いながらも手を繋ぎ合えた哀しくも温かだった世界は段々と遠ざかっていく。
 けれど二人はもう寂しくなかった。変わらぬ真実を抱いたまま、大切な人の傍らにいられるのだから――。

「愛しております元就殿」
「……おかえり、幸村」

 赤い彼岸花の花畑は、もう目の前だった。



 終幕
(2009/7/01)



Continue on route-A



←Back