07 斜陽の中で吼えた虎
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大阪城の薄暗い一室で、痩身の男が床に伏せりながら虚空を見つめていた。返り血に濡れた具足も脆弱な精神を押し殺す仮面も取り去られ、力なく横たわる姿にはまるで覇気が無い。
その部屋の前では、城主たる秀吉が入ろうか入るまいかと堂々巡りに陥っていた。
何度呼んでも中にいる男は返事をしてくれず、一度諦めてから既に幾日が経ったろうか。
あれから部下に尋ね、やはり半兵衛は部屋から出ていないことを知ったのが先程の事だ。半兵衛の近臣や侍医は出入りしていたが誰もが一様に暗い顔をしていて口を噤んでいたから、今度こそ理由を尋ねようと意を決し、戸の前に立っていた。
戦が終わってすぐに、半兵衛は自領へと向かって出かけて行った。大事の前の小事だよと理由を話してはくれなかったが、半兵衛の為す事に間違いはなかろうと秀吉は軍を率いるためそのまま大阪へと戻った。
ところが、帰って来た半兵衛は傷を負っていた。顔色も蒼白で、何より両手が悴んでいるかのように大きく震えていた。
秀吉にも二言三言謝罪を口にしてそのまま宛がわれている部屋へと引き篭もり、そしてこの現状がある。
身を削り自分に尽くしてくれる友人へと、何ができるだろうか。考えても明確な答えは導き出せなかったが、せめて話だけでも聞くことはできないだろうかとこうして秀吉はやって来たのだ。
「……半兵衛よ。聞こえているか。何があったというのだ」
時々苦しげに咳き込むことを秀吉は知っている。
彼が何の病魔に侵されているのか、直接は聞かないが薄々と気付いていた。血反吐を吐くような病など限られている。故に、彼は万人に囲まれていながらも孤独であろうとした。
元々溢れ出る偉才からか、半兵衛は大勢の人間に囲まれていても何処か遠くを見ている。そこに滲む感情の名を既に秀吉も半兵衛も捨て去っていたけれど、人として生きている限り全てを払拭するのは無理なのだ。
秀吉は自らの弱さを振り払うため、最愛の人を殺した。だがその時の光景を夢で見るたびに悔恨の言葉が浮かび上がり、涙を呑んで自制した夜は数え切れない。
支えてくれたのは同じ夢の先を求めてくれた親友の存在。自らが望む野望を、半兵衛は一度だって疑わずに共に行こうと言ってくれた。そうやって何度も励ましてもらいながら、だが秀吉は半兵衛に同等のものを返せていないのではないかと最近は頓に思う。
具合が一層悪くなり出した頃からだろうか。半兵衛は明らかに秀吉に対しても一線を隔てるようになった気がする。
時折彼の儚い横顔に滲んでいたのは、喪失への恐れと世界を呪う眼差しで。帰還した時も、悲哀と憤怒と諦念が織り交ざった目をしていながらも表情はまるで死んでしまっていた。
なのに、半兵衛はそんな自分の状態さえ隠すように部屋へ閉じ篭っている。
親友であるとはいえ主従の関係は弁えようとする半兵衛だからこそ、これから天下平定へ乗り出す秀吉に余計な心配をかけまいとしていのかもしれない。ならばその意図を汲み取ってやるのが最良だと言える。
しかし前述したとおり、秀吉は友を無碍にできるほど冷徹ではいられないのだ。たとえ覇道のためであれど。
「返事をしないのならば勝手に入るぞ」
埒が明かないと判断し、そっと襖を開く。半兵衛からは何も返ってこない。暗い部屋へと身を潜らせて、秀吉は中央に敷かれている布団へと近付いた。
「……すまない、秀吉。すぐに仕事に戻るから、もう少しだけ放っておいてくれないだろうか」
ぼんやりと天井を見上げながら、半兵衛は消え入りそうな声で願う。
そんなために来たわけではないのだと秀吉が首を振ると、ようやく表情らしい表情が半兵衛に浮かんだ。愁眉を顰めて苦笑した美しい顔が、やがては小さな子供のように痛ましげに歪む。
ねねを喪ったばかりの頃の自分を、不意に思い出した。
「僕は、優しくなんかできなかったんだ」
何処か別の遠い場所を見つめながら、ぽつりと頼りない独白が零されていく。
彼の脳裏に描かれていたのは鮮血に沈む元就の姿。
吹き上がった血潮を浴びた時、半兵衛はまるで別世界の出来事を体験しているような現実味のなさを感じ取っていた。
元就が死ぬべき居場所は、自分の隣だったはずなのに。
それを看取っただろう男に元就の全てを横から奪い取られ、半兵衛に残されたのは結局理解されぬまま過ぎ去って行った日々と身を巣食う忌々しい病魔だけだった。
どんなに恨まれても最後の願いが成就されるならば構わなかったというのに、運命に足掻こうとした結果がこれだ。
「優しくできていれば、少しくらいは僕にも何かくれたのかなぁ……」
半兵衛は瞼を落として、それっきり口を噤んだ。
断片的な言葉の奥に潜んでいる真実を見出すには自分は余りにも無力だと、秀吉もまた目を伏せた。
ただはっきりと分かったのは、半兵衛にとってその者は特別だったということ。好意を真っ直ぐと吐き出せないまま、繋がっていた糸は無残にも半兵衛自身が刈り取ってしまったのだろうこと。
微笑んで自らの運命をねねは受け入れてくれた。
半兵衛の想う者は、はたして笑っていたのだろうか――。
「っ! 何事だ?」
しんとした室内に、大きな揺れが生じた。驚いた秀吉は思わず立ち上がり、戸を思い切り開いた。半兵衛も上半身を起こして、様子を窺うように全身の気を引き締めた。
地震ではない。一度の揺れの後、すぐに静まっている。
秀吉が見上げた曇天には、まだ鈍い反響音が響いていた。聞き覚えのあるその音源の正体に、二人の顔が一気に曇っていく。
再び、ずしりと城が揺れた。今度ははっきりと可能性が確信へと変わった。これは、大筒の砲撃だ。
「秀吉様、半兵衛様、徳川軍です! 大阪城を囲むように大軍で押し寄せております!」
慌てた様子で駆け込んできた部下に頷き、秀吉は振り返る。
既に半兵衛は策士の目を取り戻し、足をふらつかせながらも真っ直ぐと立ち上がった。青白い肌はどう見ても健康ではなかったが、そこにあるのは共に戦場を駆け抜け続けた武士の面構えだ。
秀吉は制止の言葉を無理やり呑み込む。何を言っても無駄だろう。半兵衛はとっくの昔に走り続けることを決意しているのだから。
「行こう、秀吉。僕の推測が正しければ、徳川を先導しているのは――」
「うむ。この不落の城、目にもの見せてやろうぞ」
うろたえている部下に叱咤を飛ばし、秀吉は一足先に軍の統制へと向かった。
見送った半兵衛は、自分の具足を持ってくるよう騒ぎを聞きつけてきた者へ命じると、じっと暗い空を眺めた。
動かずに息を潜めていた徳川が動いた。戦国最強たる武力を内包していながらも、織田の脅威に身動きが取れないまま刻々と変わる情勢に取り残されていく哀れな者達だと嘲笑っていたが、警戒していなかったわけではない。
葵の御旗を引き連れている男は、きっと小生意気な顔をして天下を見据えた気分になっているだろう片目の竜。
もう少しで野望が叶うというのに、忌々しい限りだ。
放っておいたって自分に残された命の火はもうすぐ掻き消えるというのに、無駄な徒労を払ってまでこの首が欲しいとは酔狂なことだ。
しかし半兵衛は、己が死しても秀吉を殺されるわけにはいかなかった。自分に待つ未来はもう陰っているが、その先を歩く者が生きている限り夢は潰えないはずだ。
――それでも。そう、思っていても。
迫り上がってくる名前の付けようのない憤りに震え、眩しい彼らに追いつけぬ自分の重い身体が虚しくて仕方ない。
生きている彼らには、死の影に侵食されていく己の抱くものなど何一つ分からないのだから。ほんの少しだけは理解してくれただろう人も、この手が先走って刈り取ってしまった。半兵衛の虚無感を本当の意味で推し量ることのできる男は、もう一人しかいない。
「けほ、ごほっ……君も、僕を殺しにくるのかい。憎くて憎くて、世界よ呪われろと君も恨んだだろう?」
血を吐き出しながら半兵衛は、暗闇で光る虎の眼を思い浮かべた。
全てを失ったあの男はきっと自分を噛み殺しにやって来る。刻々と近付いてくるその瞬間が不思議と待ち遠しかった。
大筒の攻撃の後、家康は全軍に命令を下した。大阪城は難攻不落の堅城。大阪にいる豊臣の軍勢はさほどではないとはいえ、篭城を持って時間稼ぎをされたのならば諸国へ散っていた軍が徳川の背後に集まってくるだろう。そうなればこちらに勝機は無い。
政宗の言うようにこの期を逃せば、豊臣の天下は固まってしまう。早急に決定的な勝利をしなければ、討ち取られるのは自分達だ。
「今日まで待ったのは戦無き泰平を創る為。苦節の日々はもうしまいだ。これが戦国最後の戦だと各々肝に銘じろ!」
自分自身を奮い立たせるための言葉に、徳川軍は鬨の声を上げて豊臣軍へとぶつかって行った。
隣でそれを聞いていた政宗は口笛を軽く吹き、三白眼をさらに鋭くつり上げて大阪城を見上げる。
辺りの城は既に制圧している。伝令がここまで辿り着く前に、伊達軍が前線を食い破り怒涛の勢いで後に続く徳川軍が大阪へと雪崩れ込んできていた。向こうは完全に後手に回っている。だが安心はできない。
この戦いを敗北するようなことがあれば、伊達も徳川も二度と抵抗できないくらいに完膚なきまで叩きのめされて断絶される。夢見た泰平の世もままならず、時代は豊臣の求める富国強兵へと突き進んでしまうのだ。そうなれば戦渦は飛び火する一方。約やかに生きる民は、今以上に苦しみ喘ぐだろう。
そうなる前に、自らの手で天下を掴む。政宗と家康の目的は合致し、二人は此処までやって来た。負けるわけにはいかなかった。
「おい忠勝、どうした?」
家康の後ろで膝を付いていた忠勝が突然唸りを上げて身を起こした。何かに反応しているように、首をぐるりと巡らせる。
前方の豊臣軍だけを見つめていたはずの瞳はしばらく左右を見回したあと、後方の一点を凝視して止まった。
不思議そうに家康がその視線の先を辿ろうと振り向こうとした刹那、辺りを包む空気が一段と低くなったことに政宗は気付く。籠手の下でじっとりと噴き出した冷や汗の気持ち悪さに思わず顔が歪む。
それを察したのは彼一人ではなかった。
本陣の周囲にいた隊がどよめき、振り向きかけていた家康もまたそのままの格好で硬直している。控えていた小十郎もまた、ぴりぴりと肌を刺してくる禍々しい存在感を感じ取っていた。
ちゃり、ちゃりり、と凍えた静寂を裂いて忽然と現れた音色は徐々に近付いてくる。この浮世の如き繊細な音を立てる槍を携えた男が、まるで目の前の戦など見えていない足取りで進んでいく。
短く乱雑に切り落とされた焦げ茶の髪。辛うじて赤の模様が見えるどす黒い具足。手にした槍は十文字。掲げられているのは六つに並ぶ薄汚れた銭。
衆人の視線を一挙として浴びているのに、無言のまま彼は脇目も振らず陣の傍を通り過ぎて行った。
怪しげなその男の風貌に見覚えがあった家康は、慌てて声をかけようと唾を一度飲み込んだが、青い具足に制される。
この軍の総大将は家康だ。彼が揺るぐことのないよう努めなければ周りに示しが付かない。そう判断した政宗は、馬に飛び乗ると男の隣へとあっという間に追い付く。
何より自分が行かねばならないと悟ったのは、見た目以前に感じ取ってしまった本能的部分のざわめき。好手敵たる彼を間違えるはずがない。
「何処に行く気だ、真田幸村。此処は俺達の戦場だ。戦から身を引いた腑抜けがのこのこ来る場所じゃねえ」
皮肉気に言ってみるものの政宗は自分の身体が総毛立っていることに気付いていた。
――これは確かに真田幸村なのに。
どうしてだろうか。政宗にはもう、別の生き物のようにしか見えなかった。
「お前、別れた時にはちゃんと笑っていたじゃねえか。何があったっていうんだよ!」
怖気を振り払うように感情が篭められた政宗の呼びかけに、ようやく足を止めた男は億劫な動作で微かに顔を向ける。
だがその双眸は政宗どころか、目の前に広がっている現実さえも見えていないように虚ろだった。真っ暗な奈落への道を歩み行く亡霊のような希薄さを持ちながらも、奥底に滾っているのは醜い人間だからこそ持ちえる心の闇か。
視線を交わしてしまい、政宗は知ってしまった。
――幸村が何より慈しんでいただろう人はもう、いないのだ。
「……天下など貴殿らにくれてやる。だが、某を阻むというのならば容赦は致しませぬぞ」
陰っていた瞳が途端にぎろりと鋭利な眼光を生む。
背筋を引き攣らせた政宗に頓着することもなく、そのまま幸村は曇天に佇む荘厳な城にいるだろう憎むべき対象を思い奥歯を噛み締める。鬼気迫る横顔で大阪城を睨んでいた彼は、制止も聞かずに走り出した。
「おい真田っ!?」
揺れる鉢巻は赤を通り越して既に黒ずんでいる。
豊臣に従軍していた時から纏う具足も取れぬ鮮血に染まり炭化した鉄錆の臭いを散らしていたが、あくまで何か目的があったからこそ彼は罪の色を敢えて被り続けていた。戦で敵将を葬ることに誉れだ。だからこそ男は幾人も自ら進んで切り落とした。彼に課せられていたのは何の見返りなのかは結局分からないままだったが、上げた勲章が多くなければと傍から見れば悲痛なほど躍起になっていたようにも見えていた。
だからこそ解放を喜びは一入だったろう。別れの際には憑き物が落ちたような晴れやかな笑顔を取り戻していたのも、政宗の知らぬ誰かの傍へと帰れるからこそ浮かべられたものだったはず。
――何故此処にきた。戦場から退いて、大切な誰かと遠くへ行くのだとお前はあんなにも嬉しそうにしていたというのに。
大軍の波へと一人突っ込んでいく紅の焔に、政宗は絶句したまま息を呑んだ。
何より垣間見た面差しに純粋な恐怖を覚えた自身が信じられない。
虚ろな暗い瞳と覇気の無い顔は久方ぶりの再会の際にも浮かべていた彼らしからぬ表情だったが、それも豊臣と織田の戦が終焉して随分とましなものに戻ったはずだ。
だがあれは、何だ。一体誰なのだ。
一瞥された時に垣間見た男の相貌を思い出し、戦慄が駆け抜けていく。
家康もまた見てしまったらしい。追いついてきた隣の男へ視線を投げると、槍を握る拳が視認できるほど細かに震えている。
「あれが、真田幸村だというのか」
唾を飲み下しながら恐々と問いかけてきた家康に、そっと頷く。
彼が何を感じ取っているのか分かるからこそ、政宗も多くは語らない。
何よりも、かつての好敵手に感じてしまったものが怯え以外の何物でも無いことが認められず、吐き捨てるように舌打ちを零す。
六爪を握っていなかったのが幸いだ。きっと拳で押し殺す恐怖心に、鍔が擦れ合って耳障りな音をたてていただろう。縮こまる身体を他人に晒すのは自尊心が許さない。
だが、政宗は自覚してしまっていた。
あの男の眼中に最早自分の姿は塵芥とも映る事は無い。自分の知っていた真田幸村は清き焔の申し子。武田の虎和子と謳われる、勇猛名高き明日ある武将であったが――あれは。
「ひぃぃ! 化け物ぉ!」
「近付くなっ紅蓮の鬼に焼かれるぞ!!」
命乞いの声が辺りから止め処なく溢れ出し、引き攣った悲鳴が湧いた。
哀れなことに、幸村の進む道の前にいた者は何の戸惑いもなく槍を振るわれ、辛うじて避けても纏わり付く闇の焔に喰われていく。殺戮を楽しんでいる風ではないのが救いであるが、けれども徳川軍も伊達軍も豊臣軍も関係無く、ある意味平等に淡々と刃で薙ぎ払われていく様は、兵士達に底知れぬ恐怖を抱かせるのに十分だった。
彼はただ邪魔な者を露払いしているだけなのだろうが、逃げ遅れただけの哀れな兵士にとっては言葉も通じぬ化け物に見えるのだろう。
だいぶ遠のいてしまい幸村の表情がどのようなものなのか想像ができなかったが、きっと豊臣の陣中で見せていたように暗く澱んだ無表情のまま彼は突き進んでいるはずだ。
通り過ぎた刹那、政宗の視界に翻ったのは幸村の長かった髪ではなかった。後ろ毛の何も無い項。その上にあったはずの白い布地は――紅を通り過ぎ、彼の纏う具足のように斑上にどす黒く染まりきっていた。
誰かの命を吸った色。
――きっと、その誰かというのは。
血飛沫の中で異常なほど執着して守りきった純白。時折幸村は切なげにその鉢巻の裾を握り、遠くへと想いを馳せている様子だった。
それが今では無残な痕を残すばかりか、まるで幸村の精神までをも侵食してしまったかのよう。
以前幸村が微笑みながら寂しげに紡いだ羨望の言葉が、不意に蘇る。
政宗の掌から大切なものを零すなと、笑っていたというのに泣き出しそうに思えた幸村。
彼の小さな手の中に辛うじて残っていた唯一の宝物は失われ、それを奪い取ったのは紛れも無くあの男に相違無いはずだ。豊臣の陣中で向けていた殺気の意味がここに来て分かってしまい、政宗は遣る瀬無い嘆息を吐き出した。
「家康、今はあいつを放っておけ。俺達は俺達の野望を叶えるべく此処に来たこと忘れんなよ」
幸いなのか不幸なのかは分からないが、幸村の特攻のおかげで道は開けた。大筒で門を破壊していけば、一気に内部へと突撃できる好機があるだろう。
大仰に頷いた総大将をしかと見送り、それから政宗は伊達軍を率いて己もまたあの血生臭い喧騒へと身を躍らせる。幸村の行く末を見届けなければならないという、妙な胸騒ぎと使命感に掻き立てられていた。
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(2009/6/30)
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