07 斜陽の中で吼えた虎
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少女はいつものように一人で地蔵参りにやって来ていた。
花などあまり生えていない厳冬ではあるけれど、年越しの少し前から雪の積もった山の裾野には雪中花が咲き乱れている。そこから二束ほど拝借して供えるのが最近の日課だ。
欠かさず綺麗にするのは旅人の安全を願ってのこと。
村から少し離れた場所にあるあの道は、戦が起こるたびに辺りの村々から出稼ぎの男達が通る。国を治める殿様が何度変わろうともそれは同じ事で、彼女はいつもそれを哀しい目で見送っていた。
竹中半兵衛という人が治めるようになってから土地は裕福になったけれど、兵士として連れて行かれる者が少なくなったわけではない。一番上の兄も豊臣様の行く道を創る為と言って、笑顔で出て行ったままそれきり帰ってこなかった。
しばらくして大勢の葬列が通り過ぎていったから、兄はきっと死んだのだと漠然としながらも幼い少女にだって理解できた。
槍を握ることよりも、豊作の祭の時に歌を謡うのが上手だったのに。人の命を殺めるより小さな種を育てるのが好きだったのに。
その時自分の中に満ち溢れてしまったものを思い浮かべて、少女は袖口をきゅっと握り締めた。
他の家族は暮らしが豊かになったから豊臣様を褒めるけれど、彼女にはどうしてもその出来事が引っ掛かったままだったから表面上では同意しながらも、本当は少しばかり信じられなかった。
戦で村々を焼き尽くす魔王さえも倒して、平穏が訪れたと皆口を揃えて言うけれど。いつまた他の戦が始まるかは分からない。
一番上の兄だけではなく、父や二番目の兄とて連れて行かれてしまうのかもしれないと不安な毎日を送りながら、少女は道を見守る地蔵へとどうか皆を連れて行かないでと願い続けていた。
そんな彼女が出会ったのは、一番上の兄と同じ位の年頃の青年だった。
携えていた槍の設えが随分立派であったから、彼は兵というよりも将だったのかもな、と彼を泊めた晩に父が零していたから武家の男らしかった。
凛々しい顔立ちではあったけれど、話すほどに滲んでいたのは穏やかな優しさ。大好きだった兄の面影を見てしまったからどうしても放って置けず、父に嘆願してまで家に泊めたのも戦場から生きて帰ってきた彼に、戻ってこなかった兄を重ねてしまったからだろう。
怯えた声を上げて起きてきたことを少女は知っていたけれど、自分に返してくれた笑みが問い掛けを制しているような気がして何も言えなかった。
戦場帰りの人間が悪夢に飛び起きるのは珍しくない。
少女の隣の家の小父さんも、命からがら帰ってきたけれど片腕を失っていた。それで済んだのは友達が庇ってくれたからだとも言っていた。それの時の夢を時折見るのだと、哀しげに笑っていた。
青年の笑顔は、そんな風に何かを失ってしまった人と同じ見えた。
彼はどうしているだろうかと少女は道の東側へと顔を向ける。
慌しく騎馬が通り過ぎようとしていたのを眺めていたら、突然顔色を変えて走り出してしまった。あっという間の出来事に少女は取り残され、呆然と遠のいていく青年の背を見送った。
あれからそろそろ一週間が経つだろうか。
もう少し話したかったと溜息を吐き出した彼女は、気を取り直して大樹の木陰へと走り寄っていった。
その足もすぐに止まる。
地蔵の前で、手を合わせている男がしゃがみ込んでいた。
編み笠を深くかぶって少しみすぼらしいが袈裟を着ている。人がいたことに驚いていた少女だったが、お坊様だ、と気付いて微かに緊張感を緩め、物珍しげに近付いてみる。
一心不乱に何かを考えているのか、坊主は動かない。
笠の影に覆われ目鼻立ちは分からなかったが、短い襟足が零れているのが目に入る。剃髪はしていないようだ。背中には大きな箱を背負っていて、旅をしているのだろうと察せた。
不躾な視線に気付いたのか不意に坊主は立ち上がる。
しゃら、と涼やかな金属音が耳に入り、少女は咄嗟にその音源を探した。
錫杖だろうかと見上げた先には、六つに並んだ銭がある。
それが括り付けられている物の正体に、大きな瞳がさらに見開かれてた。
「……お侍様?」
呼び掛けに答える声はなく、立ち上がったことで見えるようになった口元が小さく笑んだ。
坊主は袂から文を差し出した。反射的に受け取ってしまってからもう一度顔を上げる。小さな囁きに問い返そうとするが、無骨な手が伸びて頭を柔らかく撫でられるだけだった。
からりからりと音を立てながら遠ざかっていく後姿を唖然と見送っていた少女だったが、やがて見えなくなると何事もなかったかのように新しい雪中花を枯れたものと取り替えて地蔵に手を合わせる。
受け取った文は肌身離さずいようと誓い、再び西へと旅立とうとしている青年がどうか戻ってきますようにと願った。
徐々に目的地へ近付くほど、遠くから戦の喧騒が響いてくる。
薄暗い灰色の雲を男は笠の縁から無言で見上げていたが、すぐに止めていた足を動かし始める。
あれだけ雪を降らせたというのに、暦上では春を迎えた今でさえ凍えるような北風が胸の隙間さえも吹き抜けてくるような気がした。
「……もうすぐだ」
寒さから守るように胸元を掻き抱いた男は、薄っすらと微笑んだ。
影の中に浮かぶ笑みは酷く歪んだものであったがそれを知る者は誰一人いない。
――もうすぐ其処にいくから。
そう繰り返して、男は西への路をただ歩き続けていく。
徐々に近付いていく大阪の地には慣れ親しんだ戦場の臭いが立ち込めていたが、祝詞一つも口にしないまま袈裟を引き摺る男は進む。その度に錫杖代わりの六文銭の音色が、死者を三途へと誘う歌のようにからからと鳴り響く。
村々が焼けて、兵士達の屍が積み上がり、血溜まりを踏みつけても、男は脇目も振らずに行く。
いまだ辿り着かないというのに既に遠目に見える巨大な城を、仇のように睨み付ける眼光は、洞穴から這い出てきた虎のような獰猛さを孕みながらぎらついていた。
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「小十郎、首尾はどうだ?」
「はっ、滞りなく。後詰めの徳川も追いつく頃ですが、まだ待ちますか」
目立つ平地を避けて森の中を行軍し続けていた伊達軍は、宿敵たる織田に勝利してから浮き足立っている豊臣にじりじりと近付きながらその時をじっと待っていた。
件の戦いからその殆どの諸侯らが一旦国許へと帰ったのに対して、だ伊達は奥州まで帰還せず後退するだけに留める。
戦が終わった時には暦が大晦日から正月に差し掛かり、本来であれば自国へ帰って祝いをするのだが政宗はそうしなかった。
勝利と年明けの祝賀で大阪は盛り上がっているだろう。一時的でも戦乱の終結が見えて人々は浮かれ、城では盛大な祝いが催されているはずだ。己の権威を示そうとする豊臣であるのなら、それも中々派手な祭になっていよう。
中央に程近い三河の地に滞在しながら家臣達と簡単な礼式で酒を分け合い、慎ましい正月を過ごした政宗はじっと動向を睨んでいた。
織田を倒したのは無論自分にとって必要なことではあったが、通過点の一つにしか過ぎない。
既に日の本一と言われるほどの勢力を内包する豊臣を倒す好機は、今しかないだろう。最大の敵を葬り、最早自分達を遮るものは何もないのだという確信に酔い痴れいるからこそ、それが弱点となりうる。
政宗は乾いた唇を舌で濡らしながら、戦前の高揚感に酔いそうだった。
これ程に気が昂ぶるのは、真田幸村と最後に一騎打ちをした時以来だろうか。
彼は今一体何をしているだろうと、白い鉢巻を巻いた男の背中をぼんやり思い出したが政宗は首を振って余計な思考をすぐさま打ち消した。大業を前にして雑念を抱くわけにもいかない。ましてや既に戦う意志を自ら捨てた男になぞ、二度と会うこともないだろう。
それが少しだけ残念に思いながら政宗は兜の下で目を伏せると、声を張り上げた。
「Ha, 野暮な事を言うなよ。一番駆けは伊達軍のもんだ! Are you ready guys?」
「Ya-ha!!」
号令を皮切りに、丘の上から一斉に騎馬隊が流れ込む。
誰も予想していなかったのだろう。先の功績でようやく秀吉から城を叙された城主は焦って兵を動かそうとしたが、政宗の読み通りに軍の機能は祝賀の名残で麻痺しており碌な動きもできないまま崩されて行った。
破竹の勢いで大阪まで攻め上っていく姿はまさしく天下を喰らおうとする竜の如く。一時期とはいえ与していた豊臣傘下相手に戸惑いはない。逆に伊達軍そのものである政宗の自尊心を彼自らが投げ打ってまでして待ち続けてきた機会だと軍全体が知っているため、主君の耐えた恥辱を払うが如く、士気を高めて怒涛の如く進軍の足を緩めようとはしない。
これが最後の好機。
政宗も小十郎も、皆も口には出さないが理解している。
戦乱は終わる。だがそれは豊臣の物であってはならないのだ。この期を逃してしまえば最早諸侯には止める手立ては残されていないだろう。
「アンタの夢と俺の野望、どちらが天下は欲しているのか勝負といこうじゃねぇか豊臣秀吉!」
後の世で戦国最後の戦いと語り継がれる大阪の役は、こうして幕を上げたのだった――。
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(2009/06/03)
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