06 血染めに軋んだ音色
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まだ意識がはっきりとはしていない元就は、されるがまま幸村の背へと顔を寄せる。か細く啼く己の呼吸音をまるで他人事のように感じながら、最早抵抗さえもできずにただ定期的に上下する青年の背中へと身を委ねることしかできなかった。
黒ずんだ直垂から微かに香る錆臭さから、纏まらぬ思考でも彼が戦場から帰ってきたのだという実感がじわりと湧いてくる。
白地に赤染めされてあったはずの具足は、闇色に紅と暗く沈んでいたが元就にはまるで彼の日に見た夕暮れを思わせた。
その端に揺れる白の鉢巻の対比が不自然だと他の者は評していたが、朦朧としている元就にはただ幸村との思い出が綴る白い花畑を思い出す要因となるだけで、逆に不思議と安らぐ。
戻ってきたのだ。
――本当に、幸村は帰ってきてくれた。
元就は霞む視界の中に見える背中に笑み、辛うじて動く斬り付けられなかった方の肩を動かし掌で撫でるように触れた。
一年も過ぎていないが、成長期の幸村の身体は見知らぬ間に少し大きくなったようだ。拾った時はまるで頼りのない子供にしか見えなかったのに、救われていたのは自分の方だった。
長い生涯の中で彼との日々はほんの一欠けらだったけれど、思い出すのは何も持たない真田幸村と毛利元就が、それでも世界の片隅で寄り添う合えた短い時間ばかり。
春が過ぎれば、ようやく一年が経つはずだった。四季の巡りを幸村と過ごせたら、などと症状を自覚してからは幾度となく考えたことがある。幼子の夢想のように他愛もない願いだと失笑しながらも、本気でそれを望んでいた自分を元就はもう知ってしまった。
――嗚呼、口惜しや。
そう嘯きながらも元就は薄く微笑む。あれほどみっともなく幸村へと縋っていたというのに、今は不満や未練などもう浮かばなかった。
幸村は最後の最後まで嘘を言わなかった。
武田の残党達に身を寄せたり他の大名に仕官したりと、若い彼ならば幾多の道が外の世界にはあったはずなのに、愚かなくらいに真っ直ぐと此処へ帰って来たのだ。
元就と共に遠くへ行こうと儚い願いだけを夢見て。存在意義であった武士としての生き様を捨ててまでも、元就の隣を選んだ。
半兵衛の命は奪えず、幸村はこれからも彼に狙われる可能性は皆無ではない。それでも自分のような重石から解放されたのならば、幸村は今度こそ本当に自身の意志で生きていけるだろう。
代用品などではなく世界にたった一人しかいない毛利元就という存在を幸村が選び、忘れないでいてくれるのならば、それでもう構わなかった。
幸村が此処にいる。
それだけで、もう、良かったのだ。
「馬鹿な、男だ。我は偽りばかりを吐いていたというのに、そなたは一つも責めなかったな……」
ぼんやりと零す元就に切なさを覚え、背負う腕に力を入れながら幸村は荒い息を吐き出す。
何を責めろというのだろう。元就が幸村についた嘘はどれをとっても自分を想ってくれているからこそのもので、幸村にとっては真実以外の何物でもないのだ。
ただ哀しいのは、元就が一人で全て耐えようとしてきたことだけ。
忘れたくない、覚えていたいと感情を露呈したあの日、元就はどれほどの恐怖に怯えていただろうか。拙い約束を交わした時の消え入りそうな笑みが浮かび上がり、あの時既に元就は自分との再会を半分諦めていたのだろうと今更ながら気付いてしまう。
戦って、戦って、ひたすら血を浴び続けても全ては彼の手を再び取るためだったというのに。何もできないままこんな最悪な再会しかできなかった無力感に震えながら、幸村は足掻くことは止められない。
喪ってしまえば――。
想像することすらおぞましく、青褪めた頬を雪が触れることさえ厭わないまま必死で足を動かし続けた。
「……我を、置いてゆけ」
「できませぬ!」
寺を出て、崩れた土塀の隙間から裏へと出た幸村は一心不乱に進んだ。
しかし元から疲労が限界である。急いでも背中の元就に負担をかけてはならないため勢いをつけて歩くこともできないため、どうしても足元がふらついてしまった。
全てが儘ならぬ事に幸村は唇を噛み締める。
ようやく会えた。
ようやく触れられた。
――なのに、どうしていつも世界はこんなにまで辛辣なのか。
「幸村、頼む」
「駄目です、もう離れたくない!」
頑なな子供のように首を振る自分に、元就が笑った気配がした。
力を振り絞るように指先が幸村の肩から伸び、山の上へと続く獣道をのろのろと指し示す。
幸村は弾かれるように顔を背中へと向けた。
血に汚れた長い髪が視界に零れるばかりで、元就は身体を弛緩させたままもう動かない。持ち上げていた腕もだらりと下げられ、背に感じていた熱い吐息も段々と弱々しくなっていた。
もう、意識さえ保てなくなり出しているのだろう。
言葉を紡ぐのも億劫な様子で、元就は甘えるように幸村の背へと頭を擦りつけてきた。焦燥しきっているだろうに幸村を見守ってくれていたあの優しい面差しを浮かべているのだと思うと、息が詰まりそうだ。
雪の止まぬ曇天を仰いで瞼を強く瞑り、嘆息を漏らす。耐えようとしていた涙はもう止まる術を失い、幸村の頬に容赦なく流れていく。
嗚咽交じりの呼吸を繰り返しながら、山越えするために山道へと向けていた足先を返して、幸村はその獣道を泣きながら登っていった。
重苦しい白い足跡の後を、紅の雫が点々と伸びる。
元就と手を繋ぎ合って登った坂道。それが無残にも、二人を永遠に別つ道程と成り果てるのだと思うと一層涙が溢れ出す。
幸村は目の前に広がった銀世界の中央、老樹の前へと元就をそっと下ろした。されるがままの元就の乱れていた身形を直し、もう自分の姿もはっきりと見えないだろう彼の目に映るよう顔を寄せる。
「ゆ、き……そこにおるか?」
「おります。ずっと、貴方のお傍におりますからっ!」
痺れて動かないのであろう白い手を、幸村はきつく握ってやる。
その手首から零れた六文銭に胸が締め付けられた。
連れて行かないで、連れて行かないでと何度も叫ぶ。もう自分には何も無いのだ。何も要らないから、元就だけは、と必死で守り続けていたちっぽけな願いすらもうすぐ奪われてしまうのだ。
一人になりたくない。元就を一人にしたくない。
暗闇でようやく灯せた光とずっと一緒にいたい――。ただそれだけが望みだったのに。
「お願いです……どうか逝かないで……」
くしゃくしゃに歪む幸村の顔を薄目で眺めていた元就は、困ったように笑った。
大人になったと思っていたが、やはり中身は自分の知っている幸村だ。愚直で泣き虫で、けれど臆病だった自分なんかよりも本当はずっと強くて眩しい――元就の愛した優しい太陽。
彼のくれた温もりに触れたくて、元就は血を吐き出しながらも声を出す。
伝えなければいけない言葉があった。
ずっと言えないままだった、幸村への返事が――。
「笑って、くれ、ゆきむら」
幸村の綺麗な涙を薄っすらと見つめながら、けれど今一番見たいものは違うと元就は笑った。
それは幸村も始めて見た、屈託の無い笑顔。
血の臭いさえも洗い流せるような微笑みに、幸村はどきりと虚を突かれた。
魂が剥がれ始めた者は現世と隠世の狭間だからこそ、その危うさ故に人ならざる美しさを纏う。もう死の足音が間近に聞こえるのだろう。察しているからこそ、元就は笑うのだ。
もっと違う形で浮かべて欲しかったと幸村の中に猛烈な悲哀が襲い掛かり、再び目頭が熱くなる。
例えば、逃避行した先にある遠い場所で見たかったのかもしれない。
それはとっくに叶わない夢幻になってしまった。
笑えというのなら笑おう。泣けというのならもっと嘆こう。だからどうか神様――と幸村は六文銭ごと元就の手を握り締め、奥歯を食い縛って涙を堪えながら精一杯笑った。
きっと元就へと向けた笑顔の中で一番歪んでいただろうが、もう視界が霞んでいる元就はとても満足そうに目を細めた。
「好いておる、よ……そなたに、会えてよかっ……た……」
「元就殿っ!?」
指先から伝わってくる鼓動の弱さが耐えられず、幸村は元就を掻き抱いた。冷たい身体はくたりと寄り掛かり、白く煙っていた呼吸も見えなくなる。
小さな雪原を赤く染める自分の血を眺めながら、夕陽に染まる彼岸花を元就は思い出していた。身体を重ねた夜を過ごしたあの日の穏やかな情景も、とつとつと浮かんでは消える。
そして最後に、幸村の笑顔が自分の名前を呼んだ。
重かったはずの身体が急に軽くなったような気がして、元就は何処かに惹かれるような眠気に誘われ瞼を落とした。
幸せそうに綻んだ横顔を、泣き叫ぶ幸村の肩口に乗せて――。
「嫌だ、嫌だぁ嫌だあああああーっ!!」
深々と降る雪の中、獣の咆哮のような嘆きが山々に響き渡った。
言葉にならない叫びを繰り返し、幸村はもう聞こえなくなった鼓動を掻き抱く。自分の身体も相手の身体も真っ赤に染め上げられているというのに、素知らぬ顔をして白い雪がその上から降り注いでくるのが忌々しい。
今目の前で大切な人が消えてしまっても、世界はこんなにも変わらないまま在り続けるのだ。
元就が死んでしまったのに。
この手の中にいながら、死んでしまったのに――。
どれくらいそうしていただろう。
息も絶え絶えになりながら、涙はもう枯れていた。
嗚咽を零しながら凍えて動かなくなりかけていた自身の腕をようやく下げて、愛しげに元就の身体を横たえる。その安らかな寝顔をそっと撫で、覆い被さるように覗き込む。
血で汚れていた元就の顎を持ち上げ、舐め取るように舌を這わす。口内に鉄錆の味が広がっても、幸村は止めなかった。
口元の汚れを全て拭うと本当に眠っているように見える。
だらりと垂れ下がったままの元就の手を胸の前で組ませ、裾から零れた六文銭の紐を解いた。
静謐な儀式めいた行為の後、幸村はもう一度元就の顔へと口を寄せる。
今度は唇へ、静かに触れた。
――三度目の口付けからは、もう悲しみしか生まれなかった。
無言で立ち上がった幸村は何かを振り払うように血に濡れた六文銭を袂へしまい込み、そして携えたままであった刀を抜いて元就を見下ろした。
此処にはもう血の色しか残されていない。
元就の周りも、幸村の具足も――白さを守り続けていた鉢巻も、流した血潮を擦ってもう赤黒く染まってしまった。他ならぬ元就の血で。
どれだけ穢れようが彼がいればよかった。
どれほど非難を受けても、彼が受け入れてくれるならば構わなかった。
それでも、全てはこの掌から零れていくだけなのか。
幸村は今すぐにでも死んでしまいたかった。けれどこんなにまで苦しくとも、まだやらねばならぬ事の残る自分は生きなくてはならない。
元就が今際まで幸村を案じて病を隠し続けたことを思えば、簡単に自害などできようはずもない。こんな世界であれど生きていてくれと願いながら元就は最期に笑ってくれたのだ。
元就は死を覚悟していた。
日輪へ祈っていた彼の遠い横顔は、西方の彼方を思っていたのか――まだ死にたくないのだと縋るものだったのか。
どちらにせよ幸村は取り残される。
自由であれと元就が望んでいたのは、もしかするとこの日が来ることを知っていたからなのだろう。
寂しいのは、一人になるのは、元就とて堪らなく怖かったはずなのに。幸村にも打ち明けないまま溺れそうになりながらも、足掻いて足掻ききって、涙も流さず世界を呪うこともしなかった。
「……俺は、貴方のように強くはなれませぬ」
陰った笑みを貼り付かせた幸村は、躊躇なく刃を引いた。
はらり、と幸村の一つに結っていた髪が頭から離れ、掴んでいた幸村の掌に納まる。散らばる両端を無理やり結んで元就の胸の上に置くと、今度は元就の首際へと刃を突き立てる。
真っ直ぐとした髪が途切れ、別れる前の見慣れた長さに戻った。
丁寧に揃えてやった後、幸村は落とした髪の束を拾い上げて自分の物と同じように端を固く縛り上げる。
そうしてできた遺髪を、愛しげに触れてから懐へと丁寧にしまい込むと、雪に埋もれかけていた最愛の人の亡骸を横抱きにして歩き出した。
「もう少しだけお待ち下され。幸村が必ず、最果てまでお連れ致しますから」
吹雪き出した雪さえも元就に触れることを許さぬかのように何度も何度も払い除けながら、髪の短くなった二人の影はやがて暗がりの中へと消えて行った。
残った血生臭い赤は掻き消され、静かな雪景色が続くばかり。呪うような風音を立てながら山の天候はさらに荒れていった。
それから三日三晩、山は吹雪いた。
麓の者達も近づけないほどの猛威が続いたが、四日目の朝には不気味なほど静かに落ち着いた。
治療と療養のため床に伏していた半兵衛は、毎日のその山を見上げていたが、四日目の朝にはとうとう従者達に寺に様子を見てくるよう命じる。
すぐさま帰って来た彼らの報告に、彼は言葉を失ってしまう。呆然と遠目の山を凝視するが、白く染まりきった景色からは何も読み取ることはできなかった。
寺は、なくなっていた。
吹雪の中で燃え尽きたのだろうか。草臥れた楽園は灰塵と化し、身を寄せ合っていた住人は血に穢れ――雪に閉ざされた闇夜へと自ら火を放ち、全ては消えてしまったのだ。
残されたのは長い石段の上の朽ちた門と、黒く焼け焦げた残骸ばかりだったという。
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(2009/05/27)
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