06 血染めに軋んだ音色
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焦るのは心ばかりで身体が追いつこうとしないのがもどかしい。ある種の恐怖心が胸を抑え付け、走り続けるを止められない。
幸村は息も絶え絶えになり、いつしか足の裏からは摩擦によって血が滲んでいたがそんな痛みも顧みずに記憶のある山道を駆け抜けた。
山に入ってから降ってきたのか、気が付けば粉雪が視界を遮り始める。
足元に積もっている雪が障害となって速度が落ちてしまうことが腹立たしく、同時についこの間見た夢と被る光景が幸村の背中を押し続けた。
どうか間に合えと、ひたすらそれだけを願う。
思い違いであれば構わないのに、浮かぶのは恐ろしい想像ばかりで幸村の双眸から涙が滲んだ。
ふらつく身体を木に凭れかからせて、唾を飲み込みながら呼吸を整えた幸村は前方にある騎馬の影を睨んだ。駆け出した勢いで刀を抜いた幸村に彼らが気付いた時には、鋭い痛みが急所に落とされて意識が一瞬で飛んでいた。
慌てて階段を上った兵士達を追いかけるように幸村は顔を上げる。
懐かしき古寺が、雪を被って佇んでいた。
階段を上る途中で追いついた兵を昏睡させつつ、疲労で萎えた足腰をどうにか動かしながらようやく門へと辿り着いた幸村は、白い世界の中で異質な物を見た。
緩やかに境内を白く染めていく雪の中、ぽつんと染み出ているのはまるで首落ち花の如く鮮やかに浮かぶ紅。じわりとそこにだけ滲んでいるどす黒い色は、幸村が狩ってきた者達の流したものと同じく死の気配を孕んでいた。
酷い寒気を覚えた幸村は、焦燥感に駆り立てられるがままに目の前にある本堂への視線を差し向けた。
幸村から逃れきった兵士が慌てた様子で扉を開け放ち、中にいる主に助けを求めるように呼んだ。
予想通りに、あの仮面の男の名を。
「……おや、随分と早かったじゃないか幸村君」
大きな音を立てて開かれた扉。
這い蹲る兵には目もくれずに、寂れた本堂へと飛び込んだ幸村だったが、何処か虚ろな気配を携えた半兵衛の言葉にも反応を返せないまま立ち尽くしてしまう。
青褪めたまま絶句した幸村の顔を一瞥した半兵衛は、彼の視線の先にいるであろう足元に倒れている人物を緩慢な動作で見下ろした。刀を握っていた拳はみっともないくらいに震えていたが、それを自覚したくなくて半兵衛は静かに瞼を落とした。哀悼の祈りのように。
声を失った幸村はふらふらと足を進める。目の前の光景がまるで白昼夢のようだ。瞠目したままのそれでも逸らされずにいるのは、信じたくないという一心があったからだった。
しかし――自身にそうやって言い聞かせても、幸村には分かっていた。
見慣れない長い髪。それでも幾度となく触れたことがあるから忘れたことなんて一度も無い、自分と同じ色をした彼の髪。それがうつ伏せに倒れたまま動かない身体から流れる血に浸されて、滑ったような黒へと染めかかっている。
分からないわけがない。
会いたくて、会いたくて、ずっと切望していた。
誰よりも愛しい人が目の前にいるというのに、判別が付かないはずがなかった。
「もとなり、どの?」
幼子のようにたどたどしく名を呼ぶ。足元に力が入らず、それでも彼の側へ行きたくてぐらついた感覚の中を必死に歩いていく。
――何故。
――どうして。
そんな言葉が矢次の如く浮かんでは消えて、残ったのは目の前に横たわる残酷な事実のみ。
無造作に投げ出されている白い手を視線で辿った幸村は、そこに六文銭が巻き付いていることを見出して、抗いようの無い怒りが湧き上ったことを感じた。
幸村から立ち上った殺気にいち早く気付いた半兵衛は瞬時に顔を上げ、痛みを堪えるように眉を顰める。
半兵衛の白い具足は自身の流した赤に濡れていたが、幸村の目にはこれが全て返り血だと見えるのだろう。
何かを諦めたような薄い笑みを浮かべ、攻撃を逸らすために犠牲となった己の肩から突き刺さっていた小さな刀を抜き取る。瞬間、凄まじい激痛が伴った。利き腕そのものをやられたわけではないが、細かな制御を必要とする半兵衛の関節剣を使うには手痛い傷だ。
あの至近距離では、防ぎようがなかった。
故に半兵衛は己が心の臓を守るべくして身体を捻り、敢えて小刀を肌へと沈ませた。向けられた殺気へと反射で攻撃をしたが一寸遅く、渾身の一撃を篭めた刃が胸元へと寸分違わずに突き通されていたのなら命はなかっただろう。
けれど半兵衛は後悔を覚えずにはいられなかった。取り返しの付きようも無い事態を招いてしまった現実に酷い諦念感が浮かぶ。
自らの刀で袈裟懸けに斬り落としてしまった刹那、元就は嘲笑っていた。最後の最後に、彼の思惑通りに動かされてしまったのだと気付いた時には、もう手遅れだった。
今から連れて医者にでも見せれば助かるのかもしれない。だが自分の肩は使い物にならない。
何より幸村が現れてしまったのだ。半兵衛には、残り少なくとも自らの命を優先する道しかない。
かつて障子の隙間から見たものと同じ、殺意だけが彩られる獣の瞳に睨まれながら半兵衛は肩を抑えて痛みを耐えながら刀を構えた。この状態で幸村と戦っても勝つ見込みなど万が一にもないと理解しているからこそ、嘲りを浮かべながら今の彼の弱点である者の名を盾にした。
脂汗が額に浮かび上がるほどの肩の痛みよりも刺すような何かが半兵衛の心情を追い立てていたが、彼はそれを黙殺した。
「ここでやる気かい。元就君はまだ息があるよ」
「っ! 元就殿!!」
どす黒い視線が一気に弾け、憶測のなかった足取りを速めて幸村は元就の側へと慌てて縋った。その目には半兵衛など最早映ってはいない。
安堵よりも物悲しい喪失感を抱きながら、幸村が簡単に触れることのできる相手をしばらく眺めていた半兵衛だったが、これ以上血が流れては自分も命取りであるから足早に本堂を出て行く。
這い蹲っていた兵士達も過半数が意識を取り戻し、怪我をしている主を連れてそのまま彼らは麓へと去った。開け放したままの扉の向こうから半兵衛を案じるような焦った声が聞こえたから、治療のためにも帰らなくてはならなかったのだろう。
だが幸村にはそんなことどうでも良かった。
必死に元就へと追い縋り、呼吸を確かめるためにゆっくりと仰向けにする。はらりと零れた髪の隙間から露わになる白い面差しは、記憶の中のものと何ら変わらず美しく、幸村は零れそうになる涙を必死に啜りながら微かに伝わる元就の鼓動を確かめようと顔を寄せる。
いつの間にか馬の蹄が遠のき、騒がしかった古寺に再び静寂が戻っていた。
そんな中で元就から発せられる吐息はか細く荒れており、意識を混濁させていた。必死で幸村は彼の名を呼びかけ続けたが、一日中山道を駆けてきた身体は困憊しており、漏れるのは割れた哀れな声音ばかりだった。
口内は酷く乾いていて、元就の名を呼んでは咳き込むことを繰り返す。彼を呼び覚ませる声が出なくて幸村の目頭には不甲斐無さから再び涙が滲んでくる。
不意に、あの不吉な夢の欠片が脳裏に過ぎる。
あの夢のように叫ぶばかりで何もできないままではいけない。
思い立った幸村は慌てて目元を乱暴に擦り、ともかく応急処置をしなければと、無残にも大きく斜めに斬られている元就の身体へと自らの穢れた羽織をかけた。
「……ゆき、……ら?」
布に包まれた感触に身じろいだ元就が、ぼんやりと瞼を持ち上げた。
呼ばれた己の名前にはっとして幸村が顔を覗き込む。
虚ろな瞳で何処かを見ていた元就は、近づいた男の泣き出しそうな顔にようやく気付き、笑った。
今まで何かを耐えるようにして微笑を浮かべていた彼が、錘から解放されたようにふわりと。
本来であればその笑顔に素直な喜びを感じただろう。だが幸村はますます顔を強張らせ、全身から噴出してくる冷や汗に身も心も耐え切れなかった。
元就のその笑い方が、死へと殉じていった大切な人々の笑顔と重なって見えたのだ。
青褪めたまま震える指先を伸ばしてくる幸村に笑いかけ、元就もまた手を伸ばそうと腕を持ち上げる。しかしそれは叶わなかった。
少しだけ動いた二の腕はすぐに力なく床へと落とされた。込み上げた咳に邪魔をされ、微かに硬直した身体からは止め処なく赤が流れ出していく。
凍り付いていた時が瞬時に溶け出し、幸村は急いで元就の身体に羽織を縛りつけ、必死に止血しようとした。自分の血流の音がやけに煩くて集中できず、余計に幸村の焦りは増していく。
「ゆ、き……」
「喋らないで下さい!」
血の塊を吐き出しながら弱々しい声で呼ばれ、幸村は泣きたくなる。
手元はじわじわと血を吸って紅へと染まっていく。薬も包帯も医者も、ここには彼を助ける手立ては何一つない。麓へ降りようにもそこには半兵衛がいるだろう。手傷を負わせた元就を連れて行っても、逆に捕らえられる。何より幸村は、大切な彼を傷付けた半兵衛になど近付けさせたくなかった。
「山を抜ければどうにか他の領地にいけるはず。元就殿、辛抱下され」
「さ、わるな」
軽く混乱している頭を必死に動かしてどうにかしようと懸命に考える幸村の手に、元就の手が重ねられる。
奇妙なほど熱い人肌に驚いて元就を見ると、怒ったような泣くのを我慢しているような彼の不思議な表情がそこにあった。
「血に、触るな。我を置いて、早う立ち去れ」
「できませぬ! 貴方と共に行くと言いました。もう一人は嫌でござる!」
頑なな子供のように首を横にする幸村に、元就はもう一度笑った。
何処か達観した表情に嫌な予感が過ぎり、幸村は傷口を抑える手で元就の掌を必死に掴む。
あれほど夢にまで見た再会が、こんな形になろうとは世界は何処まで残酷なのだろう。幸村は無力な自分が悔しくて堪らず、それを打ち消すようにまどろみかけている元就へと話しかけ続けた。
けれど元就は緩やかに笑むだけで、唇から漏れる声は徐々に掻き消えそうなほど細くなっていく。
「駄目だ、そなたまで……っごほ!」
再び、元就が大きく咳き込んだ。
臓腑に傷が付いたといっても、喀血の量が妙に多過ぎることに幸村は気付いた。背筋から血の気が退いていく感覚を覚え、彼は慌てて振り返る。
先程は気が動転して気付かなかったが、床にも幾つか血溜まりが点々としていた。思い出してみれば、本堂の入り口にも赤い染みがあったではないか。
半兵衛に斬られた傷からの血飛沫にしては不自然だ。ではあれは一体何なのか。
重ねられた元就の手とは逆の、肩口から斬り付けられたために動かないまま投げられている掌を幸村は恐る恐る見る。
血の塊を握り締めたような赤い染みが、土気色に変わってきた肌の上に毒々しく咲いていた。
急いで幸村は床に落ちている守り刀へと目を向けた。半兵衛の返り血では、と一縷の望みを持ったのだが柄には血糊が付着していない。ならば先程からずっと天井を向いているはずの掌に、血がこびり付いているのは――。
脳裏に過ぎるは、従軍する前の穏やかな日々。
口付けに凄まじいまでの抵抗を見せた元就。何度も何度も口を濯いでいた奇怪な行動。共にいれば死ぬという半兵衛のあの言葉。
時折聞いていた元就の異常な咳き込み方は、今、眼下で起こっているそれと酷似していた。
「――肺を?」
元就に尋ねる形でありながら、それは確信だった。
沈黙が居た堪れない。
何かあるのではと思いながらも何も言わなかった元就を信じていたが、現実は無残な形で晒された。
暴いておきながら愕然とする己の虚無感に、疲労で震える両足の力が本当に抜けてしまいそうになった。だがすぐに歯を食い縛り、立ち上がる。
気を抜けば恐慌状態に陥るだろう自身を必死で落ち着かせながら、幸村は元就を背負った。
血を吸った羽織は重くもあったが、既に一度全身を返り血に染め上げている幸村には関係無い。それよりも、記憶にあったものより元就の身体が妙に軽くなっていることの方が衝撃だった。背にある彼の身体が確かに病に蝕まれ続けていたのだとはっきり感じてしまい、悔しさから視界が滲んだ。
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(2009/05/26)
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