06 血染めに軋んだ音色


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 呼吸を整えた元就は身構えるために立ち上がった。
 久しく面に出さなかった険しい表情を浮かべ、じっと本堂の扉を睨み付ける。
 雪に掻き消えて聞こえなかった足音は、扉の前の階段を上がりだしたのかぎしぎしと微かに響いている。それが止まれば、相手との対峙が始まる。

 一体何のために此処に来たのか、元就には予測がついていたからこそ言い包めまいと心に決めてそっと拳を握り締めた。
 自然と手が伸びたのは、懐に忍ばせている小さな守り刀。
 右手で確かな柄の形を確かめると、手首に巻かれた六文銭が緊張感を引き締めるように固い金属音を鳴らした。
 それを見下ろして元就は自身に平気だと言い聞かせた。
 幸村が寄せてくれた信頼の分だけ彼のことを信じてやれているのかどうかは、自分自身では分からなかった。
 しかし、戦の最中であったはずの来訪者が此処へ訪れたということは少なくとも彼等は勝利したのだろう。敗戦しているのならば処理に追われているか、最悪敵側の手にかかっている可能性が大きい。
 勝ったのならば、幸村は帰ってくる。そうやって万が一の事には考えが及ばないのは、信頼というよりも確信だ。
 ――自分はまだこうして生きているのだから。

 一気に開け放たれた扉から凍えた風が吹き込み、元就は僅かに眉を顰めた。
 雪景色を背負った白い髪の男と目が合った。
 彼はいつものように薄っすらと笑みを浮かべると、後ろ手で扉をそっと閉める。その向こう側に彼の部下らしき者が何人かいることを確認した元就は、袂へと入れたままの右拳へと少しだけ力を篭める。
 警笛が頭の何処かで鳴り響いてはいたが、元より退路はない。
 潔く腹を括らなければならない時がようやく来たのかもしれないと考えながらも、別れの際に幸村が健気に紡いだ小さな誓いが思い浮かんではそれを必死で遮ろうともがいている。
 何より身体を蝕むものの正体に気付いていながら、髪を切らずに彼を待ち続ける自分の足掻きは自己否定できない。諦念感を抱いていながらも、心の何処かで幸村が来ることを望んでいるのだから。

「久しぶりだね元就君」

 無言で中へと進んできた半兵衛は、一歩後退った元就を面白そうに眺めて嘲笑った。
 自分にしか見せない狂った笑みが元就は大嫌いだった。
 外では全く正常な人間を演じているというのに、半兵衛が自分に向けてくる感情は何て歪で滑稽なのだろうか。
 それでも時々悟りきったような乾いた目をして遠くを見るのがやり切れなくて、元就は半兵衛に対して最初にあった憎しみが今となっては希薄となっている。
 彼の感じた世界への憤りは、自分や幸村とは類の違うものではあるけれど、結局見つめていた場所は同じなのだ。
 かといって半兵衛の身勝手な想いをぶつけられるのは腹立たしかったし、何よりまだ闇の淵にあっても外へと向かって歩ける幸村をも引き摺り落とそうとする手腕が気に喰わない。
 以前は人形のようにされるがままだったというのに、幸村と係わってからは不思議なくらいに自分の意思が浮かび上がるようになったものだ。元就は気付かれないように小さく笑って、顔を引き締めた。
 毛利家の当主で兄の身代わりで、冷血な智将として己の気持ちを切り捨ててきたからこそ、それらを奪われ切り崩されたからもう何もなかった。
 けれど、幸村を拾っただけのつもりだったのに逆に助けられてきた日頼という一人の男であり、もう何も持っていないただの元就として今を生きている自分には、抗う意志がまだ息衝いている。
 ちっぽけな自尊心と、確かな鼓動を脈打たせているこの身体だけでも、あえてそれを望む愚かな男が此処へ戻ってくるのだ。
 幸村のくれた真実を最後まで見届ける事。それだけでも十分この決意を定めた理由になる。
 一人で戦うことを決めて行ってしまった幸村が知れば、怒るのかもしれない。
 けれど、きっとこれは自分にしかできない戦いなのだ。
 元就は半兵衛の仮面の奥にあるだろう愚かで哀しい真実を見据えるように目を細め、己の戦いの火蓋を落とすため静かに口を開いた。

「真田はどうした」
「毛利のことは聞かないのかい?」

 半兵衛がはぐらかすように尋ねたが、元就は無視した。
 完全に弱体化している毛利を、此度の戦いに使うような生温い男ではないと知っている。水軍と兵力を奪われた毛利は、己が領地を治めるだけの傀儡となり下がったのだろう。琵琶法師の勝一から聞いた少ない情報でも、そうして他家に乗っ取られた家の末路など元就は掃いて捨てるほど見てきたし、自分でも同じようなことをしているから想像は容易であった。
 だがそうなる道だと分かっていながら毛利は選んだのだから、売られた自分には最早関係ない。後悔しながら死んだ息子や、否応がなくその決断に迫られた家臣達に僅かでも感慨が湧かないわけでもなく、ましてや渦巻いていた迷いや悔恨は完全に消えていなかったが、選べる物がたった一つならばもう答えを違うことは無い。
 既に元就は決めていた。この矮小な手で掴もうと足掻ける対象は、この世でもうその唯一しかないのだから。

「質問を変えてやる。貴様はあれとの盟約を破るつもりであろう」

 幸村が帰ってくる前に半兵衛が来た。それだけで十分過ぎる。
 また一歩近付く半兵衛を威嚇するように睨む目元へと力を入れるが、そよ風に煽られたように物ともせず、彼は可笑しげに笑い声を上げた。

「戦は終わったんだよ。彼がいる間は確かに君に手出しはしていない。……おや、不服かい?」

 言葉遊びを楽しむように指先を軽く振った半兵衛。
 軽薄な態度に苛立ちが募ったが、元就は黙って相手の挙動を見つめ続ける。
 半兵衛の腰にはいつもの関節剣が差してあったが、腕は組まれていて抜刀までには多少の時間がかかるだろう。そもそも相手は元就が抵抗できないと軽んじているからこそ、油断しているのだ。確かに此処では一度たりとも元就の言い分が通ったことはなく、抗っても無駄だと最終的には割り切っていたと半兵衛は知っている。
 だからこそ隙が生じる。
 元就はこの一瞬を見逃さぬよう、瞬きすら耐えて焦る気を静めようと深く呼吸を続けた。乾燥した空気が気管を刺激していたが、何事もないようにじっと半兵衛を睨む。
 その視線をどう受け取ったのか、半兵衛は少しばかり笑みを退かせた。

「真田幸村は、確かに立派な武士だったよ。あれは戦うことしかできない人種だね」

 半兵衛は今もなお鮮明に覚えている幸村の化け物じみた戦いぶりに、肩を僅かに強張らせた。
 彼を誰かが血染めの修羅だと言った。虎など生温い。あれはもう同じ世界の生き物ではないのではないかと、臆することのない秀吉にさえ怖れられた。
 そう評した彼らは、暗い泥の川にまだ足を浸からせていないのだろうと一人で妙な孤独感を抱きながら、半兵衛は幸村が確かに自分と同族なのだとあの時感じた。
 生気の欠けた幸村は此岸にいながらして彼岸を見た者特有の虚無感を孕んでいて、誰よりも生きる意味へとしがみ付いて戦う姿は死の淵を知るからこそ唯一を繋ぎ止めようとする必死な抵抗なのだろうと、同じく常世の入り口を覗いてしまった半兵衛には感ずるものがあった。
 だからこそあの時感じた高揚感と恐怖心は、似て非なる。
 虎を檻から放ってしまった恐ろしさよりも、あれほどの戦力があれば野望は叶うのだと秤を簡単に傾けられたのは、自分もまた唯一無二のもののためにしか生きる時間が残されていないのを悟っているから。

「だからこそ野放しにはできない。彼は危険だ。豊臣に付けばそれなりに待遇してあげるつもりだけど、このままだと諸侯が黙っていないよ」
「そうやって、我を盾にまたあやつを縛る気か」

 仕官を蹴った幸村をどうにか召抱えたいと言っていた者は少なくなかった。
 全て断ってはいたが、あの戦いぶりを見てしまえば彼と危険視する者は多いだろう。他国に取られるくらいならと、排除する動きを取る可能性だって皆無ではない。
 だが、それは建て前だ。
 元就は半兵衛の狡猾さを理解していた。自分と似ているから、彼がどれだけ汚い手を使おうが気にも留めない男だと分かっている。
 最初からそのつもりだったのだろう。
 幸村が兵士として使えるのならば――取引を持ちかけるほどに懸想している元就を人質にし、彼らの野望の布石にするべく死ぬまで戦わせる気でいたのだ。
 古寺に閉じ込められてから、いつか何かに利用される日を覚悟はしていた。その対象は毛利だと思っていたが、いつの間にか幸村に摩り替わっていたというだけの話だ。
 元々半兵衛は、元就をそのうち自分の城にでも連れて行くつもりだった。幸村への牽制に己を使うのならばより好都合なのだろう。
 事は密なるをもって成るとして、誰にも――彼の親友であり主君である秀吉にさえ悟られずに、半兵衛は自分自身のためだけにしかならない願いをかなえるべく、毛利家への手回しから今日までずっと一人で待ち望んでいた。
 ふらりと現れては元就を手酷く抱いて、無理やりにでも濃密な接触を繰り返していたのは、ただの性欲処理などという生温い行為ではない。呪詛を撒き散らす妄執の鎖で、自分共々に絡み付かせようとする呪わしい儀式のようなものだった。
 幸村はそんな中に現れた異分子だったのだろうが、それも半兵衛の夢の前では然したる障害ではなかったらしい。
 結果的に彼の描いた道に沿って事は運ばれている。
 元就が幸村へ止められずに寄せた想いも、幸村が元就にくれた掛け替えの無い真実も、全てが半兵衛の手の中で踊らされていたにすぎなくなるのだ。
 ――それが元就には耐えがたかった。

「真田も我も、貴様の盤上の駒だと思うておるのか竹中。愚かな男よな」
「強がらなくていいよ元就君。だって僕達、ようやく同じになったんだもの」

 再び浮かんだ半兵衛の暗い笑みに、元就は背筋を強張らせた。
 外で咳き込んだ時、焦っていたから気にも留めていなかった。大量の喀血は最近頻繁に起こしていたが、外出時は痕跡を雪が全て消してくれていたから油断していたのだろう。
 半兵衛は気付いている。
 元々は幸村への人質として使うために来たはずだが、元就が病巣を抱えていると知れたのならば連れて行くことに躊躇しないだろう。
 この日を彼はずっと待っていたのだ。
 歓喜を湛えた双眸が元就を眺めている。つり上がった口元から発せられたのは、決して知られるわけにはいかなかった絶望への道標。

「もう君は、僕の側にしかいられないんだ。何て素敵なことだろうね?」

 にこりと子供のように無邪気に笑う半兵衛だったが、その言葉は狂った感情をそのままに映す残酷な彩を備えていた。
 一瞬の恐慌が元就の身体の中を通り抜け、震えた心のまま肺が押し潰されそうな痛みの悲鳴を上げた。耐えようと歯を食い縛るが、込み上げてきた血液が口内に溢れて吐き出すように咳が零れた。
 感じてしまった恐れに身体は嘘をつけなかったのだろう。悔しげに半兵衛を睨みながら、元就はもう隠せなくなっている症状を表す赤い血溜まりを踏み付けた。
 己が喉元から溢れ出したそれらの正体を今更突き付けられても動じなかったが、半兵衛がそれを知ることは別問題だった。
 彼はひたすらこの瞬間を待ち望んでいた。それが自分にとってどういう意味であるのか、元就は知っている。
 ――待つのは本物の檻と、絶望の舐め合いをするだけの暗い暗い死の世界だけだ。
 怖気が込み上げて元就は肩を震わせた。
 頼り無い灯りの温かさを知ってしまった今ではもう、抵抗なく沈んでいくことなど自分にはできないのだ。
 彼のくれた約束が愛しく想えて、彼の残した温もりを覚えていたいと縋りながら無様でも醜くとも生きていたいのだと願うようになってしまったから。

 元就は長くなった後ろ髪を、空いていた手でおもむろに掴む。幸村と離れてこれだけの月日を過ごしてきたのだ。幸村が教えてくれた孤独や寂しさを噛み締めながら、彼との再会を半ば諦めていたというのに時間が過ぎていくほどに会いたい気持ちが募り続けたのだ。
 以前のように、惰性のまま死を待つことには飽いた。
 自分はまだ生きている。全てを失っても、この指先の向こう側には幸村の手が繋がれているのだから――。

 微かに俯いて震える元就へ、半兵衛はさらに陰惨な笑みを深くする。
 静かな足取りで一歩近付くたびに相手が後退り、酷く残虐な気持ちになった。
 前髪の隙間から焦燥感を抑えながら半兵衛を見ていた元就は、足音が止まったことで一気に緊張感を膨れ上がらせた。
 相手の間合いに入った。だがまだ元就からでは遠い。
 同じように痩せ細った身体を持ちながらも、獲物を捉えたような目でこちらを見る半兵衛からの圧迫感に、元就は息苦しさを覚えていた。
 けれどまだだと言い聞かせ、瞬きもせずにひたすら半兵衛との距離を測り続ける。

「貴様如きに先の事を圧し付けられる豊臣が哀れだな」
「秀吉はっ!」

 敢えて激昂させるような台詞を選んで吐き出せば、突然正気に戻ったように半兵衛は切羽詰った声を発した。
 そうやって現実を見据えるのが怖いのだろう。自分の出した声音に瞠目し、ばつの悪そうな表情を浮かべた。薄笑いよりもその方が余程人間らしいと考えてしまった元就は、かつての自分の事を鑑みて少しだけ目を伏せた。

「……秀吉は、重荷になんて思ってない。僕がいなくなってもきっと大丈夫だから」

 唇を噛んで半兵衛は俯いた。
 子供のような仕草が何故か幸村と重なり、元就は気付かれぬよう嘆息を吐き出した。

「あと何ヶ月? あと何日? そう考えるたびに震えが止まらないんだ。夢の実現のためなら何でもしてきたのに、僕はその終着地を見ることが叶わない。何て世界は不条理にできているのだろうね」

 長い睫毛を強く瞑り、掠れた声で半兵衛は呟いた。必死に抵抗しても流れに抗うことができないと分かり疲れきったような、諦めの色が銀糸の奥で揺らめいている。
 元就は何も言わないまま無表情を装う。
 同じようなことを幾度も考えた。幸村と過ごすようになってから、考えなかった夜はきっとないのかもしれない。
 だが半兵衛とて同情が欲しいわけでもなく、元就も決して彼を憐れもうとは思わなかった。世には儘ならぬことが多々あるのだと二人は人一倍理解していたし、もう和解するには遅過ぎた。
 微かに窺えたそんな半兵衛の弱々しい部分も、すぐに漏れた笑い声によって掻き消えていく。切羽詰った虚勢だと分かっていながら元就はそれを嘲笑うことなどできない。

「ふふ、だから君を連れて行くよ。もう離してなんかやらないさ。世界と僕を最期の瞬間まで隣で呪っておくれ」

 動かない元就へと、半兵衛は躊躇することなく近付いて手を伸ばした。
 捕まってしまえば元就に待つのは、真の牢獄だ。この古寺のような生温い籠などではなく、半兵衛の城で一生死ぬまで彼の側に監禁され続けなければならない。
 叶わなければよい現実だとぼんやり考えてはいたが、こうも早くに訪れるなど半兵衛の言葉を借りるのならば何て世界は不条理なのだろう。
 幸村が帰ってくるのも、時間の問題だというのに。彼さえ戻ってくればきっと世界の果てにでも二人で逃げ出せるのに。


 ――絶対に、絶対にお迎えに上がりますから――。


 相手が異変に気付いて手を引くよりも一寸早く、袂に忍ばせていた守り刀の柄を引き抜く。僅かに遠のいた細い手が反射的に自衛の体勢を取ったものの、元就は容赦なく逆手で抜いた刃を振り切った。
 瞬時に赤が飛び散る。
 驚いて硬直した半兵衛の隙を付くべく、柄を順手に持ち直した元就は先程よりも力を込めて刃を振り下ろす。が、二度目の強襲には半兵衛も無反応ではない。身体ごと後方へ下げられ、白刃は空を掻き切るのみとなる。
 今度は手ではなく急所たる喉元を狙ったのだが、遠心力を付ける為に大きく振った軌道が見切られたのだろう。
 軽く舌打ちをした元就は両手で柄を強く握り、内心では冷や汗を掻いているだろう男を睨み付けた。
 攻撃した際に音を立てたため、元就の手首に巻かれている六文銭の存在に気付いた半兵衛は先程まで浮かべていた笑みを完全に消し去らせる。代わりに滲むのは悔しさか、腹立たしさか。色素の薄い眼をつり上がらせて、自分へと無意味な反抗をする元就を見た。

「僕に抗ってどうするんだい。どの道、君に刻まれた呪縛は消えやしない。どれだけ真田幸村の事を想おうが手遅れだよ?」
「煩い黙れ。図に乗るでない。全てが貴様の思い通りに動くと思うておるのか」

 刃の向こう側から覗く元就の眼差しは本気だった。
 幸村と触れ合いながら、必死で忘れたくないと願いながら、元就は自分の中に確かな決意があることをもう自覚していた。
 待つだけでいるのはもう嫌だった。
 忘れたくないと募る想いを発露させた後でさえ、彼へと寄せる感情は冷めることなく元就の中で轟き続けていた。時間が無いと感じ、会えるわけがないと半ば諦めながら、それでも幸村がくれた約束に縋りたくなるほどに。
 けれどそんなものよりも幸村がたとえ戦いの渦の中に身を置き続けることとなろうとも、優しい炎が誰の手にも穢されずに生きていくのならば元就はそれで良かった。万が一にでもその隣にいられるのならば、微かな可能性のために足掻き続けることを止めないと決めたのだ。
 これが――元就の見つけ出した真実の先にある答え。

「ここで朽ちろ竹中!」

 抜刀した白刃が視界の端に見えたが、元就は躊躇もせずに半兵衛の懐へと飛び込んだ。
 再び血飛沫が朽ちた床へと舞い散っていった。



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(2009/05/19)



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