06 血染めに軋んだ音色
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幸村は秀吉からは多額の恩賞を貰い受けている。質素堅実であればそれなりに暮らしていける額だ。最初は断ったが向こうも面目がある。幸村としては元就と健やかに過ごしていければそれで良かったから、路銀として受け取った。
それを小さく切り崩しながら、彼は古寺のある山を目指してひたすら歩き続けている。
馬でも数日かかる行程をどれほど急いでも仕方ない。確実に前へ進めるよう、幸村は夜明けから歩き始めて日暮れには休むことを心掛けていた。
冬の空模様ではあるが、一人旅の幸村を心配して宿を借りた家の者から蓑や笠を貰い受けたためさほど寒くは無かった。
皆、若く礼儀の正しい幸村の人柄を快く思ってくれたらしく、出会う村人達は温かく向かい入れてくれる。戦を呼び込む武士は遠巻きにされるのが常だったが、以前よりも市井に穏やかな空気が満ちているのは戦乱もほどなく終結しようとしているからだろうか。
自分の成したことは決して大衆のためではないとは分かっていたが、豊臣の陣で戦った意味が独り善がりで終わらなかったのだと思うとほんの少しだけ喜ばしい。
誰よりも信玄の創る泰平を望んでいた、あの頃の自分の抱いていた希望が断片的にであれど叶ったのだと考えれば、疼く傷痕も僅かばかり慰められるだろう。
――だがそれも結局は自己満足だ。
幸村は己へと失笑を返し、突き刺すような風の中を淡々と歩き続けた。
季節柄、早足で落ちる夕暮れにやがて足を止めた幸村は、鮮やかな茜色が群青と交わり徐々に紫紺へと変化していく西の空を、大樹の下でぼんやりと眺めていた。
ここは旅人がよく通る道なのだろう。大樹の側には旅路の安全を祈願する小さな地蔵が佇んでいる。幸村は手を合わせてしばらくしゃがみ込んでいたが、小さな人の気配に気付いて顔を上げた。
近くの集落の子供だろう。少女が見知らぬ余所者である幸村の方を遠巻きにしている。その手には供え物らしい野原から摘んできた小さな花を握っていた。
じっとしているその子ににこりと笑いかけた幸村は、邪魔にならぬよう奥の大樹の根元へと腰を掛けて立膝を立てると、槍を抱いて目を閉じた。人攫いが横行する世である。素知らぬふりをしていた方が警戒心を与えなくて済むだろう。
彼女は幸村の配慮に気付いたのか、そちらをじっと見つめながらも手早く地蔵に手を合わせた。そして足早に去っていく。
小さな足音が遠のいたことを確認すると、再び彼は目を開ける。
西の空はもう随分と暗くなっていた。
別れの前日。元就が日没へと手を合わせた場面が不意に蘇り、幸村は湧き上がってくる奇妙な不安に身を震わせた。
幸村が気付いた限りでは、寺の中で元就が祈りを捧げている様子はなかった。
けれど何故あの日、急に元就は祈ったのだろう。
春を待ち遠しむ幸村を哀しげに見つめていた眼差しが忘れられなかったが、その夜の出来事によって掻き消されたまま怒涛のように荒れ狂う戦場へと放り込まれていたから、幸村はよくよく考えずここまで来た。
元就が言うのならば大丈夫だと信じている。
それでも彼が何も言わないまま自分の中に溜め込む類の人間だということは、彼に救われてきた幸村自身苦しいくらいによく知っていた。
――でも、もう離れることはないのだ。
彼の側でゆっくりと聞けば良い。話す時が来るまで待っていても、もう誰も阻むことはないから。何処か遠くで二人きりだなんて夢物語にしか過ぎないような願いだけれども、元就は笑ってくれた。幸村の我儘な真実を受け入れた上で、一緒にいようと頷いてくれた。
あの時、どれほど自分は嬉しかっただろう。
誰にも必要とされなくなってしまったただの幸村を。戦うことしかできないくせに死を恐れる自分を、何も聞かずに抱き締めてくれた腕の儚い温かさ。彼の体温が感じられる場所でならば一人でも寂しくない。元就がいれば、自分は世界の中で独りぼっちなんかじゃないのだから。
「……お侍さま、寝るところないの?」
「え?」
雪降る別れの朝をおぼろげに浮かべながらぼんやりしていた幸村を見かねたのか、心配そうな少女の声が近くで聞こえた。
気配に気付かなかった己に叱咤しながら、慌てて顔を向けてみると先程の少女が地蔵の傍に佇んでいる。その隣には彼女の父親なのだろうか、壮年の男が鍬を肩に乗せて連れ添っていた。
「随分若いお侍だ。お前さんも豊臣様に徴兵されていた口かい。戦も終わったみてぇだし、見たところ故郷に戻る途中ってところだな」
武将にしては少し質素な幸村の格好を上から下まで眺めた男は、警戒を解いて朗らかに笑う。
この辺りは既に半兵衛の領内だからか、豊臣と織田の戦の話で持ち切りだ。豊臣が勝ったとなればこの土地も潤うから、民草達の表情は明るい。男の村も例外ないようで、豊臣に従軍していたらしい幸村に――実際間違っているわけではないが――労いの言葉をかけてくれた。
微妙な気持ちになりながら聞いていた幸村は曖昧に笑うことしかできなかったのだが、少女の言葉を思い出して何故父親を連れてきたのか察した。
「いえ気遣い無用にござる。某は平気ですから、どうぞお帰り下され」
「半兵衛様の元で戦ってくれていた人を冬空の下に置いておいては目覚めが悪い。四の五の言わずにうちに泊まんなって」
「いえ、あの、ご迷惑では」
戸惑う幸村を引っ張り上げて、男はぐいぐいと幸村を連れて歩き出してしまう。少女がはしゃいだように歓声を上げて笑いかけられてしまえば、元来お人好しである幸村には断る術が残されていなかった。
そうして今日も屋根の下を借りることが叶い、一家団欒の中で温かい物を食べた幸村は遠い昔に失くしてしまった家族の姿を薄ぼんやりと思い浮かべながらも、あの人の不器用な料理が懐かしくて少しだけ涙を滲ませた。
――一人きりで、元就は何を思っているのだろう。
幸村は疲れ切った身体を十分休ませるため早くに床へとついたが、暗闇の天井を見上げながら心細さを覚えてしまいなかなか眠る事ができなかった。
斜陽の光に沈む赤の世界の中、誰かが微笑んでいた。紅に染まった一面の花畑の中でその人は白い頬を静かに濡らしているというのに、この世のものとは思えないとても綺麗な笑顔を浮かべている。
赤の中へ降り注ぐ白い影をぼんやりと眺めながらその人は、ゆき、と呟く。
つられる様に見上げてみると、当たりを包む色彩は陽光の朱一色に囚われているというのに、空からは深々と雪が降り注いでいた。
何ともいえない物悲しさが身体の底を通り過ぎて、衝動的に幸村はその人へと手を伸ばした。
どうしても届かない距離が二人を隔てていたが諦めきれず、肩が外れそうなくらいに必死で相手の手を掴もうともがく。でもその人は笑うばかりで、向こうから差し出されることはない。ゆきだ、ゆきだ、と嬉しそうに病んだ笑顔を見せるのみ。
やがて、白い影が幸村の視界を大きく遮り始めた。頬に触れる粉雪は冷たくなく、逆に落日に照らされて禍々しいまでの赤に色付いている。まるで火の粉のようだ。
――嗚呼、これは雪なんかじゃない。
緩やかな風の中に舞い落ちる欠片を振り払いながら幸村は叫んだ。声は出なかったが、喉が潰れそうなくらいにその人の名を呼んだ。
視界の向こうで燃え上がる炎を幸村は見た。
その人を覆い尽くそうとする業火にも似た深紅に幸村は戦慄して、泣きながら手を伸ばし続け、血反吐を吐きながら名を何度も何度も叫んだ。
どうか届け、届いてくれと願うものの、静かに笑うその人は哀しそうに目を伏せて笑ったまま崩れ落ちていった。
ゆき、と。
最後までその言葉は残酷なまでに力なく紡がれていた。
音もなく花畑に消えていった姿を呆然と見送っていた幸村は、あまりの虚脱感に膝を付いた。
慟哭する彼を嘲笑うように、炎は赤々と聳え立つ。
それは、大樹に咲く夕日に染め上げられた大量の花弁。葬送の手向けのように自分達を隔てる赤に染まった白い花。斜陽に染まる花畑と同じ、歪な花なのだ――。
目を開けると、黒かった天井が朝の光に照らされていた。
現状が把握できずに視線を動かす。どうやらこちらが現実だということに気付き、安堵から吐息が零れた。
荒い呼吸を整えながら幸村は強張る身体を起こしてみた。汗が止まらない。悲鳴を上げずにいられただろうかと辺りを視線だけで見渡すが、家の者の気配は感じられなかった。
この季節で日が随分上がっているところを見るに、それなりの時間なのだろう。夜明けと共に畑仕事へと出かけてしまう農民である家人がいないのは当然だ。
ともかく気持ちを切り替えようと、幸村は間借りした小屋から出て井戸の水を汲むことにした。
からからだった喉を潤して、簡単に身体を拭き終わった幸村が小屋に戻ると、朝飯を持ってきた少女に挨拶された。
昨日の優しい団欒を思い出した幸村は自然と微笑みながら彼女からその包みを貰い受け、適当に転がっている丸太の上に腰かけて遅い朝食を取らせてもらう。家の中から白湯を持ってきた少女はその隣に座り、平和な村の様子を眺めている幸村を不思議そうに見上げていた。
感慨深げに溜息を付いてしまったのは、自分が今までいた殺伐とした世界との差を考えしまったからだ。
幸村は己の、今は汚れてはいない手を見下ろす。
ほんの少し前までは敵の命を簡単に薙いでいた。師とまで敬っていた敬愛する主君ではなく、掛け替えのない肉親のためでもなく、憎しみ以上のものを抱いた仮面の参謀の指図によって。
――でもそれは、彼の人を守りたいという己の身勝手な我儘だから悔いはないはずだ。
何度も確認する自分は、どうしようもないほど滑稽な生き物だ。理由が無ければ生きられないのは昔から一向に変わってはいない。だから、それがなくなってしまう事を一度でも考えてしまうと簡単に闇へと囚われると自覚している。
久方ぶりに見た悪夢が呼び水となってか、弱気になっている自分に気付いて幸村は歪んだ笑みを力なく浮かべた。
あれは夢だ。
自分の中で常に蠢く不安が形となって現れただけの、ただの夢。
分かっているのに動悸が未だに止まらないのは、それがすぐさま現実に変わるかもしれない危うさが常に付き纏っているからだろう。
一人きりの帰路から心細さが助長されてしまったのだ。
ひらりと視界を掠める白い鉢巻を縋るように両手で握り締めて、幸村はここより微かに東へと目を向ける。あと山を二つほど越えた辺りだったはずだ。二、三日歩けばすぐに付くだろう。
約束を果たす日はもう近い。
だから大丈夫だ、と根拠の無い励ましを自身へ送る。
陣中にいた時から幸村の中に巣食っている孤独への寂しさは、当に限界を超えていた。必死に奮い立たせてみても、こうして元就からの贈り物に触れていなければあの優しい日々が幻だったのではと疑い出す愚かな自分が湧き上りそうで、表面上は装っていても怖くて堪らなかった。
もうすぐ、もうすぐ会えるというのに――。
戦慄いた唇を噛み締めて俯いた幸村だったが、突然聞こえてきた複数の蹄の音に驚いて慌てて顔を上げた。
昨夜幸村が立ち寄った地蔵が祀ってある道を、騎乗の一団が土煙を上げて通り過ぎていく。
遠くからではよく分からなかったが、鎧兜を纏っているように見えるから武士であるのだろう。相当急いでいるか、脇目も振らずに田舎道を横切っていく。
穏やかに思える領内だが、政宗の例もあり、いまだ豊臣の敵は少なくは無いから何か起こったのかと最初は思った。ここは半兵衛の領地だ。狙われる要因は幾らでも浮かんでくる。
しかしその先頭を走る男の姿を見とめた瞬間、幸村の顔色が変わった。
「どうしたのお侍さま!?」
少女が困惑した声を背後で上げたが、幸村はそれに構うこともできずに立てかけていた槍を掴んで畦道を一直線に走り出した。
そうしたって馬の足に追いつけるわけではないが、半ば反射的に飛び出してきた幸村には冷静な考えが及ばない。
徐々に遠のいていこうが構わず、我武者羅に騎馬の背中を追いかけた。
呼吸が激しく乱れようが、肢体が地へと張り付けられそうなくらい重くなろうとも、幸村はただひたすら足を動かした。
声にならない恐慌が背後から次々に襲い掛かってくる。恐怖に囃し立てられるがまま、彼は休むことなく前へ進み続けた。
夜が来て再び朝が来ても、困難な山道すら意識外に追いやって、幸村は駆り立てる途方も無い不安に急き立てられ続ける。
早く、早く、とただそれだけを考えていた。
――馬上で手綱を掴んでいた男は、紛れもなく竹中半兵衛であったのだから。
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(2009/05/12)
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