05 紅蓮の刃が求むるは


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 鬱蒼とした山道を、長い髪の男が一人歩いていた。
 少しくたびれた羽織の上に簡単な防寒具を身に付けているが、到底旅人には見えなかった。彼が、かつて中国を手中にした毛利の鷲だと誰も気付かないかもしれない。

 本格的な冬の訪れと共に、軟禁されているこの山には雪が降り続いている。そんな日は表へ出歩かないよう心掛けていたが、今日は珍しく晴れ間が見えたため天候が変わらぬうちにと元就は朝から古寺を留守にしていた。
 以前は逃亡を妨げるためなのか、三日から五日程度しか調達されなかった食料だったが、幸村が去ってからは一週間ないし二週間といった具合に増やされていた。
 冬場を迎えたからということもあるだろうが、一度目の冬の時は捕まったばかりだったため最長でも三日おきだった覚えがある。
 半兵衛は分かっているのだ。元就が絶対にここから動かないと。必ず帰ってくるだろう幸村が戻るまでは決して逃げ出さないと知っているから。
 ――そして。

「……ふん、忌々しい」

 随分と重く感じるようになってしまった己の身体に、苛立ちは募るばかりだった。そのことを薄々気付いている半兵衛の薄笑いが脳裏に過ぎり、更に気が悪くなる。
 視界の奥にぽつねんと佇む山小屋を見出し、自分の背中を追ってくるような男の嘲笑を振り切るように元就は歩みを速めた。
 無駄なことを考えている暇ではない。
 山小屋に運び込まれている荷物を、一人で寺へと運ばねばならないのだ。雪に足を取られぬように坂道を登るのは十分な重労働である。
 作業と割り切って黙々と手を動かすのだが、不意に虚しさを思い知ってふっと溜息が漏れてしまうのはこれで何度目だろうか。
 かつては考えなかった。苦悩はしたけれども人形のように生きていればそれで良かった。毛利を剥奪された自分には生への糧など存在しなかったのだから、己を呪いながら無味乾燥とした毎日を送ることができていた筈だった。
 あのままの状態であれば、自分は変わらずに死人の如く呼吸していただろうに。

 日頼殿、と呼び掛けながら子犬のように自分の側を付いて回った少年のささやかな笑顔が思い浮かぶ。
 地獄の淵を覗いてきたその双眸は暗く沈み、現実を直視することを拒否していたけれども、たどたどしい手付きで抱き締めてきた柔らかな体温に安堵を覚えた自分がいる。
 生きていることは悲しくて、どうしようもなく愛おしいことなのだと彼と触れ合って初めて実感した。
 本当の名で呼ばれるようになれば、きっとそれも離れていくと少しばかりの覚悟を抱いていたというのに、幸村はそれさえも飛び越えて自分の傍らを離れようとしなかった。
 そうして偽らぬ誓いを守り続けて、彼の真実はいつも自分が欲しかったものをくれたのだ。

「幸村……そなたは今、何処にいるだろうか」

 林の隙間から見上げた空は珍しく快晴である。乾燥して清められた天空には、掠れた青が塗りたくられていた。
 物理的には繋がっているはずの同じ空。だが己と幸村がいる世界はまるで違うのだ。一本の河川で隔たられた常世と現世のように、本来ならば交わらぬ二つの世界。
 向こう側へと行くことを選んだ幸村には、振り返らずにそのまま前へと進んでもらいたかった。自分のことなど忘れて、彼の奥底で燻ぶり続けている炎を掲げてほしかった。
 いまだ十代を脱していない少年だ。歪に繋ぎ合わせた感情のままに世捨て人となるには、若過ぎる。数え切れないほどの恨みの呪詛に汚れた己とは違って、彼はまだ光射す場所に十分立てるはずだ。
 そうやって、幾度も考えた。けれど最早それは詭弁なのだと元就は気付いている。

 寂しかった。
 彼がいない無音の世界がこんなにも虚しくて、無性に怖くて堪らない。

 朝起きた時、習慣で幸村の寝起きしていた部屋へ向かう自分に苦笑して、二人分の食事を作ってから彼の不在に落胆する。
 それが最初の一週間は毎日続いた。
 彼を思うたび感じる寂しさを紛らわすようにして、手首に巻きつけている六文銭を力任せに握ることも日常と化してしまっている。
 銭に移ったのは自分の体温だというのに、それに縋りついてしまいそうになるほど今の自分は滑稽だろうと元就は思う。
 しかし、忘れていたくないのだ。片時でも幸村への想いを掻き消してしまえば、今まで彼がもたらした全てが泡沫となる気がしてならない。
 人の意志など、所詮は儚いものなのだから。
 元就は這い上がってくる寒けから身を守るようにして、己を両の腕で抱き締めた。

 帰ってくると言い切った幸村。
 言葉にはできなかったが、その約束がどれ程嬉しかっただろうか。望んではいけないと理解しつつも、幸村の本音は隠し続けている心に優しい揺さぶりをかけてくる。
 絶対に欲しがってはいけないはずの、自分にたった一つ残った小さな太陽。離れてしまえばこんなにも凍えてしまうから。ずっと傍にいて欲しかった。繋いだこの手を、放したくなどなかった。
 叶ったのは僅かな日々だったけれど、宝物のように輝く幸村との時間は元就の中の永遠になる。
 名を何度も呼ぶ熱に擦れた低い声音を知るのは、自分だけだ。そんなちっぽけな優越感と執着を感じて、元就は口の端を皮肉気につり上げる。

「我も散々愚かしい男だ」

 吐き捨てるように呟き、元就は寺への階段をゆっくりと上がっていく。
 時折長い髪が頬を掠めてうざったくもあったが、まだ切る気は起こらない。幸村が去ってから伸ばしっ放しの後ろ髪を無造作に結い、そうして自分は願をかけているのかもしれない。
 女々しい考えだとは思いつつも、そうまでして彼を求めてしまう。
 本当に幸村が自分と再び逢い見えることができたのならば切ってしまおうと心に決めて、今日までを過ごしてきた。長くなればなるほどに、彼との再会は難しくなると突き付けられるのだが、幸村と同じ長さになる頃まで自分がこうしていたのならば微かな希望も湧くだろう。
 その可能性は万が一にも等しかったけれど、確証のない奇跡を信じたいほど元就は追い詰められていた。


 荷を運び終えた元就が息を整えていると、開きっ放しにしていた戸から馬の蹄の音を聞いたような気がした。顔を上げる勢いの余り、長い前髪が散らばる。
 単騎ではないが百にも満たないだろう。山間に響く反響音から耳を澄ませて予想した元就は、慎重に外へと出向いた。
 幸村かもしれないという考えはすぐさま消える。
 彼を返すだけならばこれほどの人数は必要ないはずだ。
 もしかしたら豊臣とは何ら関係のない軍が少数で動いているのかもしれないとも思ったが、この付近は半兵衛の勢力圏だ。隣り合っている領地は織田であるから、幸村の呼ばれた合戦が展開されている今にどちらかがこんな場所で動くはずがない。
 留守を狙った他家の行軍だろうかと、比較的に見晴らしの良い場所から目を凝らしてみる。
 徐々に近付きつつある音源に、嫌な汗が項を伝っていった。懐に忍ばせている幸村の守り刀を自覚のないまま握り締め、元就は一歩後ずさる。
 悪い予感を覚え、脳裏に警笛を鳴る。
 先程落ち着かせたばかりの気管支が緊張感から引き攣り、ぶり返すように咳がこみ上げた。息苦しさを耐えながら、元就は木々に遮られている山道をじっと睨み付ける。
 一瞬だけ見えた姿。――それだけで十分だった。
 元就は呼吸を荒げたまま足を引き摺るようにして寺へと足早に戻る。
 馬の足は早い。響いていたはずの蹄は緩やかに変わり、ようやく元就が本堂の前へと来た時には止まっていた。
 恐慌に震える身体を叱咤しながら、崩れ落ちそうになる身体を必死で動かす。疲労に加えて呼吸がまだ不足している。脆弱さが露呈されている状況に舌打ちをしながらも、元就は本堂の中へと這うようにして入っていった。

 その扉が閉まった直後、人影が寺の朽ちた門を潜った。
 仮面の底に濁った激情を忍ばせながら、彼は穏やかな目をして笑っていた。



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(2008/01/22)



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