05 紅蓮の刃が求むるは
- 4 -
戦いの中で賛嘆されながらも、後の歴史書には織田と豊臣の天下分け目以降、幸村の名は記されていない。
長篠から表舞台に立たなくなった彼だが、この戦いにて鮮烈な返り咲きを果たして勇猛果敢な戦ぶりを歴史に刻み付けている。だがこの合戦以降に幸村が戦場に現れたという記述は無く、彼が何処で何をしていたのかも決して書は語らない。
豊臣に天下を差し出した男とまで賞賛されているものもあれば、何故彼自身が武田信玄の後継者になろうとしなかったのかと疑問視されていて、姿を消したのはその力を恐れられ暗殺されたのではという説等も後世にて様々に浮かび上がるのだが、ともかくそうして幸村が戦国最大とも言われるこの戦に勝利をもたらす働きをしたという事実は――彼の本意ではなかったにしろ、変わらなかった。
誓ったとおりに信長の御首を秀吉に差し出すべく、幸村はその全身が返り血に塗れ自身も傷だらけであるというのに、悠然とした佇まいで本陣に現れた。
纏う死臭の濃さと幸村を取り巻く冷め遣らぬ戦の高揚に気圧されたからか、自然と彼が通る道を兵士達は避けてしまう。
こつこつと音を立て、馬がその開けた空間を緩やかな歩調で進んで行く。
幸村は手綱を持つことなくその馬上で揺られていた。こびり付いた血糊に汚れた首桶を片手に抱きながら、逆の手で同じように赤く染まっている槍を失くさぬようにという必死さで握り締めている。
戦が終結したため豊臣の本陣に参じていた政宗は、徐々に近付いてくる彼へと視線を投げ、思わず落胆で眉を顰めてしまう。
開戦してから今日まで、幸村を見かけるたびにかつての好手敵としての気配が濃厚に感じられ、思わず自らの立場も忘れて刃を交えたいと政宗は何度か思った。
再会した時が別人だったかのように、昔と同じような愚直な熱さで幸村は敵軍へと特攻を仕掛けていた。
この覇気こそが真田幸村だと、政宗は知らずのうちに笑んでいた自分に気付いている。
何故か幸村が距離を置いているらしい武田の残党達も、これには黙ってはいないだろう。或いは豊臣に無理やりに従わされている他家の大名が、主を失った幸村を召抱えようと躍起になるかもしれない。
そう、考えていたというのに。
(もっと誇った顔しろよ。それとも褒めてくれるお館様がいねぇんなら、魔王の首も意味はないっていうわけかい、Stray child?)
第六天魔王を自らの手で討つ事は叶わなかったが、この幸村にならば文句はない、と先程まで納得していた。
だが一人安土城の奥から帰ってきた幸村の目は、無邪気な闘争心に滾っていた半日前と同じではなかった。噴き出していた炎が急激に勢いを衰えさせ、静かな灯火に戻ったような変わりようだ。歓喜を隠せぬ童のように信玄の元へと駆けていた少年は、ただ無感動に本陣への道を進んでいる。
擦れ違い様に見やれば、彼の身を包んでいる装束の惨状は予想以上に凄まじい。白地さえも赤く染め抜かれて、時間が立ってきたために端々は黒ずみ始めていた。精悍な横顔にさえ血糊を付着させている。
苦虫を潰したかのような面持ちのまま見送っていた政宗だったが、違和感を覚えて幸村の背中へと隻眼を向けた。
ひらり、と幸村の後ろ髪が風に揺られる。
それを遮るように靡いたのは、赤黒い姿に不釣合いなほどの白い布。
かつては武田の赤を模していたはずの鉢巻は、政宗の見慣れぬ色をしている。思い起こせば再会時には既にその色であったように思えたが、覚えた腑に落ちない感覚はそんな些細な事ではないような気がする。
不自然な気味の悪さが一体何なのか。遠ざかる幸村の背中を凝視しながら、政宗は考えた。隻眼が探るように足先から頭の天辺までを眺め、その正体を解すると同時に見開かれた。
「あ……」
「政宗様?」
思わず声を漏らしてしまうと、隣で静かに成り行きを見守っていた小十郎が怪訝な顔をして政宗を見下ろしてくる。
血塗れの幸村は馬上から降りて、誰も眼中にないらしくさっさと陣幕の向こう側へと消えていった。
何でもない、と政宗は首を振り、再び幸村がこの陣から出てくるのをじっと待つことにする。気付いてしまった違和の正体に舌打ちをして、不穏な空気に満ち溢れる陣中を睨み付けた。
豊臣家の面子が揃う中、幸村は臆する様子もなく真っ直ぐと秀吉の元へと歩み寄っていった。それぞれが自らの手柄を談笑交じりで競い合っていたのだが、彼の登場により一気に静まり返る。半兵衛は大げさな身振りで肩を竦めて、秀吉に目配せをした。
「――第六天魔王の御首、此れに」
傅かぬまま幸村は、首桶を秀吉の足元にそっと置いてみせた。首実検にて本人であるかをきちんと調べなくては証明にならなかったが、この場にいる誰もが幸村の言葉に疑いを持つことはできなかった。
彼らは皆、幸村の戦いぶりを網膜に焼き付けられている。目を閉じて合戦の喧騒を思い出そうとすると、その中心で一人屍の山を築いていた紅蓮の炎が必ず浮かび上がる。急激に変わり行く世の中であるというのに、掻き消そうにも消えてくれない鮮烈たる武士の魂の輝きに、誰も彼も心を鷲掴まれていたのだ。
「よくやってくれた、真田幸村よ。これからもその力を我が元で揮わぬか?」
短い沈黙の後、秀吉は側仕え達に首桶を運ばせて幸村を労った。
奇妙な緊張感が少しだけ軽くなり、周りの人間達は呼吸を思い出したかのようにそれぞれが深い息を吐き出した。
だが半兵衛だけは、依然として笑みを形作りながらも鋭い眼差しで幸村の一挙一動を監視するように眺めている。
影から注がれる冷たい眼差しに気付きながらも、幸村はそちらを決して見ようとはしなかった。
「申し訳ござらぬが、某には行かねばならぬ場所が在る故」
「む……そうか。では武田の者達と出て行くか」
少しばかり残念そうな顔をした秀吉だったが天下は目前である。貴重な人材である幸村を手放すことを惜しがるものの、無理強いを迫ることはなかった。
最初から一時的なものだと半兵衛に聞かされていたのかもしれない。半分脅しのように言い募られるかと構えていた幸村は、その対応に拍子抜けしたのか微かに身体の強張りを解かせる。
覇王は力を求める事に貪欲であると聞き及んでいたが、織田を破ったことでその性急さも落ち着いてきたのだろう。秀吉の表情には切迫感がなく、開戦前の威圧感も今は感じられなかった。
幸村の尖った気配がそうして薄れ、遠巻きにしていた兵士達もようやく安堵の息を漏らしていた。
しかし秀吉の言葉には否としか答えることはできない。
自分には、武田の再興をする器がないのは分かりきっている。ましてや、一方的ながら気まずい空気を作り出してしまった己が今更彼らに持ち上げられるなど厚かましいことこの上ないだろう。
――何より、優先すべき人がいるから。
幸村は久方ぶりに口元を弛ませる。困ったような笑い方など見たことの無かった秀吉は、虚を付かれたように唖然としてしまった。
「彼らは彼らで道を決めるでござろう。“真田幸村”の役目はこれまで。某は己の道を行きます。此れにて御免仕る」
頭を垂れて礼を示した幸村は、すっと立ち上がり踵を返した。
その一瞬。
足を止めた幸村は突き刺すように半兵衛を睨み付け、その顔に貼り付いている微笑みに変化を見とめられなかったことを確認した。刹那的な無言の押収に気付く者はなく、再び幸村は陣幕の外へと何事も無かったように歩き出すのだった。
「お前、本気で何処にも仕官する気がねぇのか?」
報酬代わりにそのまま貰って来た具足を着付けたまま身を清めるべく川で血を落としていた幸村に、政宗は話しかけた。
共に戦ってくれた馬もしっかりと洗ってやりながら、相手はにこりと笑って振り返る。
「聞いておられましたか」
陣を出た幸村は、憑き物が落ちたかのように穏やかな顔をしていた。
半兵衛との契約から解放され、ようやく愛しい人の元へと帰れるのだと沈んでばかりいた心は浮付いていた。かつて主君に殴られながら学んでいた毎日に戻ったかのように、表沙汰にはしなかったがはしゃいでいたのだと幸村は思う。
纏う空気ががらりと変わり、気安い印象を持たれたのだろう。
幸村を怖がっていた者達も彼の戦いには魅了されていたらしく、信長の御首を持ち帰ったというその功績もあり、あっという間に囲まれて英雄扱いされてしまった。
豊臣に従っていた諸侯達も陣の外にいたものだから、幸村が豊臣に従事しないことが分かった途端、召抱えようと躍起になって我先にといった具合に誘いをかけている。
話し掛けようと待っていた政宗も思わず一歩退いてしまいそうになるほどの熱意で、幸村に破格の碌を与えようとしている者も何人かいたのだが、彼はそれらも全て断っていた。
幸村は繰り返す。まるで自身に実感させるように――帰る処があるから、と何度も何度も。
政宗の問いにもまた同じくして生真面目に答えた彼に、それは何処だなどと野暮な事は聞けなかった。
先程までの様子であれば、落胆から生まれた憤りのままに問い詰められただろう。
しかし、今の幸村はどうだ。追い詰められた野生の獣のような目は形を潜め、押し殺していた感情はかつてのようにくるくると表情を変えてみせる。けれど彼が浮かべる笑みは昔とは違って、老成した大人のそれだった。
そんな幸村の扱いに政宗は困惑するしかなく、この独眼竜が調子を狂わされてばかりだ、と頭を掻き毟りながら一人でそっと愚痴た。
「勿体無えな。お前とはもう一度戦ってみたかったのに」
「伊達殿にはなさることがござろう? 故に此の度の戦、豊臣を勝たせてみせた」
世間話のように特に意味無く発した本心だったが、幸村は口の端をつり上げて意味ありげに大きな眼を細めて言い返した。
己の思考を見透かした上で嘲笑われたような錯覚に陥り、政宗は顔を顰める。同じようなことを半兵衛に言われてきたばかりだ。
希代の策士と似たような笑い方をする幸村に、一層の疑念が湧き上がるが敢えて言葉にすることはない。戦いたいのは本当だが、敵対がしたいわけではないのだ。
「Okey, そこまで分かっているなら話は早い。政事に係わりたくなけりゃ、将ではなく一兵として扱ってやる。俺達と組まないかい」
そうやって差し出された手を、幸村はじっと見つめる。
まだ豊臣の陣近くである。暗に伏せる意図は幸村にもすぐ理解できた。
此処に来てから何となく気付いている。政宗の後ろで静かに蠢く者の正体が何なのか。半兵衛が自分を山奥から引っ張り出してまで戦わせたというのに、きっと自分以上に欲されるだろう戦力の姿は見当たらなかった。勝利すれば天下人だと謳われるだろう重要なこの戦いに、だ。
あまり頭の良くないと自覚しているとて、殊に戦に関連する事象であれば察せる。
――もうすぐ東が動く。その時がきっと本当の戦国の終わりなのだ。
視線を逸らして馬の毛並みを整えながら、幸村は俯く。武人としての自分は、最早必要ない。長篠で感じた時代の移り変わりをさらに深く感じ取り、秀吉に告げた通り“真田幸村”の居場所は何処にも残らぬのだと酷く感傷を覚えた。
けれど自分には死ぬことが許されない。
何もできない、何の取り柄も持たない身となろうとも、生きていくことが自分に課せられた罪であり罰であり――彼と共に生きていくことが一縷の希望なのだから。
「折角の申し出だが断ろう。……伊達殿の手は大きいでござるな」
拒否を示しながら、突然妙なことを言い出す幸村を政宗は怪訝な様子で見返した。顔を上げた幸村は、汚れを落とした指先で白い鉢巻に軽く触れながら笑っている。
「きっと沢山のものが零れずに残っておられる。大切にして下され」
鮮やかな微笑みは、諦めと喜びを織り交ぜた不思議な色を湛えている。
言葉に窮した政宗を尻目に、幸村は軽く手拭いで自身と馬の水気を拭い取り終えた。まだ本格的な大寒を迎えていないものの、そよぐ寒風は川に入った身体に酷であるはずだが、幸村は顔色一つ変えずに手綱を握った。
馬を返して、そのまま去るつもりなのだろう。
聞きたいことが山のように政宗にはあったが、彼の笑みにそれらを全て黙殺されてしまう。
「……お前の手には、何にも残っちゃいないのかよ」
掠れまじりでようやく出た一言に、幸村は無言で首を振って再び笑った。先ほどよりも、優しげに見えるのは気のせいだろうか。
答えを黙したまま幸村は馬首を自分の陣だった場所へ向け、立ち去ってしまった。遠のいていく彼の背中を見送りながら、政宗の胸に去来するのはあの違和感の正体。そしてそこに隠された幸村の真意。
「血一滴も染めずに大事にするなんざ、馬鹿正直なところだけは変っちゃいねぇな」
茶化したような言い回しだったが、政宗の表情は真剣だった。
全身が赤黒く染められていた。それだけ激しい戦いをしてきた男だったというのに。
誰かを思い出しているたびに触れるあの鉢巻だけは、何にも染まらずにあった。すぐ汚れるはずの白の布地である。同じくして纏う装束の白はあれほど血に濡れて、今では黒に近い臙脂色だというのに。
意図的でなければそんなことあり得るはずがない。
幸村は、それを庇いながら戦い抜いたのだ。不器用なはずの彼が誰にも汚されないようにとそれこそ必死になって守って。
六文銭を捨てた幸村が新たに抱いた志。それこそがきっと、彼の手に残るたった一つのものなのだろう。
自分の勝手な想像があながち間違っていなかったことを知ってしまい、政宗は何となく後ろめたい気分に陥った。
戦場を去る男の事をいつまでも考えているわけにもいかず、振り切るように政宗は自分の軍へと踵を返した。自分の本当の戦いはこれから始まる。
幸村は走った。
往路とは違って徒歩である。幾日も歩かねばならないとは分かってはいたが、戦の時とは確実に類が異なる熱と解放感に酔いしれたように足取りは軽やかに動く。
もう急ぐ必要はないのだが、一刻でも早く元就に会いたかった。
帰ったら彼を抱き締めて、大好きだと言ってくれた一番の笑顔でただいまを言おう。
血生臭いこの鎧を脱ぎ捨て、いつものくたびれた袈裟を着て、琵琶と槍を背負って――元就の手を引いて遠い何処かへと二人で旅立つのだ。
そこが果てない場所であろうとも、幸村には怖くない。
何も残っていないこの手に唯一繋がれている、たった一つの光。それさえあれば生きていける。分け合った灯火の熱で、喰らわれそうな闇の中を共に歩いていける。
さあ帰ろう。
大好きなあの人の隣へと――。
Next→
(2009/01/22)
←Back