05 紅蓮の刃が求むるは
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一つの部隊を預けられた幸村は、本隊の傍らにひっそりと随従しながら進軍していた。
そうして安土城へ攻めかかるために陣をひいたその夜、秀吉を介して目通りを求められた相手は驚愕と喜色を浮かべて幸村の前に平伏した。
「ゆ、幸村殿! 誠に真田幸村殿でございますか!?」
彼らは武田家譜代の将達だ。同じ戦場を幾度も駆けたこともあり、信玄の寵臣であった幸村を主君同様敬っていた。感極まった眼差しを幸村に向けるものの一同に憔悴した様子でいて、長篠の激戦では本陣に配置されていた彼らの苦労が目に見えるようだった。
思わず込み上げた懐古の念と、自分を知っている者がまだ生きていてくれたという事実に純粋な喜びが幸村の身体を駆け巡る。
だが同時に、半兵衛の策謀が順調に事を運んでいることへの苛立ちや、とうとう主家落日の証人と出会ってしまった後ろめたさが自然と浮かべたはずの笑みを固くさせていた。
「よくぞ生き延びてくれた。そなたらも魔王打倒に起ったのか?」
「お館様の怨敵を討たねば死した者達が浮かばれますまい」
即答された言葉に幸村は小さく頷くものの、自身が背負った罪の重さに暗い感情が過る。
今の自分は、信玄が託した虎の魂を本当に抱いているだろうか。あんなにも眩しくて熱かった猛火を燃やせるだろうか。
まだここは戦場ではない。己の本性が曝け出されるあの空気に浸からなくては、それが分からなかった。
彼等が自分に、武田の虎和子“真田幸村”に期待して馳せじたのだと感じるからこそ、余計に息苦しく思える。
望まれているのはかつての己だ。戦の申し子と呼ばれ、その背後に大きな影を縫い付けていることさえ忘れかけていた罪深い男。死に物狂いに守っているつもりで、その対象である人々から逃がされたという無力な子供だというのに。
「……お館様は、どうされた」
淀む思考を振り切るように、幸村は沈黙を破った。
今まで自分にもたらされた情報は噂の域を超えず、または半兵衛や政宗といった部外者から伝え聞いたものばかりだった。故に幸村は、その目で見てきた武田家の将に尋ねる事は義務であるような気がしていた。
――ただ踏ん切りが欲しいだけなのかもしれない。
薄情な思考が脳裏を過ぎ去り、幸村は恥じるように瞼を伏せる。その様子をどう思ったのか、座ったままの将達が哀願するかのように顔を歪めた。
長篠からじりじりと後退した武田本隊だったが、やはり織田軍の手酷い追撃に主だった者は信玄を守るべくして殿に立ったため殆どが討ち死にした。だが攻撃の手は緩まることなく、このまま居城たる躑躅ヶ埼館まで戻っても民達を戦に巻き込むだけと考えた信玄は、重体にも拘わらず撤退を取り止めて徹底抗戦に出た。
織田勢は背水の陣を布いた武田軍の反攻に辛酸を味わい、国境辺りでようやく引き返したらしい。
気が付けば敵の姿はなく味方も倒れ伏す者ばかりで、長篠の銃撃後のような状況だったと言う。
「我々は命辛々助かりましたが――お世継ぎの勝頼様もその時に亡くなられ、お館様も弁慶坊の如く佇んだまま果てておいででした。力のない我等は散り散りに落ち延びることしかできず、甲斐も信濃もいつの間にやら織田領に……」
当時を思い出して涙の滲ませた声を静かに聞きながら、幸村は瞼の裏で父の如く自分を育ててくれた師の姿を描いた。
そうすると、あの日失った人が連なって暗闇の中で浮かび上がる。
想定はしていたが、平伏した時の将等の第一声から考えればやはり幸村の予想通りなのだろう。
「兄は――真田一派は、如何様でござったか」
声音が震えぬように一旦唾を飲み込み、幸村は恐る恐る切り出した。
あえて信幸とも佐助とも言わず言い直して一括りにしたのは、はっきりとした答えを聞くのが怖い自分の弱さだった。
男泣きしかけていた将達は、肩を一瞬強張らせて互いの顔を見合わせる。
困惑したような彼らを、幸村はまるで遠くから見るように目を細めて眺めた。先程からずっと感じている刺すような感傷が、突然紛い物のように思えてしまったのは気のせいだろうか。
「幸村殿の方がご存じでは? 長篠で殿として居残られ、忍軍を率いて戦われたと聞きました。全滅の報に我々も消沈しておりましたが、それが影武者だったとは。いやはや、真田の知略は昌信様譲りでございますな」
冗談交じりでそう笑いかけられも、幸村は口の端を重々しくつり上げて仮初めの表情を形作ることしかできなかった。
己の中に巣食う闇が轟き、泣き叫びたい衝動が胸を焦がした。必死で自制心を掻き集め、震える唇を噛むことで耐える。
やはり、と嘆きにも似た落胆が波紋の如く広がった。
愚かな自分などを生かした兄は、身代わりとなり死んだのだ。騎馬の前に立ち塞がった彼の雄姿の方が、よほど真田幸村≠轤オくあっただろうに。
真田忍軍を、全て呼び寄せるほど切迫していたあの状況。長自らが幸村を逃すために駆けたのも、通常ならば玉砕覚悟などするはずもない忍達がそれでも前面から戦ったのも、全ては真田を守るため。繋げられた願いを託すため。
逝ってしまった人々に小さな黙祷を捧げながら、幸村は俯いたまま嘆息を吐くことしかできなかった。
もやもやとしたわだかまりばかりが全身を這いずり回っているというのに、一欠けらも言葉にはならない。望まれた意志を抱きながら、けれども彼らが予想すらしていなかっただろう道を歩もうとしている己にはその資格がない。
無言のまま目を閉じて静かに追悼する幸村を、武将達は神妙な面持ちのままじっと見ていた。
観察するような不躾な視線の意図など分かり過ぎるくらいに理解ができてしまい、嘲りたいのか泣きたいのか、良く分からない感情が迫り上がってくる。
幸村は奥歯をぐっと噛み締めるとぎこちない作り笑いで労い、本陣の方へと加わるよう命じて謁見を終わらせた。まだ何か言いたげな将達の目から逃げるように立ち上がると、今まで遠目に自分達を窺っていた兵士を睨むように一瞥して、幸村は素早く自身の陣中から去っていった。
「……見たか、幸村殿の顔。あのように起伏が平坦であると、まるで信幸殿のようだ」
風に乗って囁きが聞こえる。謁見を終えた武田の残党が、幸村が陣幕の向こう側へ消えたのをいい事に耳打ちを始めたのだろう。
だが幸村は昔から耳聡く、一度は盲目になったこともあり、さほど離れていないこの距離であれば難なく聞き取れることができた。命のやり取りの場では役に立つ鋭い聴覚だが、幸村はそれを塞ぎたくて堪らない。
幕一つ隔てただけの空間であるというのに、向こう側が別世界のように冷たく感じる。
言葉を忘れたままの喉元は奇妙に渇きを覚え、自分の陣地にいるというのに幸村は気配を押し殺した。
「真田衆の最期をお尋ねになられたからもしやと思っていたが、掏り替わられたのでは?」
「うむ。死地に残った真田の奮闘は凄まじく、阿修羅の如くであったと聞く。忍を従えていたのは弟の幸村殿であったし、まさかとは思うが……長篠で討ち死にされたのは本当に幸村殿だったのではないのか」
彼等は何を言っているのだろう。
何という愚かな思い違いをしているのだろう。
ありえない言葉の数々に瞳孔が開き、喉元がかたかたと小刻みに震える。血の気がさっと引いていく音がする。
「そういえば、お館様のご遺言を届けに行った信幸殿の話はあれから一切聞かぬな」
「幸村殿は兄君を大層大切になさっておった。自ら殿についたとしても不思議ではなかろう。……では、この戦あまり簡単にとはいかぬかもしれないなぁ」
足元から襲い来る震えを耐えながら、歩く速度を速める。
その先は言われなくても分かっている。彼等が今の自分を見て何を思ったのか、あの視線の意味が分からないほど鈍くはない。
だからこれ以上言葉にしないで欲しかった。これ以上、突き付けないで欲しかった。
「そうだな、きっとあそこにいるのは幸村様ではなく――」
自分を責める真っ黒い影が心臓を鷲掴んだ。
続きの言葉を聞きたくなくて、幸村は気配を押し殺したままその場を立ち去る。呼吸が苦しくなり、気付けば駆け足になっていった。具足の摩擦音が耳障りだ。背負う十文字槍の重ささえも煩わしく、幸村はさらに歩幅を大きくした。
「うわっ!」
正常な思考が働かないまま無我夢中で走り、幸村は宵闇の草原に転げ落ちた。騒がしい転倒を聞き咎める者はおらず、そのまま仰向けとなった幸村はぼんやりと満天の冬空を仰ぐ。
視界の端に陣営の明かりが小さく見え、気付かないうちに随分と駆けてきてしまったのだとうまく働いてくれない頭でも理解できた。
「……俺は、誰だ」
ぽつりと零してしまうと、今までどうにか蓋をしてきた感情が噴き上がってくる。
自分が、幸村なのか信幸なのかは最早どうでもよかった。
どちらが兄で弟なのかは問題ではない。自分達は同じ家に生まれたかけがえのない肉親であることは変わらないのだ。
けれどそれが欠けてしまった今、他人が望んでいるのはもうどちらでもないのだと悟ってしまった。
生かされて燻ぶる火の粉でしかない幸村も、幸村よりも強い心を持って戦場で戦った信幸も必要ないと言うのならば、その二人が互いの心を削ぎ落としながら作り上げた“真田幸村”とて存在できないというのに。
――源二郎、弁丸、お前は。
「っうるさいっ!!」
ぶり返す悪夢が罵りと嘲笑の指先を此方に向けたが、幸村は両手で耳を塞いでそれを振り払う。
しんと静まった夜空の下、まるで息をしているのは自分だけのようだ。
いつの間にか目元に涙が滲んでいて、一層惨めな気分になった。
寂しい。
大勢の人間が息衝く世界の中に戻ってきたというのに、幸村は自分が一人ぼっちなのだと実感した。役立たずだった自分の居場所は本当にもうないのだと知らしめられて、全てと死に別れたあの雨の日に味わったものよりも更に冷たい絶望が全身を震わせる。
こんな時に隣で無条件に肩を貸してくれた存在は、此処にはいない。
何も言わずにこの無力な両手を握ってくれた指先の感触ははっきりと覚えているというのに、白い肌から移った微弱な体温の切なさも鮮明に思い出せるというのに。
奇妙な虚脱感がじわじわと胸に迫り、幸村は耐えるように身を丸めた。
長い鉢巻が指先に絡まり、縋るようにそれを握り締める。深淵で差し伸べられた、頼りない光を必死で思い描いた。
「もとなりどの……」
寂しさを埋めるように愛しい名を呼んだ幸村は、零しそうになった涙を拳で拭った。
大丈夫。彼は――彼だけは受け入れてくれた。それだけで生きていけると、自分は知っている。今は一人でも、幸村と元就の間にはか細くとも確かに繋がるものが存在するのだ。
だからこそ、彼を守るためにもこれぐらいのことで泣いていられない。
もう決めたのだ、前に進もうと。真っ暗だった自分の世界に手を伸ばしてくれた彼と共に、生きる事を望んだのだから。
幸村は一本だけの槍を大事に背負い直して立ち上がった。藍色の空をじっと仰ぎ、生きる場所が違えども同じ空の下にいるだろう彼へと想いを馳せる。
白い鉢巻の端を握ることが癖になりつつある自分に、元就は何と言うだろうか。
自分の突飛な行動に訝しむ元就の視線を思い返し、幸村は喉の奥で込み上げる笑いを押し殺す。表情を見ずとも元就がどんな顔をしているのか、盲目だったおかげで予想ができるようになっていた。だからこうして遠くにいても、彼の反応がどんなものか克明に蘇らせられる。
そして元就との穏やかな時を自分がどんなに求めてやまないのか、その度に自覚してしまった。
「貴方は今、如何お過ごしでござろうか」
ふっと吐き出した吐息は白く染まり消えていく。
随分と寒くなってきた。山の方では雪化粧が進んでいることだろう。
微熱ばかり出していた自分とは違い、夏も秋も風邪一つひかなかったところから元就は比較的丈夫だとは分かっている。見た目は細い身体だが、山道の上り下りから炊事まで息を乱している様子は一切なかった。
幸村が来る前から古寺に閉じ込められていたのだから、きっと冬も越えたことがあるだろう。このように冷え込んできても難なく生活している様子が目に浮かび、幸村の口元が微かに緩んだ。
――けれど、それもすぐに形を潜めた。
元就の咳き込みを幸村は何度か耳にしていた。特に視力を失っていた時は聴覚がいつもよりも鋭くなっていたため、寝室から遠いはずの土間で彼の咳が聞こえてきたこともある。
普段は全くそんな素振りがないから、病気ではないはずだ。単に煙に噎せたとか、日常的なものなのかもしれない。
少し気掛かりではあったが、気のせいだろうと思っていた。それよりも気持ちを整理するのに互いが精一杯だったという情けない理由もあった。
しかし、初めて身体を繋げることとなったきっかけの口付けを施した元就の、意図の読めぬ行動がずっと幸村の中に引っ掛かっている。
求め合うことに必死で、別れを惜しみながら寄り添っていた。だから疑問を投げかける時間は無かった。尋ねてみても、もしかしたら元就は黙殺するばかりで教えてくれなかったかもしれないが。
厄介事ではなければ良い。ただでさえ元就には自分のせいで心労を与えていたから、せめて健やかでいて欲しかった。
故に、早く帰ろうと幸村は何度でも固く心に誓う。
熱を出していた自分の側で、いつもそっと触れてくれたあの人の掌に己はどんなに救われていただろう。
その半分でも元就の支えになりたかった。
「早くお会いしとうございます、元就殿……」
幸村は踵を返して、ゆっくりと陣中へと向かっていった。
ともすれば吹き消されそうになった灯火を再び燃え上がらせ、彼はもう一度だけ星空を見上げる。
参の星が、闇の帳の中で輝いていた。
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(2008/12/19)
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