断章 佐助の記憶
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* * *
疼いた鈍い痛みと共に俺はぼんやり瞼を開けた。
まだ暗い、夜明け前の時間帯だろう。
久しぶりに埋没していた記憶を思い返していたから、何だか夢を見ていた気分になる。
でも残念ながら、あれは現実だ。幼かった日の俺が無我夢中で過ごしていった、長くて短い晩秋の匂いがする思い出の一幕。美しく活気に満ちていた夏の激しさが一気に暮れていくような斜陽の季節。
二人から貰った綺麗な欠片の数々は今も光を失わずに俺の中で息衝いているけれど、それは同時に人間らしくあれた思春期の俺との決別を描いていた。
陰惨な事件を知る者は俺達三人の他にする者はおらず、そして俺は今でもどちらが被害者でどちらが加害者なのか分からないままだった。
知りたくなかったから逃げ出した。
信じていた綺麗な絵を穢されたみたいに衝撃を受けて、震えながら夜の森で蹲っていた記憶がある。
今思えば最低だ。俺はちっとも強くなんかなれていなかった。
あの夜の事はそれぞれの胸の内に秘めたまま訪れた朝、ついに上杉との大きな戦が勃発して真意を調べる時間もなかったから有耶無耶のまま時間は過ぎた。
そうしてその戦いの中、真田家は当主を喪ってしまった。お館様も弟君を失くされて真田も武田も騒然としていた。
一番大変な時期だったかもしれない。
俺は慌ただしく動く大人と一緒に働きながら、寄り添う二人の兄弟の姿を見ていた。どちらも首に包帯を巻いたまま、泣き出しそうな顔で家に帰ってきた父親の亡骸を見下ろしていたのは印象深く覚えている。
公式上では家督は信幸様に譲ることとなってはいたからそう混乱もなく、真田家は信幸様が当主となられた。弁丸様は元服をしてお館様から貰った真田幸村という名へ改めることとなる。
――これはお館様から聞いた話だけど、昌幸様は弁丸様に信繁と名付けるつもりだったらしい。
それは昌幸様と同じく川中島で亡くなったお館様の弟君の名をあやかったものだったのだろうけれど、出陣前にその話を武田信繁様とした際に却下するよう告げられたのだという。
お館様だって戦乱生まれならではの複雑な過去をお持ちだったから、忍の間では有名だ。
父親との確執、兄弟の間にあった溝――きっと信繁様は、自分達のような道を歩んで欲しくないと思って断ったのだろう。豪快なお館様とは違って温和で優しい御人だったから、余計に兄から伝え聞いていた真田の小さな兄弟に自分達を重ねて見てしまい心を痛めていたのかもしれない。
そんな中で信繁様はお館様を守るため討ち死にされた。立派な最期だったと聞いている。
武田の家中の騒ぎも収束しつつある中、弁丸様の元服についての手紙を託した俺を呼び止めたお館様は寂しげに笑って、懐かしむように教えてくれた。
弁丸様と源三郎様のどちらも弟の二の舞にしたくはないと。
旦那は幸村様となってから粉骨砕身の意気で働き出したのは、武田家の皆が知るところである。
当主を失い、家人も減った。自身の城も持たない中で禄を払うのも大変なことで、元々父親に付き従っていた家臣も随分といなくなってしまったから徐々に傾いていくのが見て取れた。
夫を失った母上殿は、信幸様の進言にされて仏門に降り実家へと戻っていった。空っぽになった北の方を旦那はしばらく物言いたげに眺めていたが、兄君がそうした理由が自分にもあるのを理解していたからか反論はなかったと思う。
家財を整理して最小限の物しか置かれなくなった真田家は、兄弟の心の内側を表しているように寂しくあった。
お館様に付き従うようになった真田の旦那は殆ど屋敷に帰らず、武田家で心身共に鍛え続けた。そうして今の地位まで上り詰めて賜った上田城をそっくり兄に任せると、自分は依然として真田と信幸様を守りながらお館様のためにと戦い続けていった。
俺はと言えばその頃にはもうこんな性質になっていたし、人の少なくなった真田を生かすべく真田忍隊を頭領から継いで忙しい日々を過ごしている。
――忙しいっていうのは多分口実だ。
俺は怖かったのだ。あの二人の関係に触れてしまえば、もっと悪くなるかもしれない。或いは今度こそ本当に、どちらかがどちらかを殺してしまうのではないかと想像してしまって罪悪感に浸っていた。
そうして今日までやって来てしまったのだ。
「……どうすれば一番良かったのかねぇ。元から俺様は口を出せる立場じゃないからな」
幾度目かの兄上様との対話の中、いつも苦しげにしていた真田の旦那を思い返して俺は湧き上がりそうになる慟哭を無理やり飲み下す。
罪科は誰にでもあった。
だからこそ他の誰かを責めることはできずに、焔の御旗の元で天下平定を目指しながら明日へと進む道の中でそれぞれが無様な程に自分自身の闇へと問い掛け続けている。
全てが片付いた後、もう誰かが誰かの代わりにならなくてもよい世界が来るとするのならば――その時になってようやく、あの日に砕け散った鏡の破片を拾い上げる勇気が芽生えるかもしれない。
薄らと白々し始めた山の向こう側に気付いて、俺は身を預けていた木々の上で立ち上がる。
武田軍の陣地からでは対する毛利の軍勢が全て見えるわけではないが、朝霧の中に蠢く旗を見逃す俺ではない。
このまま気付かれずに霧隠れの術を発動すれば、より一層辺りの視界は悪くなる。地の利は武田側に分があるし何より俺が霧を生み出すと知っているから、対策は万全のはずだ。敵対するは稀代の謀神と名高い毛利元就だが、こちらとて簡単に策を講じさせはしない。
何より、真田の旦那と兄上様が共に出陣するのだ。この俺が手を抜く筈もない。
心を守る事は叶わなかったけれど、その命と志だけは今度こそ必ず守り抜こうと決めた。生きていればきっと何かが変われるはずだと、冷たい世界で生きてきた俺に教えてくれたのは小さくとも真っ赤に燃えていた灯火の光だったのだから。
「日はまた昇る。信じているよ、旦那」
夜明けを見届けて、印を結ぶ。
これが開戦の合図。猛虎を進む道へと誘うべく、俺は意識を闇に集中させた。
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(2012/01/26)
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