追章 序幕の終演
なぁ佐助――と、主によく似た声音が穏やかに響いて呼び掛けてきた。
主君の兄君である真田信幸は、最前線で戦う弟とは少し違う装いを纏っていて佐助の目には新鮮にも映ってしまう。普段ならば同じ戦場にいる場合は幸村の装束とまるっきり同じに合わせるのだが、今回は隊を完全に分けてしまっていたし、何より総大将の信玄がそのようにしておけと出陣前に告げていたので信幸は素直に従っただけなのだろう。
見る者が見れば、お館様なりの心遣いだと気付ける処置だ。彼もまた信幸と幸村の兄弟の運命を歪ませていった原因であると心を痛ませていたから、同類である佐助には信玄の思いには深い愛情が見て取れて好ましい。
真田兄弟を受け入れてくれている武田家であっても、やはり二人に纏わりつく嫌な噂の影は消えたりなどしなかった。
若くして武功を上げ続けて、今では日ノ本一の武士などと言われている幸村。
その影と徹して日の目を見ないまま、ただ真田家のためと働き続ける信幸。
世間では風評が一人歩きを始めてしまい、今では信幸の存在に気を留める者は殆どいない。
信幸はそんなこと関係がないという態度を崩しはしなかったが、佐助は昔の記憶が衝撃過ぎて本当のところはどうなのかどうしても疑念を持ってして接してしまう。自分の主は幸村であるから正しい姿勢なのかもしれないが、信幸を疑い続けなければいけない自分自身に嫌気が差していた。
周りが信幸をいない者として扱おうとすればするほど、幸村の罪悪感と依存心は高まっていた。信玄に向けるものとは全く違う歪んだ感情を、けれど幸村は己の持ち得る最高の情であると信じて疑わずに兄へと捧げている。
長篠の地でついに目的の一つである織田軍と対峙することとなった武田軍は総力を持ってして挑みかかろうとしている。
双方無事には済まないだろう。
幸村と信玄の間を伝令として行き交う佐助は、そんな緊迫した状況で一人所在なさ気にしていた信幸がどうしても気になってしまい話し掛けた。信玄自らが率いているこちらの隊がすぐ襲われることはないだろうから、幸村が奮闘した分だけ信幸は守られる。
だが信幸は幸村の影武者でもある。本来ならば弟の戦場へ共に行きたいのだろう。
そんな気配も微塵に感じさせず、信幸は佐助に向かって小さく微笑む。
「お前は幸村の忍だ。真田忍隊は真田家に仕えていようとも、お前だけは幸村だけの忍。そうだろう?」
「質問の意味を計りかねますけど、まあ、そうでしょうね」
「ふふっ、小さい頃から少し羨ましかった。人質にばかり出向いていた私達には知友の一人もいなかったからな。お前が傍にいてくれて助かる」
弟をいつも助けてくれてありがとう、と彼は幸村と同じ顔で泣き出しそうに笑う。
幼い頃からずっとそうだ。そういう風にしか笑えなかった。
痛ましいものを見たような気がして佐助は気まずく視線を落とす。
幸村にも友人と呼べる者はいなかったが、佐助がいた。母親に無視されるのが何とも不憫だと思ったが、信幸だって父親に大事にされていたとは言い難い。せめて双方に等しく接しようと努力していた佐助もまた、あの頃は子供でしかなくて――同じように触れ合いながら、いつも弁丸の方へと帰って行ってしまう佐助を眺めていた源三郎はどんな風に感じていただろう。
中途半端に優しくしておいて、結局は独りぼっちを助長させるばかりだったろう己の行いが恥ずかしい。
「そんな顔をしないでくれ。責めているわけじゃない」
「信幸様……」
「お前を幸村の大事な相棒だって認めている。だからこそ、頼みたい」
温和な表情を引き締めた信幸は、そうして見ると本当に幸村と区別がつかなくなる。
態度を改めた彼に戸惑いながら佐助は顔を上げた。
「この戦いの相手は第六天魔王。お館様も口にはされないが、被害は今までよりも多大なものとなろう。それこそ雑兵のみならず将までをも簡単に失うやもしれぬ」
「待って待って。その先は言わないでくださいよ」
頭の回転が早いからこそ次に彼が紡ごうとしている台詞が分かってしまい、泣きたい気持ちにさせられた。
こんな風に面と向かって言わなくても分かっている。
佐助の主は幸村だ。だから全力で守りたいと思うし、実際ずっと支え続けてきた。
万が一があったとしたって、どんな手を使ってでも生かしたいと願っている。
――けれどそれは幸村だけに限った話ではない。
「俺様が旦那を優先させるのは当然ですけど――信幸様が傷付けられるのを平気で見ていられるほど薄情じゃないんですよ?」
「私をか?」
「当然ですよ……って言い切っちゃう俺様も何だか忍として失格な気もするけど、この気持ちはずっと変わっていませんから」
軽口ながらもきっぱりと告げてしまう。
きょとんと目を瞠った信幸は案外幼さの名残があって、兄といっても幸村と同年代であるのがよく分かる。何でも吐き出す幸村と違って内側に溜め込む信幸は随分前から大人びた顔をして耐えることに慣れ過ぎてしまっていたから誰も気に留めていなかったようだが、彼にだって感情はあるのだ。それを表に出したところで幸村と比べる材料にしかならないのを早くから知ってしまったのが不幸なのだろう。
しばらく不思議そうにしていた信幸だったが、熱心に言い聞かせる佐助に負けて曖昧ながらも頷いてくれた。
織田さえ打ち破れば、上方に残る勢力は豊臣くらいなもので武田の上洛はほど近い。最も偉大な目的が果たされるのならば、情勢は一気に変わるだろう。
そうすれば現状にもまた波紋が生まれるはずだ。
信玄ならば良い方向に動かしてくれるだろうと佐助は密かに期待している。
交わり続けたことで向かい合えないままとなってしまった二人が、新しい時代の流れの中で誰の代わりでもない真田幸村と真田信幸として生きていける時が来ることをらしくもなく祈りたかった。
「刻限だ。佐助、お前も決して死ぬな。きっとあの子は泣いてしまうだろうし、私も悲しいから……」
「同じ言葉を返すぜ、兄上様。どうか無茶だけはしないで下さいよ。そこまで面倒見るのは旦那だけで大変なんだから」
佐助を呼びに来た部下の気配に気付き、信幸は立ち上がった。
おどけたような佐助の言い分に苦笑を滲ませて目を細めた横顔は、いつも以上に憂いを帯びているように見えた。
「それじゃあお仕事に行ってきますね。どうかお館様を頼みますぜ」
「ああ、またな佐助」
部下と連れ立った佐助は織田勢を探るべく、敵陣へと向かって行った。
信幸と次に会うのは勝利した時だ。
そう信じて別れたのは幸村も同じはずだったのに、何かを察知しているような信幸との会話を反芻する佐助の胸には、得体のしれない一抹の不安が燻っていた。
瓜二つな兄弟は、どちらが兄で弟なのか分からない。もしかすると本当に双子なのかもしれなかったし、同胞ですらないのではとも言われている。
しかし幼い頃から意識を共有しているかのように、端々に覗く本能的な行動は似通っていた。当たり前だが別人格であり育った環境も違っているけれど、やはり何処かで繋がっているらしい。
騎馬隊を率いて先行していた幸村も、戦いに高揚しながらも何か引っ掛かりのようなものを感じていたように見えた。
――それが一つの時代の終焉を嗅ぎ取っていたことなど、誰一人知る由もない。
運命は偶然と必然を折り重ねた先にある出会いと別れを描く舞台。
空っぽになった掌を繋ぐために始まる斜陽の物語は、今からまさに幕を開けようとしていた。
- END -
(2012/03/04)
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