断章 佐助の記憶
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様々な仕事をこなして俺が再び真田家の屋敷に舞い戻ってきたその年、真田家は完全に武田家の傘下へ入った。
暗殺未遂事件のあった家でどうして急に弁丸様が帰ることとなったのか、頭領の下で働くなかで知らされていたから驚きもしない。昌幸様の武田への鞍替えが目に見えていたから、暗殺者を寄越されたり、夜中の内に脱出させたりと弁丸様は忙しかったわけだ。勿論幼い本人は知る術もなく、自分がただ源三郎様の身代わりにさせられてお役目を全うできなかったと認識しているのみだ。
一言でも慰められれば良かったと当時を振り返るけれども、命を消した罪悪感と主君を危機に追いやった自責の念から自分の事で精一杯で、逆に弁丸様に慰められる始末だった。今思い返してみても、何と非力で軟弱だったんだろうと自己嫌悪がもたげる。
報告のために真田邸の屋根を行き来していた時に、遠目から幾度か見かけていた子供の姿は正面から相対してみると想像よりずっと大きく成長していた。久方ぶりの再会に弁丸様は大層喜んで俺に抱き付いてきたけど、日々鍛錬を積んでいる腕は忍として細身を保たねばならない俺と大して変わらないぐらいに太くなっていた。
でも中身の方は相変わらず感情的で一本気。そのくせ気付かなくていい部分を本能的に察するような、やっぱり同年代の子供とは少し違う雰囲気を纏っていた。
「約束通りに帰ってきたな! どうだ、俺も大きくなったろう!」
「ふふっ頼もしくなったね弁丸様」
俺の口真似をしてか、弁丸様はご自分の事を弁丸とは呼ばなくなっていた。
普通なら成長している喜ばしさが先立つのだろうけれど――。
「そうだ佐助、明日は武田のお館様に初めてお会いするのだ。共に来てくれぬか?」
「俺? 昌幸様が良いって言えば構わないけど」
「兄上のご体調が優れぬ故、俺がご挨拶に伺うよう父上が仰られたから構わぬだろう。ええっと、兄上は元服なされたから――今度から信幸だ」
再会を喜ぶ何気ない会話の中に落とされた一言に、背筋がひやりとした。
思わず弁丸様を見返すけれど、少年の丸みを帯びた面差しの向こう側には特筆すべきものは何もなかった。なかったからこそ、空恐ろしさが足音を立てて上ってきた。
変わっているところも変わっていないものも、弁丸様の成長を純粋に謳ってくれているのに、何故俺が最も危ぶんでいた部分だけが悪化の一途を辿っているのだろうか。
かつては愛憎の孕んだ表情くらいは吐き出してくれていたのに、もうその面影さえ形を潜めてしまっている。深い闇が潜伏している自覚さえ失ってしまったのか、声を失った佐助をただ乾いた瞳で不思議そうに見つめているばかりだ。
弁丸様は痛みにも慣れてしまった。
少年期が終わろうという今になっても、あの呪縛は解けずに寧ろ強固となってしまったというのか。彼は自分自身の世界を諦めてしまったのだろうか。
歯痒さを抱えたまま俺はお館様と何年振りかのお目通りをすることとなった。
弁丸様は武田家に入るのは初めてで本当なら物珍しげに武田屋敷を見回したいだろうに、何度も人質に来ているはずの兄上様として振舞うために真っ直ぐと謁見の間へ向かっていった。
淀みなく進む足元は、忍の目から見れば微かに震えているのに俺には何もできない。
もしも弁丸様が源三郎様ではないことが先方に知られればどんな事が起こるのか、先の事件を謀将たる昌幸様が存じ無い筈がない。
俺は出ていた間だって、弁丸様はずっと源三郎様の影武者として生活を続けていたはずだ。頭領は何も教えてくれないが、数年間何もなかったと考える方が不自然だろう。
どれだけこの戦乱の世には謀略と薄汚い欲望が渦巻いているのか、実際に目にしてきたからこそどうも希望的になんかなれない。
可愛がってくれる父親の同じ口から、何度源三郎であることを強要されたのだろう。
まるで見えない者のように扱う母親に、弁丸であることを否定されただろう。
何も言ってはくれない兄をどれだけ憎んで、それでも弁丸として扱って共に過ごしてくれる源三郎を嫌いになれずに苦しんできたのだろうか。
「後ろに控えておるのは佐助か? おぬしも大きゅうなったな」
お館様の前で頭を垂れる弁丸様の背中を慮りながら、二人の会話から遠ざかるような位置で膝を付いていた俺は唐突に自分の名前を呼ばれて面食らった。
最強とまで呼ばれる騎馬を率いる甲斐の虎であらせられる武田信玄様は、どうやら俺の事を覚えていて下さったらしい。師匠が亡くなった知らせも届いているだろうから、もしかするとずっと気にしていてくれたのかもしれない。
「あやつの弟子がこうしてまた武田の敷居を跨ぐとは思わなんだ。巡り逢わせと不思議なものよな」
感慨深く納得しているお館様の眼差しは、父性みたいなものが滲み出ている。父も母も知らない俺だけれども一家の大黒柱というものはこの人のような男を言うのだろうと思えた。
そんな人でも、かつては父親に酷く憎まれていたと聞く。一度は出家したお館様が今の武田家にいるのは、自身を追い出した父親を殺して覇権を奪ったからに他ならない。善行を布いて次々と勢力を強めていく彼を民も臣も尊敬していたけれど、目の前に座る男は父親殺しの罪を被って生きているのだ。
戦国ではよくある話だったが、真田家の状況が状況であるから俺は内心複雑だった。
「……して、昌幸は何を考えておるのか聞かせてもらおうか。この者は真田信幸ではなかろう」
「!」
炎の揺らめきのように変わった鋭い虎の威圧に触れて、源三郎様のように落ち着いた表情を保っていたはずの弁丸様が顔色を変える。
息を呑んだ俺は慌てて立ち上がりかけたが、お館様に制されて身動きが取れなかった。
「我が武田に幾度も出入りしている子だ。この虎の目は誤魔化されぬぞ」
「おっ、お館様! 謀る算段が真田にないのはご承知のはずでしょう!?」
慌てて声を張った俺に対して、無論、と静かにお館様は頷いた。
真田を守るべく次々と鞍替えをする昌幸様を卑しいと罵る声があるのは知っている。でも武田家は先祖の代から誼のある家で、他家とは違って縁を切るようなことは一度もなく人質にだって定期的に出入りするくらいにはお互いの信用が固くはあるはずだ。
だからこそ弁丸様が源三郎様でないことをすぐさま見破ったわけだし、俺が言い募らなくとも分かっているだろう。
するとお館様は別に真田家に二心があると疑っているのではない。
身代わりとしてやって来た弁丸様を試しているのだ。
彼の真意に気付いてしまい、この場を切り抜けるにしてもどうすれば良いのか分からずに俺は困り果てて弁丸様へと視線を投げた。
本来ならば隠し通さなくてはいけないことなんだろうけど、弁丸様が弁丸様として扱われるなんて滅多にない。源三郎様と弁丸様の区別がはっきり付くお館様に、俺は一縷の希望を見出していた。
「……某は……」
「……真田の次男坊じゃな。以前、何処かに嫡子の身代わりに出されて一騒動あったと聞いたが、おぬしの事であろう」
虎の慧眼は何処まで見通しているのか。
きっと弁丸様の存在を前から知っていたのかもしれない。それでもお館様は彼の口から直接名前を問いたいのだろう。
名には言霊が宿るらし。自身の口で自分が何者であるのか認めれば、それは本当に己の名となる。
弁丸様はもう本当に諦めてしまったのだろうか。
こんな俺にさえ光を見せてくれた灯火自身が、永久の冬の中で咲かないまま沈黙してしまうなんて――俺は嫌だった。
「べんまる、です」
開きかけた唇が音を作り出す前に被さったのは、恐々と紡がれた一つの名前。
俺の主だけが持つ、たった一つの存在証明。
「弁丸と申します、お館様」
声音は小さく籠っていたが、覚悟を決めた瞳だけは真っ直ぐと上座へ向かっていた。怯えを振り払って消え入りそうな自己を晒す我儘を貫こうとする彼の眼差しは、元服を間もなく控えた若武者の力強さが備わっていた。
お館様は面白そうに口の端をつり上げると、突然立ち上がって大声を上げた。
「武田の家風は猛りの焔の如き勇ましさ! おぬしの心意気を儂に見せてみよ、弁丸!」
闊達に笑いながら謁見の間の障子を勢いよく開いたお館様は、その先にある修練場らしき建物を指示して共に来るよう命じた。
呆気にとられていた弁丸様も、元々は身体を動かす方が得意な御子だ。渡された赤い槍を大事そうに抱くと青褪めていた表情を火照らせてお館様の後を雛のように付いて行き始める。
冷や冷やしていた俺もまた溜息をそっと吐き出して、弁丸様の後ろに連れ立った。
修練場で何とお館様直々が相手となって稽古をつけてもらうこととなるのだけど、その時の弁丸様が失くしかけていた生気を漲らせて声を猛らせる姿を見て、勢いに呑まれていた俺はじわじわと浮かんでくる歓喜をどう表現して良いのか分からなくて大層微妙な顔をしていたらしい。お館様に指摘されて、稽古が終わってから気付いたことだけど。
弁丸様にとっての衝撃的な出会いは、彼の周囲を一気に明るく照らし出した。
源三郎様の体調が良くなった後もたびたび弁丸様はお館様に呼ばれるようになって、濃密な鍛練のおかげか弁丸様の槍はいつの間にか二つに増えていて、稽古用にと扱っていたお館様の木刀は真剣に変わっていた。
最初の内はおっかなびっくりだった俺も、雄叫びを上げながら虎の大きな体躯へ立ち向かっていく弁丸様を平常心で見られるようになった。
必要とされる喜びが如何程なのか俺にはよく分かるから、寧ろ微笑ましささえ浮かんだ。
そうして少しだけ変わった日常に慣れてしまうと、今度は気掛かりになるのが兄上様の方だった。
健康優良児な弁丸様と違って源三郎様は体調を崩すことが間々あった。母親が看病していると聞いていたから、あまり積極的に弁丸様が見舞いに行くことはなくて今回も俺はまだ源三郎様に会っていなかった。
向こうには俺が帰っている情報が伝わっているだろうけれど、元服してますます真田家の嫡子として学ぶべきものが多い彼が向こうから会いに来れるわけもない。
弁丸様とそっくりな寂しい背中をしているあの子はまだ、笑いながら泣いているのだろうか。
「兄上は既に執政に携わっているからな。俺もあまり会えぬのだ」
武田道場からの帰り道、上機嫌で歩く弁丸様にそれとなく尋ねてみたらあっさりとした返事が返された。
本格的に源三郎様へ家督を譲る方向なのだろう。武田は越後の上杉と睨み合っていて、小競り合いのような戦が最近増えてきている。そろそろ大きな戦が始まるだろうことは家中に知れ渡っていた。
元服を迎えたご兄弟もきっと戦場へ連れて行かれて初陣を果たすだろう。
そうなれば必然的に――弁丸様は本当に影武者として駆り出されて、兄の代わりに死ぬべき場面が訪れるだろう。
俺の考え得る中で最悪な結末だ。
弁丸様は己の存在価値に疑問を抱きながら死んでいき、源三郎様はその死の重みを嘆きながら生きなくてはいけない。誰の代わりなんて一人もいなくて、俺は俺で良いと許されたこの居場所の中であの兄弟が互いを恨みながら生死に隔てられるなど、悔しくて仕方がなかった。
けれど俺の不安を余所に、弁丸様は朗らかに笑った。
お館様に出会ってから憑き物が落ちたみたいに、兄の話題を出されても彼らしさを失わない明るさで喋る。それが逆に怖かった。
「でも今はそれで良いように思う。兄上は俺を見るたびに苦しそうだったし――。俺は兄上が守れるなら何だっていいから、戦に出る前にもっと強くなっておきたいな」
身代わりにされても我慢する強さなんて危うい物だけど、主君が道を定めたのならば忍の俺には何も言えない。
せめてお館様の存在が弁丸様、源三郎様の双方に良い影響を与えればいいと願うばかりだった。
――ところが思いも寄らない事態が訪れる。
弁丸様の元服がもう間もなくというある日、昌幸様は源三郎様と弁丸様を連れてお館様に挨拶しに来ていた。
兄弟が二人揃って屋敷の外へ出るのは本当に珍しくて(初めて出会った頃ぐらいしか俺の記憶にはない)俺はほんの少し嬉しかった。昔はよく三人で遊んだけれど、今は弁丸様に仕えるばかりでこんな機会は滅多にないからだ。
久方ぶりに会った源三郎様は変わらず穏やかな面差しを纏っていて、ああこの人も隠すのが上手になってしまったのか、と感傷的にはなったけれど、憧れのお館様の屋敷に大好きな兄と一緒に出掛けられるのが心底喜ばしいらしく、弁丸様はいつも以上に笑顔だったから慰められた。
その笑顔も、すぐに凍りつく事となる。
「良いか弁丸。武田にはお前を送ることとなった。戦は近い、勉学に鍛練とよく励め」
「は、はい父上!」
「信幸、お前は今まで通りだ。有事の際は真田と弁丸を優先させよ」
「……はい、父上」
父に認められて、弁丸としてお館様に仕えてよいと許された弁丸様ははしゃいだ声で元気よく返事をした。
だが次に告げられた言葉に、歓声は急速に萎まれていく。
弁丸様は父親を凝視している。信じられない、というよりも何を言っているのか理解できないという風だ。
前々から昌幸様は源三郎様として出かけているはずの弁丸様が、隠しているはずの名で呼ばれながらお館様に可愛がられていることをご承知だったらしい。彼には俺の第二の師とも呼べる忍軍の頭領が始終情報をもたらしているのだから、目の届かない場所であっても知らぬ事はない。
嫡男として人質に上がっていた源三郎様にはあれほどお館様が熱意を向けてくることはなかったから――当然だ。源三郎様は弁丸様と違って、炎というよりも陽だまりと呼べる性質を持っている――弟子という特別な括りを作り出した弁丸様へと、期待を寄せているのは明白だった。
だけど、まさか昌幸様がこんな事を言い出すなんて思っていなかった。
俺も弁丸様もずっと源三郎様には会っていなかった。会わずとも、現状には何の変化もないはずだと思い込んでいた。
「父上、正気でござるか!? 今更そんなっ……だって兄上は真田の嫡子でありましょう?」
必至な形相でしがみ付いた弁丸様を慌てて抑えながら、俺は恐る恐る昌幸様を仰ぎ見た。
逸らされない力強い視線は、真実を物語っていて竦みそうになる。
元から弁丸様贔屓の父親だったけれど私情は挟まず、真田家を存続させるためあらゆる方法を使ってきた御仁だ。この決定だって弁丸様可愛さ故ではなく、武田家により近い彼の方を優先させて主家との主従関係を強めようとしているのは分かる。散々に他家を渡り歩いてきている真田を、周りはあまり快く思っていないから余計にだ。
理屈上は理解できる。
でも心情的には納得がいかない。
今まで通りだなんて一体いつから決まっていたのだろう。たびたび身体を崩してあまり外へ出ない源三郎様の代わりに弁丸様が立ち回るようになって、もう一年近く経つというのに俺達は気付かなかった。
源三郎様を嫡子とし続けるのは、母君からの圧迫もあるのだろう。執政の才能というのならば源三郎様の方が優れているように見えるから、昌幸様自身まだ決めかねている節もある。
しかし何度も言うが、真田家は小さい。かつて武田家に仕えていた時のように武功を沢山打ち立てなければ、再び周囲の大名達に蹂躙される無力さに打ちひしがれるだろう。強敵と相対している武田家の中、当主の弟子という立場であるのならば出世は早いと昌幸様は正しく時勢を読んだのだ。それを非難する謂れは全くない。
でもこんな中途半端な立場逆転を今更告げられたって、ここまで歪んで成長してしまった二人の気持ちは戻しようもないのに。
「聞き分けよ弁丸。真田の未来がかかっておるのだ。故に此度は烏帽子親となっていただくべく、お館様へ目通りに来たのだからな」
俯きがちになった息子の頭を大きな手が撫でていって、弁丸様は反論を抑え込むしかできなかった。
俺は黙り込んでいる源三郎様が気になって、そろりと視線を向けてみた。
そこにいるのが誰か忘れてしまいそうになるくらい――弁丸様そっくりな顔立ちが、薄暗い双眸を細めてじっと父と弟を見つめているのだった。
真田邸に帰ってきた時には既に日暮れで、気付けばもう夜になっていた。
源三郎様と気まずいまま別れ、弁丸様もすぐに自室へと閉じ籠ってしまった。昌幸様は武田の方で用事があるからと滞在しているから、今夜はもう帰ってこない。
元からさほど家人の多い家ではないため、子供達が騒がなければ屋敷の中は案外ひっそりとしている。その静けさはいつもであれば心地良く感じるはずなのに、今日は不自然なまでに寒々しさを醸し出していた。
忍が夕餉の時刻に呼ばれるなんてないから俺はそのまま室内で突っ伏して、溜まった疲労感をどうにか晴らそうとじっとしていた。
やがて深夜が訪れ、満月は既に西へ傾き始める頃となる。
草木も眠る丑三つ時とも呼べるほどのまがまがしい夜気が辺りの静寂を一層冷え冷えとさせていた。
乾いた梁が気味の悪い家鳴りを幾度も響かせていて、寝られる時は浅くとも眠るはずの佐助の耳奥を今夜に限っては激しく揺さぶって、瞼を何度も閉じ直したというのに一向に意識が休まる気配がない。
ここのところ沢山の出来事が起こって、自分の見守っていた御子達を取り巻く環境はいっぺんにひっくり返った。けれども俺にとっては依然として己の立場に違いがあるわけもなく、変わらずあの兄弟の傍に寄り添ったまま忍として生きていけば構わないとお館様からお墨付きを貰ったので何の心配も感じない。
では何故、ある種の戸惑いと不安を覚えてしまったのか。
原因なのは自分ではなく、十中八九あの二人の方だ。
正しい意味で主君たる弁丸様が、兄の身代わりなどといった薄暗く自己否定の渦に呑まれないのは嬉しいと俺は内心で素直に喜んだ。でもそれは決して、真田兄弟が同時に存在してよいと許されたわけでもないのだとしばらく経って気付いてしまった。
認められたのは元々父親に溺愛されていた弟の方で、嫡子としての立場さえいつ危うなるか分からない兄の方はこれから一体どうなるのだろうかと、彼ら二人の悲しい関係を内側でも外側でもない場所から見守っていたからこそ気になってしまう。
現状が続けば、いずれ世界は源三郎様を忘れ去る。或いは、弁丸様の身代わりとして源三郎様を殺しにかかる。
それはかつて弁丸様が体験してきた過去そのものだ。俺が無力さを知ったあの日の再生。
あの時、弁丸様の代わりに源三郎様だったらよかったなんて一瞬でも考えてしまった罰が当たったのかもしれない。
もうずっと前から二人の痛みは共有されていて、片方の傷はもう片方を傷付ける。大切にしようとする程に哀しみは連鎖されていくばかりだ。
そっと息を吐き出した俺は布団から身を起こして、自分に与えられている身分不相応な部屋を見回した。
妙な胸騒ぎは止めどなくて、これでは一晩中起きていた方が余程ましだろう。
疲弊感は拭えていないが、特に忍務をこなしたわけでもない身体はまだまだ動き足りないと訴えているのかもしれない。真田家を出ていた時は毎日傷だらけになって泥のように眠る日々であったから、逆に今の方が始終周りに緊張している分だけ大きく動かなくてはいけない事件など起きないため、今度は鈍りそうだとさえ思っている節があった。
良い機会だ。
夜中に一緒に寝ろとせがむ子供が現れない今夜は、久しぶりに一人きりで夜の鍛錬にでも出かけられる。
出かける前に少し弁丸様の様子を見に行こうと決めて、戸を開ける。
いつかのようにご自分を責めていらっしゃるかもしれない。
音も立てずに廊下へと出た俺は、人気のない屋敷を静かに歩き出した。
「……あれ? 弁丸様……いや、源三郎様か?」
弁丸様の寝所へ繋がる回廊を、子供の影が通り過ぎていったのを俺は確かに目撃した。
暗くても今日は満月で、忍の目からすると明る過ぎるくらいだ。だから見間違えるはずがないのだが、後姿だけでは少々自信がなかった。
源三郎様のお部屋はもう一つ奥の廊下だ。このまま真っ直ぐ行っても自室には辿り着かない。それとも弁丸様が厠などから戻ってきただけなのだろうか。
不審に思って俺はその影の後を追った。
奇妙な警鐘が鳴り止まない。急がずともよいはずなのに、一歩一歩と踏み出した足は速くなる。
忍の勘ってやつは大概嫌な方向に当たるものだ。
だがだからといって、俺自身が起こりうる現実に納得できるかどうかはまた別問題。
真夜中、不自然なまでに半開きとなっている戸が見えた。
弁丸様と源三郎様の名を幾度も紡いで、俺は月明かりに陰った部屋へと飛び込んだ。
目の前の光景が信じられずに思考が真っ白に染まる。
涙なんて当の昔に忘れたはずだったのに、無性に泣き叫びたい程の悲哀が俺の胸の中に宿っていた希望を押し潰していってしまう儚さを、こんな風になって知るなんて悲し過ぎた。
もうすぐ大人の仲間入りをするだろう成長途中のすんなりとした掌が、白い肌に食い込んでいた。剥がすまいとする力強さは込められた呪いの重さを表しているようで、ぎりりと引き絞った呻き声が伸びた影の底から這い上がってくる。
互いが互いを食い殺し合う飢えた獣のような暗い視線が、緩慢に動いて同時に侵入者たる俺の姿を捉えた。
俺にはもうどちらがどちらであるのかもう分からなかった。
そこで相対しているのは、どんなに憎んでいてもそれ以上に大切にしたい唯一無二の存在ではないのか。あんなにぼろぼろになりながら、それでも掛け替えのない守りたい人ではなかったのか。
――なのにどうして。
――どうして弁丸様の手が、源三郎様の手が、その片割れの首を絞めているのですか。
絶望に擦り切れていく脳裏の奥底で、大切にしていた一対の鏡が割れる甲高い音色を俺は確かに聞いた。
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