断章 佐助の記憶

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 そんな穏やかな日々が続く中で、危惧していたような事は一度も起こらなかった。
 ほっと胸を撫で下ろす自分自身に違和感を覚えながら、いつものように真田兄弟の遊んでいる庭先へ向かおうとしている時のことであった。

「“源三郎”支度をせい」

 俺の事を待っていてくれた二人は小さい声で楽しそうに話していて、俺の姿を見つけると見る間に顔を綻ばせてくれたのに。
 廊下から直接庭へ降りようとしていた俺は、角から現れた人の気配と声の固さに目を見開いた。呼びかけられた子供もまた動揺を露わにして、隣の兄弟と俺とを何度か逡巡した様子できょどきょどと見比べた後で消え入りそうな声音で返事をする。
 俺の後ろに立っていたのは、勿論この屋敷の主である昌幸様で。
 一気に消沈して頭を垂れながら歩み寄ってきたのは――弁丸様だった。

「急で悪いな。先程文が届いた。お前を向こうにやる手筈が整った故、今日には発ってもらわなくてはならぬ」
「はい……わかりました」

 近付いてきた次男を見ても昌幸様は特に何も言わず、平然と会話を続ける。
 少し大人びた口調になってたどたどしく頷いた弁丸様は、静かな目で俺を促してきた。
 虚無を滲ませたその寂しい色は、幼子との温かな日々に安らいでいた俺を唐突に夢から覚ませるような衝撃を与えてくる。
 彼がこの家を離れるならば、俺もまたついて行かなくてはならない。護衛は任務である。仕事は仕事として俺は弁丸様のお傍にいなくてはならなかった。たとえ俺が彼を個人的に気に入っていて、我儘を聞いてやるのも半分は私情が入っていたとしてもそれに変わりはない。
 主君と忍であるのだから当たり前だ。
 命令されれば諾としか答えられないのだけれど、でもこの時の俺はやっぱり躊躇してしまった。
 これから人質先へと向かう弁丸様の心情は如何なるものか、推し量ることなど俺にはできないことで。彼が源三郎様の名で敢えて呼び出された場面をまざまざと見せつけられたのも初めての事だったから、気遣わしげな視線を弁丸様へと向かわせていただろう。
 弁丸様はしばらくじっと俺の挙動を見つめていたが、父親が踵を返したのでその後を追って廊下へ上がっていった。
 縁側へ膝付いていた俺は慌てて立ち上がって――躊躇した一番の原因へと振り向き掛ける。

 視界の端っこでぽつんと佇んだままの幼子が、黙って蹲ったままこちらを眺めていた。
 昌幸様も弁丸様もそちらを一度も見ずに去ろうとしている。
 彼らの胸中とて複雑さと淀みが絡んでいるだろうに苦痛を吐露する術も持たないため、そうして現実から目を逸らして己を保っているのかもしれない。
 それはあの子も同じだ。

「佐助、行くぞ」

 主の声に促されながら歩き出した俺は、後ろ髪を引かれるような思いで庭先を一瞥する。
 俺を呼んだ声の主とそっくりな少年が、先程まで兄弟で楽しそうに眺めていた土の上の落書きをぼんやりと見下ろしていた。曲がり角を過ぎて源三郎様の姿を見失っても、俺の脳裏にはその姿がいつまでも焼き付いて離れなかった。



 俺達が連れて行かれた新しい人質先では、前のところよりも一層あからさまな程に軟禁状態にされた。
 以前はそれなりの臣が弁丸様に付き添ったが、今度は世話人を含めて五人にも満たない。忍である俺は表向き近習として傍にいるため勿論数に入っている。
 しかも弁丸様は弁丸様としてこの家に囚われているわけではなかった。
 呪いのように昌幸様が命じて行かれたのは、「源三郎様として人質に入っているのだからそのように振舞え」という短い別れの一言。
 ああ、これが――などと俺は嘆息と共に虚しい感想を抱いた。
 弁丸様と呼べるのは彼が前と同じように、周りの目を盗んで稽古をする時くらいか。執拗なまでに名前を呼べと彼は繰り返し、そうして他人が近くにいると決して名を呼ぶなと憔悴した瞳で睨んできた。
 与えられた部屋も狭い物で、大人と子供で割り振るだけで精一杯だったから俺と弁丸様は夜も同じ空間で寝起きさせられていた。そもそも護衛で一緒にいるからほぼ敵陣であるといっても過言ではない屋敷の中で、願ってもない処置であった。
 けれど俺は魘される弁丸様を毎晩の如く知る事となって、彼の心に絡み付いている闇の深さを改めて突き付けられた。
 前の人質先では同室ではなかったから気付かなかっただけなのかもしれないと思うと、何故だか胸が掴まされる気分になる。
 何日目かの夜、弁丸様を寝かし付けながら思い浮かんだのは源三郎様の後姿だった。

(そういえば、本来ならここって源三郎様がいらっしゃったはずなんだよな……)

 酷い待遇を受けるのがあの穏やかな子供だったのならどうしていただろう。
 弁丸様は真田の御屋敷できっと、いつもみたいに陽だまりの中を笑って過ごせていたはずなのに――。

(っ! 何考えてんだよ俺!)

 不穏な想像に首を振る。
 どちらが良いとか悪いとか、今は関係ないのだ。
 こんな風に考えてしまうのは自分が主の弁丸様寄りであるからだと言い聞かせながらも、まるで真田家の闇に毒されてしまっている気がして無性に焦る。
 弁丸様が向こうにいたのなら、こちらには源三郎様がいるということになる。俺みたいな遊び相手もおらず、独りぼっちで命の危険に晒されながら毎日を過ごさなくてはならないのだ。それのどこが良いと言えるのか。
 冷静に思えば、弁丸様が代役を頼まれた時点で源三郎様の行き先も決まっていたはずだ。
 昌幸様が複数の大名達と繋がっているのは知っているが、それは小さな真田の国力を守るためだ。昔から懇意にしているのは勢力を順調に伸ばしている武田家で、多分遠くない未来に昔会ったことのあるあのお館様を紛れもない主君として頂く筈だろう。
 前に弁丸様が人質に出ていた時、源三郎様もまた外へ出されていた。
 彼を嫡子として扱っている昌幸様であるから預け先は勿論、一番繋がりを強くしたい武田家であろう。誰の口からも聞いてはいないけれど、真田の息子を何度か里帰りさせるような懐の大きな大名はお館様くらいしか俺には思いつけなかった。
 そして、今回の人質先は横暴にも長男を寄越すようにと昌幸様に命じたのだろう。
 時期的にもそろそろ源三郎様が武田家にまた戻る頃合いだったからこそ、昌幸様はそちらを優先させた。すぐに見限る相手にわざわざ嫡男を差し出すわけにもいかないから、至極当然だと言える。
 だから弁丸様を源三郎様に見立てて寄越した。表面上、彼らに違いは全くといって言いほどないのだからここの領主は騙されているのにも気付かずに、弁丸様を警戒している。
 ――影武者、か。
 心と己を殺して偽るのは忍ばかりだと思っていたその頃の俺には、酷く弁丸様が不憫に思えた。
 でも、それは弁丸様に限った話ではない。
 家を守るべく強要する父親も、不穏な噂を携えている子供を真っ直ぐに見られない母親も、何も言えなかった姉も。
 名前はあるのに存在を無視され続ける兄も。
 全てが不幸だと、静かな夜に促されたように感傷的な感情が溢れ出しそうだった。


 その日の未明。
 弁丸様が暗殺者に命を狙われて、俺は、初めて人間を殺した。



「ほら、佐助の好きな曲だ。うまくなっただろう?」

 大丈夫だと思っていたのに、昼には麻痺していた感覚が蘇ってきて俺は馬鹿みたいに鬱々とした気持ちを抱えて部屋の隅で膝を抱えていた。
 狙われた弁丸様は怪我などされてなくて元気だったけれど、何が起こったのか分からないほど無知ではない。新しい部屋に移された理由だって誰に告げられたわけでもないのに悟っている様子で、俺が何をしたのかも知っている上で何度も話し掛けてきた。
 慰められているのだろうな、と俺は口の端を力なくつり上げて笑って見せる。
 それだけだけど、弁丸様は少し安心したように顔を綻ばせて上達した琵琶の腕を見せてくれた。
 本人だって相当不安だろう。何せ殺されかけたというのをはっきりと認識している。
 未明の頃、深夜に弁丸様をあやしていた俺は不甲斐なくも少しだけ意識を眠らせてしまっていた。その隙を狙われたのだ。相手は大人の忍だったから間一髪だっただろう。
 敵の刃と防ぐために俺が放った手裏剣が火花を上げた瞬間、照らし出された薄闇の中で弁丸様は青褪めた相貌で間者の姿を呆然と見上げていた。
 今は幼い指先で弦を無邪気に弾いて見せる弁丸様だが、心中は俺とは違う方向へと薄暗く淀んで捻じれている。暗殺者は“源三郎”を殺しにきたのだから、一言でも話題に出してしまうと恨みがましい視線で強張った声音を吐き出すはずだ。

 せめて彼が気付かぬうちに始末をつければよかった。
 未熟な醜態を曝け出したのは、俺が不相応なまでに真田兄弟に情を寄せてしまったからか。ともかく、道具として生きるようにと繰り返し里で習った心得を一時でも忘れてしまって現を抜かすから、必要な時に無力になってしまう。
 守りたいものがあっても守れなくなってしまうのだから。

「……泣くな佐助。だいじょうぶ、弁丸はだいじょうぶ。いつも一緒にいてくれてありがとう」
「泣いてなんか……俺が泣けるはずないですよ」

 必死な形相になっていたのかもしれない。
 楽を途中で止めた弁丸様が、まだ小さい身体で俺の震えていた手をぎゅっと握り込んできた。思わぬ言葉に反論してみるものの、相手は困ったように笑って頭を振った。

「いつも兄上、泣いているのに笑うんだ。だいじょうぶって言って撫でてくれるけどどこか悲しい。佐助もそんな顔しているから」
「……源三郎様が?」

 弁丸様の方から口にしてくるとは思わず、正直面食らう。
 そして理解する。
 源三郎様も弁丸様も誰かを恨んでいるわけではないのだ。自分ではどうしようもない流れの中で苦しみ喘ぎ、時々その重みが発露されてしまうだけで、二人の間にあるものは確かな慈しみの心。
 だからこそ、一層辛いだろう。
 人に負の感情を叩き付けるのは安易で簡単な事だけど、抑え込んでしまうと鈍い痛みがずっと尾を引いて胸に居座り続ける。衝動のまま言い放ったとしてもその棘の鋭さは自分の何処かにも突き刺さっていて、結局は同じ色の苦痛を伴う。
 市井の子供ならばまだまだそこまで聡くなくとも許される歳であろうに、彼らの立場は決して寛容にはなってくれない。

「だいじょうぶ。佐助が一緒にいてくれて、弁丸はかほうものだぞ」

 貴方はお気付きだろうか。
 大丈夫と繰り返す微笑みが、兄に感じているもののように寂しい泣き笑いだということを。


 弁丸様が人質に入って一月ほど経って、急に親許へと帰る算段が付いた。
 人質先と真田家の間に何やらいざこざがあったらしいが、闇夜に紛れて迎えにやって来た昌幸様の雇った忍は何も教えてくれない。極秘で動いているのだから当たり前だろうけど、訳も分からず夜逃げ同然に外へ連れ出された弁丸様には状況が分からずに自分が何かしでかしてしまったのだろうかと不安そうに震えていた。
 俺はと言えば、襲撃に備えてずっと不寝番をしていたから(実際暗殺者はあの後も二、三回ほど弁丸様を狙ってきていた)気を張り詰めるのも限界だったらしく、弁丸様が真田の御屋敷の門を潜ったのを確認したところで意識を失ってしまったらしい。運ばれた自室で忍軍の頭領にしこたま怒られた。

 怒られついでに、俺はもっと強くなりたいと乞い、暫くの静養と銘打っての大人達と交じっての忍務へと出かけることとなる。
 師匠が死んで流されるように真田家へ仕える道を歩き出した俺だったけれど、今は自身の決意を持ってしてここを守りたいと思っていた。だから今よりももっと強く、どんなに穢れたって折れない心を持ってして焦がれた温かさの側で立っていたかったから。

 頭領から昌幸様への許可を貰ってもらうと、すぐに俺は弁丸様の元へ向かった。
 心配を余所に幼い主は元気な様子で、やはり同じ時期に帰ってきていたらしい源三郎様と一緒に俺の部屋へと訪れようとしているところだった。
 弁丸様の帰還は急だったからまさか兄君も屋敷内にいるとは思い当たらず妙な感覚が引っかかったのだが、相手がいない場所では複雑な面持ちを見せる兄弟が変わらずに仲の良い姿であるのが嬉しくて、俺は小さな背丈の子供らに視線を合わせて割と巧くなったはずの優しげな笑顔を浮かべてみた。
 源三郎様は相変わらず何処かぼんやりしていて表情が読めないけれど、少しだけ眉尻が下がって困った風な目をしている。
 隣の弁丸様は分かり易い。どうやら俺が暫く不在になるのを父親から聞いてきたらしく、不満さを隠さずにそれでもしおらしく口を閉ざしていた。

「ちょっと里帰りしてきますけど、お二人とも、俺がいないからっておやつ食べ過ぎたりしないでくださいね」

 前置きを省いて俺は告げる。
 色々あったけれど、やっぱり俺はこのご兄弟が心配で、そして愛しかった。
 弁丸様には俺の代わりに昌幸様の忍がつく手筈になっているけれども、子供の俺みたいに始終一緒に遊んだり目に見える場所にいるわけじゃない。というかそれが普通の忍であるのだから、今までが特別だったと弁丸様は知らないのだろう。
 だから弁丸様を弁丸様ときちんと呼ぶ人はご家族除いて俺以外にいないから、これからの季節をどう過ごされるのか俺の方が気になってしまう。
 一度芽吹きを知ってしまうと春はどうしても恋しくなるものなのだから。
 最初から一人でいるよりも、二人になってから取り残される方がずっと辛い。親代わりの師匠を失った時に俺は喪失の恐ろしさを理解しているから、余計に考えてしまうのだろう。

 何遍か言付けを重ねて、幾度も神妙な顔付きのまま頷いてくれる弁丸様を撫でながら、俺の意識は彼の隣へと自然に向いてしまう。
 ――独りぼっちは源三郎様も同じだから。

「弁丸様、源三郎様。きっと、今よりずっと強くなって戻って参ります」

 どうかお達者で、と。
 そう呟いて俺は短い腕をうんと伸ばして、そっくりな二人の兄弟を一緒くたに抱き締めた。

「ぜったい無事に帰ってこい。よいな佐助!」
「待っているから、あまり無茶するなよ佐助」

 明るい太陽みたいな笑顔と、穏やかな月明かりの微笑は、これから向かう血生臭い道程の中をきっと照らし出してくれるだろう。
 受け取った灯火を記憶に大切に刻み付けると、俺は再び真田邸の門を潜って外へ走り出した。
 後ろは決して振り返らなかったけれど、弁丸様と源三郎様は姉君を見送った時のようにしっかりと手を繋いでいたのを知っていたから、居座っていた妙な不安感はもうなくなっていた。



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