断章 佐助の記憶
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真田昌幸様の正妻が住まう北の所には、侍女達の楽しそうな笑い声がちらほらと聞こえてくる。
先程の一件を霞ませてくれるほどの明るい空気に俺はほっと安堵をつき、女達に可愛がられている様子の弁丸様を一歩後ろで見守る。きゃらきゃらと笑い声を上げる子供からは微塵の暗さも感じられなかった。
ではあれは一体何だったのだろうか。
まだ子供だが忍であるこの俺が、寒気を覚えるようなあの視線の意味は。
「あら、貴方が佐助さん?」
弁丸様の笑い声に誘われたのか、意志の強そうな眼差しを持つ少女が障子の向こうからそろそろと顔を出して声をかけてきた。
これまた既視感を感じる綺麗な亜麻色の髪をなびかせて朗らかに笑うものだから、すぐさま彼女が誰なのか理解する。
面と向かって顔を合わせたのは初めてだったので緊張と驚愕をそのままにして、姫様、と思わず呟いてしまうと少女は一層笑った。
「ふふ、同じ年頃の男の子に姫だなんて言われ慣れて無いから、何だか気恥ずかしいわね。あの子のお目付けなんて大変でしょう? 結構我侭だから」
「姉上、弁丸はわがままじゃありませぬ! ちゃんとよい子でおりましたから、こたびはお屋敷に帰れたのでございましょう?」
精一杯踏ん反り返る弁丸様がおかしいのか、姫様は鈴の音を鳴らすように笑ってみせた。
けれどその眼差しは酷く優しくて、彼女も弁丸様の吐いた台詞の重さを重々承知しているのだと分かる。
そういえばもうすぐ彼女は何処かへ嫁ぐのだと女中がぼやいていた。人質と同意義の輿入れに、何を思っているのだろう。
一介の忍である自分には所詮察すことも叶わない。
けれど彼女はそんな影を微塵も見せずに、可愛い盛りの弟を慈しむように撫でてやっていた。
「どなたかいらしたのかしら?」
奥の襖が擦れる音がして、妙齢の女性の人影が濡縁へと近付く。
上品な雰囲気を漂わせて女中達を控えさせているこの女性がどうやら昌幸様の北の方であらせられるのだろう。弁丸様の姉上様も軽く頭を下げて、一歩身を引いたからこの住まいの中で昌幸様の娘である彼女よりも位が高いといえばその母御しか思い当たらない。
探していた人物が見つかり、緊張していた俺は仄かに安堵して傍らの弁丸様を見た。
だが弁丸様はびくりと肩を跳ねさせて、何とも自信なさ気に俺の袖へと縋り付いた。その様子を怪訝に感じて俺は彼の姉君へと目配せをしてみたが、哀しそうに目を伏せるだけで何も言わない。
彼女は身を起こして奥からやって来た自身の母親に更に一礼をした。
まるで表情を隠すように、今度は深く頭を下ろして。
「あら、源三郎。まだ何か御用事があったの?」
――え……?
俺は呆然と主の母親を見上げた。
美しい面差しは心動かされるものがあったのだが、発せられた言葉の重さにただ彼女を見返すことしか出来ずにいた。
「……いえ、姉上にまだごあいさつしておりませんでしたので、引き返してまいりました。あの、あと、これ……お土産で、す。渡しそびれておりましたから……」
震える声音を何とか振り絞り、弁丸様は小さな手で握り締めていた巾着を母君の手に押し付けた。
人質から解放された帰郷の道中にあれこれと必死に考えて見繕った髪飾りを早く手放したいと言わんばかりに素っ気なく渡す姿は、彼が受けただろう衝撃を物語るには十分過ぎた。
不思議そうにしている彼女を見るのはこれ以上耐えられなかったのか、俯いた弁丸様は何度か俺の袖を引っ張った。退室しようという合図なのはすぐに分かったが、俺だってどうすれば良いのか分からずに困惑して助けを求めるように目の先にいる少女を見た。
けれどもゆるりと首を振るだけで、泣きそうな顔で帰りなさいとただ無言で訴える。
だから俺もこれ以上留まることは出来ないと察し、来た時と同じように弁丸様に引っ張られながらこの場を後にした。
「……っ弁丸様、弁丸様!」
母親の元から離れていくに連れて歩調を速めていく弁丸様に、俺は一体何をどう言えばいいのか分からずにただ必死に名を呼んだ。
家人がそれを不思議そうに見やっていたが、気にも留めることが出来ずにただ小さな自分の主君の後に追い縋る。それでも弁丸様はあれから一度として振り返りはしなかった。
無力な自分が悔しくて、佐助は唇を噛み締める。
おかしな家だとは前から何となく思っていた。
温かくて優しくて、少しばかり残酷な世界の波の中で生きている佐助の新しい家。居心地の良い陽だまりである今の自分の居場所。
けれど。けれどこれは、一体何なのだ――。
「――わらえばよい、佐助」
人気の無い回廊でぴたりと足を止めた弁丸は、不意に冷たい声を漏らした。
誰だろう、彼は。
冷たい目をして振り向いた子供と、明るい日差しの下で笑っていた子供がどうしても重ならず俺は知らずのうちに嫌な汗を掻いていた。
「弁丸が弁丸だといいはっても、みなは弁丸のことを源三郎とよぶのだ。父上は、弁丸を弁丸と呼びながら源三郎と名乗れと命ずるのだ」
こっけいだろう、と覚えたばかりだろう哀しい単語をたどたどしく口にしながら、弁丸様は無表情のまま俺を見上げる。
最初は意味の分からなかった彼の言葉は、時間が経つに連れて痛いほど浸透してきた。
最初に会った時に気付けばよかった。もしくは、源三郎と呼ばれる兄に出会った時の違和感に。決して遅くはなかったはずだったのではないか。
「兄上に会われたあとだったから、間違われないと思っていたなんて、弁丸はばかだ……もうずっと前から、母上は弁丸のこと兄上と間違えるというのに」
子供らしからぬ自嘲の貌を浮かべた弁丸様の目は、真っ黒だった。
滲んでいた涙が大きな目に溜まり、日の下で透ける焦げ茶色の虹彩がより深い色になっただけだというのに、それが俺にはまるで絶望を垣間見てきた亡者の瞳のように思えた。
俺は震える喉から掛ける言葉を失う。
何を言えば彼を慰められるのだろうか、想像も付かなくて。――そんな自分の考えなども弁丸様に見透かされているような気がして舌の根がただ乾いていくばかりだった。
「なあ、佐助。弁丸のこと、弁丸って呼ぶんだぞ? お前だけは、ずっと弁丸の名を忘れてはいけないんだからな?」
そうして言い募った時の弁丸の泣くことを必死で我慢する姿はどうしてか、寂しげな背中で去って行った源三郎と被った。
きっと主にそれを言えば、もう二度と自分に心を開いてはくれないのだろうからただじっと小さな肩を抱き締めることしか俺には出来なかった。
* * *
本気で調べようという気になればすぐに分かったことだった。
兄弟にまつわる様々な疑惑は突付けば埃のように現れる。最初からそうしておけば、あの時の自分はもしかすると弁丸様をもっと励ましてやれたのかもしれないという後悔が過ぎるものの、逆に知っていれば彼と子供らしく過ごしたあの日々は無かったのかもしれない。
複雑な思いを抱いたまま、俺は一人で宛がわれた部屋の隅に座り込みながら考え続けていた。
――源三郎様と弁丸様。
そっくりな二人の兄弟を、昌幸様は年子だと説明していた。
けれども余りにも似過ぎていて、家人の中には彼らは双生児ではという噂があった。俺だって最も古い記憶の中でそう信じ込んだ事例があったから、それを耳にしても別段驚きはしない。
仮にそれが真実だったとしても、双子は忌み子とされることも多い時代だからあえて年子としたのかもしれないと予測は付けられた。
またある者は、彼らは腹違いではと言う。弁丸様が生まれた月日をはっきりと覚えている者は皆無で、連続で妊娠した奥方様の体調は芳しくなかったため本当に生まれるはずだった子供は死産だった可能性も高く、同じ年に生まれた庶子を家へ連れてきたのではという何ともきな臭い風評も立っていた。
そして誰に彼に聞いても同じ回答だったことがある。
出生すら曖昧な二人に付き纏うのは、嫡子か庶子か、同い年なのか年子なのかと論議する前に更なる問題を抱えていたのだ。
曰く、便宜上は源三郎様が兄で、弁丸様が弟ということにはなっているが本当のところで彼らのどちらが年長――本来の長男であるのか分からないという。
昌幸が源三郎を跡取りとしているから、今のところ彼は“一応”兄である。
無駄な跡目争いが起こらぬように年長の庶子を嫡子の臣下にさせるのは珍しくなく、あり得るからこそそれがまた水面下で面倒な混乱を起こしている。
里にいた頃なら馬鹿馬鹿しいと一蹴できる噂を、俺は完全に跳ね除けることは出来なかった。
主君の父は年子だと言った。ただそれだけなのだ。
性格の違いから二人の判別は付くけれど、徹底的な違いはもしかすると両親さえも本当は分からないかもしれないのだという疑念がどうしても晴れない。
或いは真実を知る者は、真田家に仕えるよう遺言を残して逝った世捨て人の師匠だったのかもしれない。
名前を交換するだけで、彼らは今の自分という存在自体を失う。
だからあんなに必死になって弁丸様は、自分の名を呼ぶよう願ったのだろうか。
先日の母上様の様子を見るに、もしかすると噂の半分は当たっているのかと嫌な想像が過ぎってしまう。
彼女はもしかすると、源三郎様だけを自分の息子と認識しているのかもしれない。
――姫様がいればと考える時もある。
開きっ放しの戸から広がる空を眺め、結局二度しか会えなかった主の姉君を思い浮かべてみた。
辛そうな顔をしていた彼女は、もしかしたら真実に近い場所にいたのだろう。
疑惑の兄弟よりも少し早くに生まれてしまった故に、真田家に潜む闇に気付いてしまったあの少女はもうこの屋敷にはいない。数日前に輿入れし、他家へと去っていった。
どうかあの子達をよろしく、と儚い笑顔を浮かべて。
彼女は一度も源三郎の名も弁丸の名も口にはしなかった。寂しそうに見送る鏡合わせの少年達を優しく抱き締め、仲良くね、とただ祈るように囁いていただけだった。
どちらがどちらであろうとも、彼女にとっては大切な弟である現実は揺るがない。
弁丸様はわんわん泣いて姉に抱き付き、源三郎様は黙ったままだったがそんな弁丸様の手を握って放さなかった。
彼女からの別れの言葉に俺は日頃から兄弟を付かず離れずの場所から見守ることにしている。
無論、弁丸様が主であるから彼に呼ばれた場合は優先しなくてはならない。けれども人質に行った時とは違い、弁丸様は源三郎様と遊んでばかりいた。
こうして見ると、あの兄弟には確執など微塵もないように思える。
否、元々仲はとても良いのだ。しかし周りが少年達を知らずの内に雁字搦めにしているだけで。
観察するようになってから分かったことはいくつかあった。
特に顕著であったのは、兄弟に対する親の接し方の違いだろう。
昌幸様は弁丸様をあからさまな程に気に入っていた。武芸の面倒もよく見るし、幼子を抱え上げている姿も何度かお見かけしている。猫可愛がりしているといっても過言ではない。
そんな親子の光景をいつも源三郎様は黙って遠くで見ていた。自分の居場所はそこにはないと悟ってしまっていらっしゃるみたいに、弁丸様と同じ顔で熱心に書を読んでは時折ぼんやりと空虚を見つめるばかりだった。
彼に対する昌幸様の態度もまた一貫して変わらない。跡取りを厳しく指導する父親の面ばかりを見せて、稽古も付けてやってはいるものの弁丸様との接し方を見ていたせいで少しばかり冷たいようにも見えた。
逆に母親の方は源三郎様をよく褒める。二人が同時にいる時は流石に取り違えたりしないものの、彼女はあえて弁丸様の方を何故か見ようとしない。
そんな時は弁丸様が源三郎様を恨めしそうに眺めているのだ。
俺はというと、極力彼らと遊ぶ時には同時に相手をしてやった。
兄弟は互いの名前を呼びながら、子供らしい笑顔と声音を振り撒く。自分達に背負わされた暗いものを微塵も感じずにいられるこの時間を、きっと二人は一番好んでいたのだろうことはすぐに分かったからだ。
不器用ながら己の立ち振る舞いを決めた俺に対して昌幸様や真田家の人々は何も注意をしなかったから、多分この状態で構わないのだろうと勝手に解釈して、そんな風に短い季節を子供達だけで楽しんでいった。
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