断章 佐助の記憶

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 武田屋敷を師匠の赴くがままに連れ回されて、慣れない人気や緊張からかやや疲れ気味の幼い俺が最後に辿り着いたのは広々とした庭だった。
 師匠の隣には真田昌幸様という偉い方がいらっしゃって、俺は柄にもなく師匠の裾を握ったまま辺りをきょろきょろと見回していた。

 昌幸様が声を少しだけ張らせて呼び掛けると、庭先で戯れていた子供が手を止めて同時に振り返った。同じ顔立ちに同じ表情を浮かべて、同じ色をした瞳が不思議そうにこちらを見つめた。息子達を紹介するとか何とか喋っていたのが聞こえていたから、彼らがそうなのだろうというのはすぐに分かった。
 俺は双子というものを見たことがなかったため、生命の神秘とやらを少しだけこの時感じていた。
 振り返っても返事を返さない子供達は、どうやら側にいる新参者の俺達を警戒しているのだろう。大きな丸い目をきょとりと動かして、師匠と俺を交互に観察している。
 正直俺は反応に困ってしまい、助けを求めるように昌幸様を見上げた。
 するとこの御仁は苦笑を浮かべ、子供をとりあえず手招きする。
 仲良く手を繋いで、全く同じ歩調で歩み寄ってきた子供は父親の言葉を待つように黙りこくったままだった。
 もしかすると口を開けば同時に喋るんじゃないだろうかと、一瞬だけ嫌な予感が過ぎる。
 師匠の後ろに隠れるようにして双子を見ていると、向こうは俺を一瞥するだけで何を考えているんだか分からない呆けたような顔で父を仰ぎ見ていた。

「いずれお前の忍となる佐助だ。よしなにな」

 昌幸様は一体どちらの御子に話しかけているのだろう。
 聞いた話によると顔を見合わせている子供の片方が兄の源三郎、もう片方が弟の弁丸らしいのだが、初めて会った俺にはどうも区別が付かない。
 そもそも俺はどちらの子の忍になるのだろう。師匠と話をしていた時、息子の忍になって欲しいと乞われただけで昌幸様は主となる名を告げはしなかったからもしかして両方のお目付けなのかもしれない。
 けれども昌幸様はお前、と断定的に仰られたからどちらか片方のはずだ。

 顔には出さなかったものの、俺は一人でぐるぐると混乱していた。
 武田屋敷に来る前に師匠は何も言っていなかったけれど、この様子だと俺のお仕えする家への顔合わせのようなものなのだろう。昨日もお館様に挨拶をするようにと言われて出向いたから、将来俺はここで働く事になるのかなと漠然と考えていたのだけど、どうやら武田ではなくその家臣である真田家の方らしい。
 忍とはいえ当時の俺は全然餓鬼で勝手が分からず、誰かから何らかの指示を受けなければ動けなかった。
 困って師匠を仰ぎ見るものの、くそ爺は笑っているだけに留まって助けてくれる気配もない。
 仕方がなく辛抱強く子供が何かを言ってくれることを待つ。間が妙に長く感じた気がする。
 しばらく何かを考え込んでいる風な二人だったが、右側の子がようやく声を出した。

「よろしくな、さすけ」

 小さな片手を差し出した子供は、先程までの表情が一変して向日葵のような笑顔を向けてきた。
 その眩しいまでの光に、微かに帯びていた緊張感が解れていくような気がして、俺は珍しく自然と笑みを滲ませてしまう。
 主君となる子供と、俺みたいなのが触れていいものかと少しばかり躊躇したものの、昌幸様は優しい顔をしているだけで何も言わなかった。だから俺は恐る恐るその温かい手と、初めて握手を交わしたのだった。

「……よろしくな、さすけ」

 主とのなる相手と初めての交流に感動を覚えていると、隣から視線を感じた。左側の子供も俺に挨拶をしてきたが、会釈をするだけで彼は手を出さない。ちらりと父親の顔色を窺うように目線を上へと上げたような気がしたが、子供はもう片方とは違って一切笑わなかった。
 響いた声の抑揚は違っていたが、全く同じ台詞と声音に驚いていた俺はそれに気付いていなかった。
 師匠と昌幸様は交わされた挨拶に喜んだ様子で、子供達を残して屋敷へと再び戻っていってしまう。
 同じように残された俺は慌てたが、師匠から目配せをさせられて子守りを任せられたらしい事を察する。とはいえ具体的に命じられているわけではないから、きっとこの場に留まって真田家の息子達を見守っていればいいのだろう。
 大人達の背中が奥へと消え、その場には俺と双子だけが佇む。
 元々あまり家人の少ない真田家である。通り掛かる者もなく、静かな風だけが庭先を吹き抜けていった。

「ええっと……源三郎様、弁丸様、一緒に遊びましょうか?」

 長い沈黙に耐え切れず、少し身を屈めて窺ってみると子供達はまた顔を見合わせる。
 彼らの顔が歪んだのも一瞬のことで、俺が声をかけたことが契機になったのか、先程まで笑っていた右側の子は途端に表情を失くしてぼんやりとした面持ちになり、人見知りするようにおずおずと挨拶してきたはずの左側の子供が今度は逆に満面の笑みを浮かべた。
 立ち位置が変わってしまったかのように変化した表情に驚き、まじまじと小さな兄弟を見下ろす。見れば見るほどそっくりだったから、余計にどちらが最初に手を伸ばしてきた方なのか一瞬で区別が付かなくなってしまった。

「裏山に行こうとしていたところだ! さすけ、行こう行こう!」
「待ってよ、はやいよ。さすけ、ほら、行こう?」

 明るくはしゃいだ声を上げたのは、左側の子供。
 困った風な顔をして落ち着いた声で佐助を呼んだのは、右側の子供。
 幼いうちから性格の違いがはっきりとしているというのに俺は何だか腑に落ちない居心地にさせられながら、彼らと一緒に野山を走り回った。忍の訓練ばかりをしていた俺にとって純粋に遊ぶ事なんて実は初めてのことだったりしたから、その日の衝撃はすぐに忘れてしまい三人で遊ぶのに夢中になっていた。
 日がとっぷりと暮れ出した頃、慌てて元来た道を戻りながら俺はぼんやりと思い出す。
 そういえばどちらが源三郎で、弁丸なのか聞いていなかった。
 改めて訊ねようかと思った時にはすでに師匠や昌幸様が迎えに来ていて、半日中駆け回っていた双子は――帰り道に師匠が、彼らは双子じゃなくて兄弟なのだと言っていたけれど――あっという間に寝ぼけ眼だったので聞きそびれてしまった。

 戻った里の日常の中でも、あの思い出は忘れられずに俺の胸の中に潜んでいた。
 幼馴染の少女にそれをこっそり話してみたら、忍としてはちょっと優し過ぎる彼女は外の世界に憧れた様子で目を輝かせて羨ましいと零していたような気がする。




 やがて師の遺言に従って真田家へやって来た俺は、記憶の中よりも少し大きくなった子供と会わされた。出会ったのが物心つく前だったから子供は半日だけしか遊んだ事のない俺をどうやら覚えていないらしかったが、それはしょうがないと思って改めて自己紹介をする。
 すると差し出されてきたのは小さな紅葉の手。
 前にも思ったことだったが忍如きに握手を求めるなんて、戸惑いが先立ってしまう。
 幼子は突然現れた橙髪の忍を不思議そうに見上げるばかりだと思っていたのだが、どうやらこの主様は自分の立場を既に何となく理解しているように感じる。
 太陽のように笑っていた子供に、今まで出さないようにしていた感情がほんのり温まるような気がして、思わず俺も不器用な笑顔を精一杯返して求められた手を伸ばそうとした。
 似たような場面に、やっぱりあの時最初に挨拶してくれた方がこの子だったのだろうかという不思議な居心地であったが一応納得できた。
 今度は名前を初めから聞いているから間違えようもない。

「初めまして、弁丸様。これからよろしくお願いしますね」
「……べんまる、じゃ、ない」

 だが、そうしてきちんと認識しながら初めて名前を呼んでみれば、急に子供は手を引っ込めて俯いてしまった。
 彼の言い分に俺は首を傾げた。
 この頃の俺だってまだまだ子供だ。大人びて世間慣れしているとは言え、武家の子息の宥め方など分からない。肩を震わせて今にも泣きそうな幼児をどう扱えば良いのか、そもそも来て早々に泣かしてしまうなんて自分はどうなるのか、早急に不安が襲ってきて立ち竦むことしか出来なかった。
 それを見かねたのは、俺を屋敷に向かい入れてくれた真田家の御当主であった。

「佐助には弁丸で構わぬ。お前の忍なのだからな」
「ちちうえ、べんまるは、べんまるでよろしいのですか」

 優しく笑って子供の頭を撫でる姿には、噂で聞き及んでいる謀将の影は無くただの父親がいるだけだ。
 孤児の俺にとってはそれがほんの少しばかり羨ましくあったが、今日からは目の前の小さな御子が家族よりも大切な存在になるのだと知っていたから寂しくは思わない。
 念を押すように言い募る子供に、昌幸様は笑って大きく頷く。

「父は共に行けぬが、佐助がずっと側にいる。息災であれよ」

 すると涙で滲んでいた大きな眼はぱっと俺の方を再び見上げ、一層明るい笑顔を浮かべた。
 先程自ら引っ込めた手を勢いよく伸ばし、握るというよりも掴むように俺しの修行で肉刺だらけの掌を柔らかな指先で触れる。

「べんまるって、またよんでくれぬか?」
「はい、弁丸様。何度だって呼びますよ。今日から貴方は俺の主様ですからね」

 子供の軽やかな声で自身の名を呼ばれることに馴染めず、くすぐったくなったのを隠す様にはにかんで見せる。
 引き合わされる前から、この子がもうすぐ他の国へ人質に行くのだと聞かされていた。
 守役兼子供の遊び相手として年の比較的近い自分が選ばれたのは知っていたが、こうして目の前でその現実を見せられると何故だか歯痒くも思える。
 親元が恋しい時期であろう小さな御子が、精一杯に気丈な表情を浮かべて頷く様が哀しい。
 俺だって決してもはや市井の者となれぬ身である。しかし戦国の世に生まれてしまった武家の男児が背負う宿命は、忍の掟とはまた違う重みを持つ。
 明るく笑ったこの子の往く道の険しさを愁い、せめて自分だけは彼の味方でいられるようにならなくてはと俺はひっそりと決意したのだった。


 ――昌幸様と弁丸様が交わした不可解なやり取りの意味に、この時気付けるほど俺はまだ大人ではなかった。
 少し経ってからその会話を思い出した俺は、小さな自責に駆られる。忍として観察眼が足らなかったこと、真田家に潜む暗い影に気付けなかったこと――そして何より弁丸様が泣き出しそうにしていた理由に、自分ならば察せたはずだったから。


 弁丸様のお付きとなってあっという間に季節が過ぎた。
 人質先での弁丸様は作法や楽などを主として習っていたのだが、元来外で遊ぶことが好きな子であったためよく俺を共にしてこっそりと裏山を駆け回ったりしていた。
 武芸も既に御父上から教わり始めていたのだろう。真田家から一緒に来た侍女しか見ていない場所では、小さな身体に見合わぬ大きな獲物を豪快に振り回していた。
 陽だまりのような眩しい子供の側は、忍の里の中でも冷めた子供であっただろう俺を穏やかに温めてくれた。
 特に人質先と真田家には摩擦が起きなかったため、護衛が武器を抜くことも無く、俺は弁丸様と一緒に年相応の少年らしく健やかな日々を送っていったのだった。

 そして俺は弁丸様と共に、何事も無く真田家へと帰って来ることが出来た。
 待ち望んでいたかのように昌幸様は弁丸様を抱き上げ、一介の忍でしかない俺をもまるで家族のように屋敷の母屋へと引き連れられていった。
 亡き育ての親である師以外に感じたことのないむず痒い感覚に、照れ臭さを覚える。

「それで、これ、きれいだったから母上にお土産を持ってきたのです。ね、佐助!」
「はい、弁丸様は一生懸命選んでましたよね」
「そうかそうか。健気な子じゃな、弁丸」

 楽しげな親子の会話に加わりながら、触れる温かな気持ちに始終口元を緩めてしまう。
 そんな何処にでもありそうな光景に、物静かな子供の声が不意に割り込んだ。

「おかえり、弁丸」

 掛けられた声に親子はそれぞれ違う反応を見せた。
 父は少しだけ顔を引き締めて振り返り、息子はやや頬を強張らせて浮かべていた笑顔を消した。
 彼らの様子を訝しむよりも先に、その声の主の姿を見て俺は驚愕したのだ。
 向こうの濡縁から歩いてくる子供は――弁丸様そっくりだった。

「おう、母御に挨拶してきたのか源三郎」

 昌幸様に源三郎と呼ばれた子供は、弁丸様とは違いひっそりと穏やかに微笑む。
 弁丸様が小声で、あにうえ、と呟いたので彼が真田家の長男なのだと意識の隅で思うものの、あの出会いの日と同じ衝撃が忘れられずにただ呆然とそちらを眺めることしか出来なかった。
 ぽかんとしている俺に気付いた源三郎様は、軽く会釈をした。雰囲気は全然違うというのに、見間違えるほどよく似た兄弟だ。かつての俺はその事を知っていたというのに、今の今まで失念していた事実に愕然とする。
 今よりもっと幼い頃に俺は二人の見分けが付かずにいた。けれど再び出会った弁丸様を見て、もう間違える事はないだろうと思い込んでいた。すぐに人質先へ向かったから成長された源三郎様を見ないまま弁丸様と長くを過ごしていたから、互いの環境さえ違う兄弟がまさか今でも双子同然にそっくりのままでいるとは考えもしていなかったのである。
 だが実際に見るとどうだろう。
 そこに佇むのは微かな憂いを陰りを見せる、顔の造形から髪の長さまで写し取ったかのような少年だった。

「弁丸、佐助とは仲良くできた?」
「……うん。佐助がいっぱいあそんでくれたから、弁丸はさびしくなかったです!」

 一拍置いて何かを考えた弁丸様は、固かった表情をすぐさま消して嬉しそうに身振り手振りで作ってきた思い出を語り始めた。それを楽しそうに聞いている源三郎様の姿を見る限り、二人はとても仲が良いのだと感じる。
 けれども漠然とした不安が俺の中に沈殿していった。
 正体の掴めぬわだかまりに困惑し、隣にいた彼らの父親を思わず振り仰ぐ。
 俺の様子に気付いていたのか昌幸様もまた困ったような笑顔を浮かべ、橙色の頭を宥めるように撫でてきた。驚愕して戸惑っている俺が、昔源三郎様に会った事を忘れていると思ったのだろう。

「あれは真田の跡取りで源三郎という。弁丸の年子だが、ああも似ておるだろう? 佐助が戸惑うのも無理はない。ゆっくり慣れてゆけ」

 そう言い残して昌幸ははしゃぐ子供達を好きなようにさせたまま、仕事を再開するために奥へと消えて行った。
 弁丸様がこの場に残る以上は直属の護衛である俺も留まらねばならず、投げ掛けようとしていた疑問は喉元まで込み上げたまま霧散する。

 ――おかしくないだろうかと、問いたかった。

 嫡子である源三郎様の周りには誰かがついている様子がない。単にまだ未熟な俺が気配を読めなかっただけかもしれないが、弁丸様に遊び相手件護衛である子供が与えられているのだ。源三郎様とて同じような付き人が居ても不思議ではない。
 寧ろ兄である彼の方が先に、自分のような存在が付けられているものではないのかと思った。
 前に真田家にいた際には姿を見かけなかったことから、源三郎様もまた違う大名の所へと人質に行っているはずだ。
 けれども源三郎様はお一人だった。
 一人でやって来て、弁丸様と話し終わったのか一人で再び帰っていく。弁丸様と全く同じ後姿で去っていくのを見ると、何だか自分の主が一人ぼっちで何処かに行くように感じてしまい不思議な居心地にさせられる。

「佐助」

 彼の背中を見送っていた俺に、弁丸様は少しばかり尖った声を上げた。
 弁丸様らしからぬその刺々しさに驚き、慌てて顔を向ける。しかし子供もまた同じ方向をじっと見つめていた。

「弁丸は、弁丸だからな」
「え?」

 真っ直ぐな眼差しは変わらないというのに、横から覗いたその淵には何と言う暗闇がわだかまっているのだろう。普段の光を照り返さんばかりの無邪気な様子は形無く、見えない何かを憎むように睨んでいた。

 仲の良い兄弟だと思った。でも、弁丸様はもしかすると――。
 そんな疑問がふと湧き上がった。

「さあ、佐助もともに母上へごあいさつにまいろう!」

 一瞬だけ過ぎった不吉な予想を遮るように、弁丸様は俺の手を引いて兄君が来た方向へ歩き出した。
 後ろ髪を引かれる思いで重々しく足を動かした俺だったが、最後に一度だけ源三郎様の去っていった方を振り返る。
 誰もいない廊下の影があまりにも寒々しく、小さな子供の泣き声が聞こえてきそうだった。



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