断章 佐助の記憶

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 真田家に仕えるのが決まるよりもずっと前、一度だけ師の手に引かれて武田の屋敷に赴いたことがあったのを俺は漠然と覚えていた。
 身寄りの無かった俺を里で育ててくれた師匠は多分、武田家と何かしらの関係があったのかもしれないがそう考えられるようになった頃には既に故人だったため、真実はどうだったのか分からない。
 師匠の事はともかくとして、俺はその日初めて武家屋敷という場所に入ったものだから緊張していたに違いない。子供の頃は今みたいに言葉数が多かったわけではないけれど、叩き込まれていた忍としての生き方が目上の身分ともなる御仁達が生活している場などに同じように立っていてよいのだろうかと不安になっていたから余計に無口になる。
 お館様はそんな俺を、単に子供が緊張していただけだと当時を振り返って豪快に笑うのだが、生憎彼に会った記憶もなかったので言葉を濁すに留まった。
 毎日が新しい事を覚えなくちゃならない厳しい環境だったのだから、そうした人間的な触れ合いの思い出は心の片隅へとどんどんと追いやられてしまっているのかもしれない。

 けれど今でも鮮明に覚えていることだって沢山あった。
 大概が後に仕える主となった真田の旦那に関する事だと思い当たってしまって少々恥ずかしい。多分それくらいに、自分の目の前にもたらされた日常が衝撃的だったのかもしれない。

 彼と――いや、“彼ら”と初めて出会ったのは武田屋敷にやって来た次の日のことだったか。庭先の風景は忘れてしまったのに、抜けるような空の高さだけは焼き付いている。
 あの頃から二人の幼子の同化は既に始まっていたように思えるのは、その先にあった未来が現在に結果となってもたらされてしまっているからか。


「……毛利元就が出陣している?」

 俺は天幕の隅でいつものように命令を待っている。影の如く潜みながらも側を離れないのは変わらずだったが、真田の旦那――幸村様の天幕には珍しい姿があったため席を中途半端に外すことも憚られてじっと息を潜めているしか出来なかった。
 怪訝な様子で鸚鵡返しをした幸村様は、向かい合うそっくりな容貌をした青年に向かって首を傾げてみせた。
 武田の赤備えを纏う二人の違いといえば表情の造りくらいのものだ。額にある紅の鉢巻も、首に下げている六文銭も、敢えて見間違えを狙うように鏡写しだ。唯一違うのは扱っている武器だろうか。天幕に立てかけられている十文字槍は俺の主の物で、相対する青年の腰には刀が差してある。幸村様も刀をお使いになるが、より扱いの難しい槍の方を得意としているため戦場でもいつも二槍を操る。だからといってそれが刀を得意とする者との実力差を表すわけではないのだと、戦に従事している者なれば分かりきっているだろうに、彼らの周りはそう評価してはくれない。
 そこにいる青年が、幸村様の兄上である信幸様であるから尚の事だ。

 武田の一番槍、虎和子、いずれは日ノ本一の兵となる男――。
 幸村様を期待する声は敵味方問わず多々ある。特に武田軍内では年若い彼の活躍ぶりによって鼓舞される場面もあり、大将との暑苦しい師弟関係や俺達真田忍軍の主君であることも手伝ってそれなりに人気者だ。
 それを俺は本当に誇りに思っているし、お館様だってご承知されていることだ。
 でも時折、幸村様は賛美を貰う度にほんの少し苦しげな顔をする。
 新参者などは彼を真田家の当主だと思い込んでいる者もいて、うっかり本人の前で漏らそうものならば普段闊達なまでに朗らかな表情を一片させて今にも食って掛かりそうなくらいの怒気を撒き散らしたり、或いはあからさまに消沈した風に肩を落として哀しげな横顔を見せた。
 真っ正直で清廉な男はそれを隠そうともせずに浮かべるものだから、古参の将には有名な話だ。
 ――真田幸村は、兄であり真田家当主である真田信幸をそれは大切にしていると。
 そこまで分かっているというのに、人の口には戸を閉てられない。
 お館様からの信頼も、実力も、忍軍を使う手腕も、彼の方が上だというのにどうして真田を継いだのは兄の方だったのか。それは幸村を武田の後継者にするためだとか、兄を立てる幸村は素晴らしいだとか。
 憶測で物を言う輩の中には明らかに、お館様に優遇されている真田家を嫉む声もあったりして人間って浅ましい生き物だとつくづく思うわけなのだが、根も葉もない噂というわけではなかったから余計に幸村様は気にされていた様子だ。
 武芸では彼の方が上だというのは全くの事実である。けれどそれは決して信幸様が劣っているというわけではなくて、猪突猛進的な戦い方をする弟君とは違って兄君は冷静に場を判断出来る有能さがある。彼の機転が前線に出る俺達の部隊を救ってくれた場面なんて、思い出せば色々と出てくる。
 けれどどうしても武田の気風なのだろうか、先頭に立って敵を屠るため表立って褒められるのは幸村様ばかりであった。
 元々武田軍の中でも特に年少である真田のご兄弟はそれ故に比較対象の槍玉として挙げられる事が多くて、戦場での活躍に関してはそれはもう毎回のように比べられる。
 お館様は活躍があれば誰彼問わず褒めたし、恩賞にだって何かしらの違いがあることはなかった。
 だが二人の兄弟はそもそも役職が違っていて同じ場所で同じように働くことは出来ないから、どうしてもその差は埋められない。
 信幸様が執政を行っている間、幸村様がお館様に鍛練を見てもらっているのは日常茶飯事で、それを知った誰かがまたご兄弟を比べるのだ。これでは悪循環だろう。
 血の気の多い幸村様は大声で抗議をしたいと何遍も繰り返しているが、信幸様がそれを止めるために一度も叶った事がない。
 後ろ盾のない真田は、武田から万が一追い出されでもすれば行く先などないため穏便にしなければならないと幸村様も分かっているだろう。何より静かに受け入れる兄上様の姿を見ては、二の句が告げなくなる。

 彼らはもう随分とそんな風に過ごしていて、今更どうすればいいのか俺にだって分からない。
 ただこんな風に、せめて二人が互いを想い合う姿を見守る事しか出来なかった。

「そうだ。詭計智将が前に出てくるとなれば、十中八九、罠が張られているだろう。故に私も前線へと赴く方が効率が良いとお館様も仰られた」
「兄上と戦場を駆けるのは本望でござる。しかし、ならばこそ危険ではござらぬか。某は、兄上をっ!」
「――ここでの私は“お前”だよ、源二郎」

 ここ数日、牽制のためか戦を仕掛けてきた毛利と戦い続けていた俺達には、向こうが仕掛けてくる犠牲も厭わぬ策の数々を目の当たりにしてきたから余計に幸村様は心配だったのだろう。
 必死な様子で兄を留めようとする。絶対的な信頼を寄せている大将の命があったと聞いたのにも関わらずに、今までのように後方にいるようと願う。
 けれど言い募る声も、信幸様の一言で凍ってしまう。
 兄上様は穏やかに笑んでいる。何かを諦めてしまった深い色を湛えた瞳は幸村様とそっくりだ。お互いに罪悪感や劣等感を抱いてしまっている、闇の淵を覗いたことのある目。
 俺はじくりと胸が痛んだような気がして、思わず二人から視線を逸らし掛けてしまう。見守ると決めているのに、彼らの歪な関係を止められなかった責任の一旦が自身にも存在するのかもしれないと思うと、どうにも苦しかった。

「前線にいるのは“真田幸村”だけだ。大丈夫、佐助が霧隠れの術を行使すると聞いている。お前は隙をついて敵本陣へ奇襲を掛ければ良い」
「でも……だって兄上は」

 普段から誰にでも堅苦しい喋り方をする幸村様だが、兄上様の前ではほんの少し幼い頃の口調に戻る。家族同然に接してもらっている俺に対しても若干砕けた感じになるけれど、それよりもずっと顕著な変化だろう。
 そうすると幸村様が弟であるのが分かり易くなる。元から性格の違い上、信幸様の方が落ち着いていらっしゃるのだから当然と言えば当然か。
 だが無意識に甘えてくる弟君に対して、信幸様は眉尻をややつり上げてきつい眼差しを送る。

「守るべきはお前だ。お館様の命に従え」

 いつまでも割り切れない幸村様にぴしゃりと言い退けて、しばらく気まずい沈黙が続く。
 不意に信幸様がこちらを見て、困り顔で微笑みかけてきた。

「佐助、すまぬが後で頼む。私は源二郎ほど巧く槍を扱えないから、きっと足を引っ張ってしまうだろうからな」

 幸村様に似せた口調で自嘲を滲ませた言葉に喉が詰まるが、返事も待たずにそのまま彼は天幕を出て行かれた。
 残された俺達の間にも奇妙な静寂が降りてきていたが、兄上様が不在の方がいつものように話し掛けられると踏んでひっそりと幸村様を呼んでみる。
 何だ、と返された声音は平素よりもずっと抑揚がなくて、これはかなり沈んでいらっしゃると俺は冷や汗を掻いた。

「なぁ旦那。兄上様だって別にあんな事言いたくて言ったわけじゃないぜ?」

 精一杯に言い繕ってみると、幸村様――ああ、信幸様がいなくなったから、堅っ苦しいしもう旦那でいいか――の横顔が僅かばかりに動いた。それを見て、俺は言葉選びに失敗したと思ってばつが悪くなる。

「そうだな。俺が言わせてしまったのだ。……本当に、俺は兄上を苦しめてばかりだな」

 苦笑を浮かべた旦那は立てかけてあった十文字槍を手に取って、刃が曇っていないか眺め始める。
 それがまるで、これから始まる戦のために今浮かんでいる迷いを打ち消そうとするような行動に思えて遣る瀬無くなる。

 思い出に残る仲の良かった二つの幼子は、今もこうして近からず遠からず寄り添っていながらも生まれた瞬間から始まってしまった不幸な歪みはどんどんと湾曲してしまっている。
 旦那が信幸様を想うのは肉親へと抱く真摯な気持ちの他に、多大な罪悪と、それに相反するかのように存在する嘲りが少しでも己の中にないとは言えないと自らへの慄きがある。
 そしてそれを信幸様も敏感に感じ取っているからこそ、自分は大丈夫だと、平気だと繕うように笑って何でもないように振舞う。その本心の底にあるのはやはり弟君に対する優しい気持ちなのだが、深層心理さえ似通っているのか同じように劣等感や嫉みを抱いているのではと怯えている。
 下剋上が常の世、こうしてお互いを慈しみ合っている兄弟というのは理想的ではある。だけど俺は常々思ってしまっては打ち消す事があるのだ。
 せめてこの御二方が兄弟でなければ、と。
 そうであれば誰も傷付かずに済んだのではないかと考えても埒の明かないことを想像してしまう。現実主義のはずの俺が、だ。相当、真田家に入れ込んでしまっているらしい。
 多分、俺にもそうした罪の意識に近いものがあるのかもしれない。
 緩やかに壊れていった二人を止められなかった罪が。

「明朝、仕掛ける。毛利元就は油断ならぬ相手と聞いている。遅れをとるでないぞ佐助」
「承知しているぜ」

 旦那は俺に対してこういう場合、信幸様を守れとは言わない。
 何故なら信幸様が前線――すなわち旦那と同じ場所で戦う時、決まってそれは一つの意味を持っているからだ。
 影武者として“真田幸村”と名乗って戦うのだ。
 忍隊は術を用いて旦那に化ける事だってあるのだがそれは殆ど攪乱だけに留まる。大抵は敵の諜報員や忍の目は誤魔化せないので、それなりの者が見ればすぐに分かるのだ。
 信幸様は違う。自らを捨てる、本当の意味で影に徹する。
 そして旦那は、もしも兄君が自分自身として死んだとしても当たり前の如く受け入れなければならない。
 世知辛い世の中だ。
 忍として道具に徹しようとしていた俺に、一人の人間としての心を与えてくれたのは紛れもなくご兄弟の存在があったからこそなのに。当の二人は律儀な程に周りの大人達の言葉に従って、己を押し殺して――もしかすると気付いていないのかもしれない――不器用な形のままでいつまでも互いを傷付け合っている。

 彼らをそう運命付けたのは今からずっと昔の話。
 まだ旦那の御父上がご存命であった頃、俺が真田家を訪れる前から始まってしまっていた物語。
 俺は旦那の天幕を後にして次の戦場を考えながら、薄ぼんやりとした過去を振り返っていた。しょうもない感傷だと分かっていながらも思いを馳せずにはいられなかった。


 ――明朝、もう一つの運命的な物語の幕が上がる事を俺はまだ知らない。



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