手招く虚穴に緋の華一輪

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 真田幸村は鬼神の如き男である、と。何度目かの戦いの中で豊臣の軍勢はおろか彼が率いているはずの武田軍の残党までもが震えながら噂を囁いていた。
 彼の戦いぶりを以前から知っている者は幸村を炎だ虎だと元々評していたのだが、どこか甘さの残っていた青年は敵と見れば容赦なく切り伏せて自ら血に塗れて進む幸村の狂気的な戦い方に誉れより恐怖心を抱いている。
 かつての好敵手である伊達政宗などは恐れる兵士達を鼻で笑うだけであるが、かつての身内である武田軍からも避けられている――幸村の方から避けているといった方が実は正しくあるのだが――と聞いては少しだけ気にはしていた。
 戦に関しては意外と冷淡な一面を覗かせる幸村だったが、仲間を大切にする性分は伊達軍の筆頭として立っていた政宗よりも割り切れずにいた。それは武田信玄という大きな大黒柱があって、彼はお館様の支える家の中でその柱を仰ぎ見ながら戦っていたための甘えだったのかもしれない。
 しかし、幸村は全てを失った。
 自暴自棄となって戦場に立っているわけではないのは、猛威を振るいながらも指揮を怠らない姿から読める。事情を知らぬ者が見れば怖くもあるが、ああも強さを見せつける猛虎に羨望が浮かぶだろう。
 それすらも従わせる豊臣の力は何て偉大なのだろうかと、妄信さえも流布されているのかもしれない。

「馬鹿馬鹿しい」

 鉄砲隊の壁を切り崩し、また一つ命を奪って返り血を浴びた幸村は上がる息を吐き出しながら頬を拭う。
 誰に聞かれていようと涼しい顔で隠しもせず、今の自分の周りにいる形だけの味方らから送られる様々な感情を一蹴する。向けられるものが賛辞であろうとも幸村にとっては煩わしい。ましてや気を抜けば身の内から飛び出していきそうなほどの獰猛な感情を向けて敵視している、豊臣の軍師を肯定する言葉を聞くだけでも蔑む気持ちが大きくもたげそうになった。
 彼らの何が悪いというわけではないのは分かっている。
 けれど本当に、もうこの世界は幸村自身を求めてなどいないのだと感じてしまって、“真田幸村”を演じるたびに置いてきてしまったあの人に会いたいと一層泣きたくなった。
 首筋を撫でた布の感触にふと気付き、幸村は目を細める。
 刀を一振りし血と脂を払ってから鞘へ納めてから、用心深い手付きでそれに触れた。
 赤と黒に塗れた身体の中で、一際目立つ白い証。
 迎えに行くという夢みたいな約束事に頷いた元就の指先が、丁寧に結んでくれた鉢巻。
 愛しい人の体温がまだそこに残っている気がして、鬼神と称される幸村の冷たい横顔に解けた笑みがじわりと滲む。彼の手が生み出した屍の荒れ地の上、何者も目に入らない一途さで幾度も布地に唇を落とした。
 己の心を何が蝕もうとも、元就さえそこにいてくれるのならば構わない。掴んだ灯火をこれ以上穢さないために戦う事を誓ったのだから。

 これは歪な執着心が生んだ身勝手な自己満足。
 元就の側にいつまでもいられるのであれば、幸村は何だって出来た。二人で一緒に生きていけるのならば、鬼と呼ばれても一向に構わない。
 兄から託された言葉と願いを胸に刻んでいても、今の形が本来の虎の魂たるべきものであるのかはもう定かではない。
 けれど誰かのために生きる道ばかりを進んでいた己が、初めて自ら選んで掴んでこうして必死に居続けようとする想いは誰にも否定させる気はない。それがたとえ元就相手であったとしても、これは幸村が見つけ出した揺るぎない真実。
 だからこそ奪われてなるものかと、悲痛なまでに頑なな決意が幸村の意志を燃やし続けていた。
 故に手段を選べるほどの余裕などない。
 半兵衛の手の内で踊るのは滑稽であるが、彼の思惑通りに“真田幸村”は英雄になってやろう。第六天魔王への恨みは武田と真田を失った事で自己嫌悪と自責へと移行して、武士の歴史を終焉に葬ったと非難の感情はあれども個人的な怨嗟はいつの間にか昇華できている。
 今の己を突き動かす衝動は、渇望にも近いほどの寂しさなのだろう。
 だからこそ元就を求めて、生の胎動を絶やさずに彼の元へと今にも駆け出したいと疼くのだ。

 何もかもを信じようとせずに排斥し続けていた元就が、それでもくれたたった一つの約束を叶えるため。
 希望の灯火を消さないようにと、幸村は血に塗れる己の身体を省みずいつか見た真っ白な風景を守るようにして額の証を庇い続けた。



 やがて幸村は、魔王の居城に一人辿り着く。
 連れていた仮初の部隊を階下に置いて、この戦で最も恩賞の大きい信長の御首をこの手でもぎ取るべくして周りの喧騒に目もくれずひた走った。
 城内は意外な程に静まり返っている。
 通り過ぎていく道程で死体や血飛沫の痕跡が多数散らばっていたのだが、一つの目的に向かって前ばかりを向いている幸村にはそんな些細な違和感など無意味だった。自分の邪魔さえされなければ、異様な空気の蔓延る回廊など気に留める余裕はない。
 もうすぐ、もうすぐ、と焦燥の滲む荒い呼吸を繰り返しながら、彼は何度目かの階段を上って行った。

「これは……」

 飛び出す様に天守へと登りきった幸村は、一層深い澱みの世界を目にして思わず言葉を漏らした。
 待ち構えているだろうと思っていた姿は地に伏して動かなくなっている。血溜まりがじわじわと広がっていて、闇の屍が出来上がったのはつい先程の事だと分かる。
 既に階下から上がっていた炎が柱を伝ってこの近くまで迸り始めている。
 その黒煙が混ざり込んだ風の中、美しい黒髪が倒れた男の側で無造作に流されていた。

「――あなた、市の邪魔をしにきたの?」

 気配に気付いたのか黒髪の人影は蹲っていた顔を酷く緩慢な動作で上げた。影を背負った美貌が覗いて、普通の男ならば憂いを帯びたその妖しい容貌にいとも簡単に陥落していただろう。
 しかし幸村が捉えたのは、本能的な恐れだ。
 彼女の黒々とした双眸はまるで深淵。底の見えないそれを覗き込んでしまえば、そこに自分の中の闇が湧き上がりそうになるのを瞬時に感じ取った。
 自分と同じ顔をした少年が、嘲笑いながら指差して追及するのだ。
 お前は一体誰だと、繰り返し繰り返し――。

 思考の陰りを振り払いながら幸村は槍と刀を構え直す。
 彼女が何者であるかはさして気に留めることもなかった。武人としての魂は倒すべき男が既に屍になっていて拍子抜けにも似た落胆をしたかもしれないが、幸村の目的はあくまで首一つ。自分と元就を解放するための取引に使うためにそれが必要だった。
 命を奪ったのが彼女ならば、その首を持ち帰らせるわけにはいかない。
 自分が倒したわけでもないのに手柄を奪うような真似、かつての幸村ならば辟易とさえしただろう。
 だが手段を選ぶわけにはいかない。
 幸村の周りには同じ陣に属する仲間はいても、本当の意味で――幸村自身の心を知っても尚、傍らにいてくれる味方なんて何処にもいないのだ。主君も従者も家族さえ失ったその居場所は、もうたった一人の愛しい者へと明け渡してある。そして幸村はそれ以上を拒絶した。
 だから幸村には後がない。もう二度と失うわけにはいかず、矮小な掌で守りきれる一つの拠り所をこうも必死に守りたがっている。元就の側で生きる事が幸村にとっての生きる意味であり真実となったのだから。
 自分自身がどれほど穢れた獣に成り下がろうとも最早構わない。
 元就の灯火がこの心の内を温めていてくれる限り、幸村は幸村として生きていけるから。

「邪魔というのならばそちらではないか、魔王の妹殿。何故魔王が屠られているのかは分からぬが、某にはその御首が必要だ。無理にでも退いていただこう」
「……兄様は市が連れて行くの。だって約束したもの」

 禍々しさを纏う気配は魔王の妹に相応しき威圧感があり、かつて聞き及んでいた儚い花のような佇まいは鬼気迫るものがあった。
 やくそく、と幾度か呟いた市は、返り血で真っ赤に濡れた自分の身体を見下ろしながら、徐々に黒ずみだした薙刀の刃を幸村へと向けてきた。
 彼女の足元には蠢く闇が見えた。人ならざる者の呻き声や叫び声が天守閣に吹き込む風に紛れて、幸村の鼓膜を震わせてくる。
 まるで耳元で己の闇に囁かれているようだ。
 じっとりと首元に浮かんだ冷や汗を感じながら、幸村はじっと間合いを測り続ける。

「約束したの。……長政様を取り返すって」
「がっ!?」

 俯きがちの虚ろな視線が突如として幸村を睨み付けた。
 途端に市の足元を這っていたはずの暗闇が背後まで一気に伸びて、闇の腕が幸村の身体を吹き飛ばす。衝撃に耐え切れずに吹き飛ばされた幸村は、刀を床に刺して勢いを殺した。
 片膝を付く間もなく、血で滑った凶刃が目の前まで迫りくる。柄から手を放して槍を両手で持ち直した幸村は、寸での位置で薙刀を受け止めた。か細い腕からは考えられぬほどの振動が彼の腕へと響き渡る。
 市の黒髪が止められた反動でばさりと肩口から流れて、噎せ返る様な血の香りが二人の間を行き交う。
 人の顔の美醜など然したる意味も持たないと思っている幸村であるが、やはり魔性は普通の者とは違うのかと眼前の美貌を見て納得する。絶世の美女だとか武田にいた頃に聞いたことがあったが、だからといって噂を流布する男達のように本能的に惹かれる感覚もない。
 幸村にとっての美しい者は唯一の人だけとなってしまったから、ただの感想めいたものしか浮かばなかった。

 その思考もすぐに遮られた。槍の柄で受け止めた先から、ぽたぽたと赤い雫が滴り落ちたのだ。
 幸村の目の色が瞬時に変わり、すぐさま渾身の力を込めて女の身体を押し返す。元からふらついている足取りの市は簡単に弾かれた。

「はぁ……はぁ……約束ならば某にもある。そこを退かぬと申すならば、屠るまで」

 幸村は内心で慌てながら、翻った自分の鉢巻を盗み見る。変わらない白さがそこに残されていて安堵の息を紛れ込ませながら、市を冷たい視線で突き刺した。
 だが彼女の仄暗い双眸と交わった途端に背筋が引き攣る。
 先程よりもしっかりと直視してしまったそれは、間髪入れずに幸村の内側にある脆い部分を暴き出す。

 目の前に立つ者と同じく、兄の紛い物として生まれて、兄を殺して血に塗れている身体でそれでもまだ生きている矛盾を持ったその闇の色は正しく同種。ざわめく影が己を糾弾して、謝りながら泣き濡れる術しか持たなかったちっぽけな自分が指差して嘲笑っていた。

 ――お前は誰だ。どうして生きている。守れなかった因果は巡り、再びお前の大切なものを奪い去るだろうに、何故ここで戦っている。

「黙れ……俺は、俺はあの方と約束した! 必ず帰ると。生きて側にいるとっ!」

 “真田幸村”ではなく、元就の信じた幸村として。自分自身が信じた真田幸村として戦場へ戻る道を選んだ。
 兄の身代わりになれなかったことを謝るのは止めた。生きている理由を求めて、誰かのために生きるのも止めた。
 ここにいるのは六文銭も持てない臆病な男だ。他の何者が虎とも鬼とも呼ぼうが構わないと言いながら、彼の元から逸れる事だけに怯えている。戦う事に飢えながらも逃げ出したい気持ちを持て余すこんな自分は、虚勢の幕を張ってどうにか立っているだけであって誰からも望まれた姿にはなれずにいる。
 お互いが醜くて弱い部分を曝け出しながら出来上がった愚かな恋心だったかもしれないが、それでも抱き締めてくれた元就だけが、元就への想いこそが今の幸村にとっての全てなのだ。
 闇が払拭できないくらいには罪悪感や喪失感を未だに抱えていると自覚はしている。
 けれど、それが何だというのか。
 責めてくる自分自身にさえも、邪魔はさせるつもりはなかった。



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