手招く虚穴に緋の華一輪
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突き刺した刀をもぎ取りながら吠える幸村に、気圧された闇の腕が市の影へと震えながら潜む。
真っ黒な壁の向こう側に息絶えた魔王の亡骸を見た幸村は、矛先を一気に変えて飛び出した。
自分ではないものへ標的を差し向けたことに気付いて、市は黒々とした眼差しを瞬かせる。咄嗟に細い腕が伸びた。
「にいさまっ」
「御免!」
女の絶叫と幸村の刀が信長の身体へ届いたのは同時であった。血濡れの白刃は明確な意志を持ってして彼の首を狙い定めた。
この時の幸村には市の姿も信長の姿も最早目に入らず――ただただ一方的に自己が望んだ未来の空想図だけが、空白の瞬間に描かれていた。
死に絶えた身体からはもう吹き出ないはずの鮮血が、幸村の前身を真っ赤に染め上げる。
――命の花が、散るために咲いた。
幸村の刃は躍り出た細く甘やかな体躯を無残にも引き裂いて、彼女が幾度となく受け継いだことを嘆いた魔の血族の証が真っ暗だった足元を赤く赤く染めていく。
自分自身が殺した最愛の兄の遺骸を、まだ生きているはずの市が身を挺して庇う。正常な者であれば馬鹿げているとも思える悲劇の光景は、幸村にとって己の心臓を抉るかのように痛烈な痛みを伴わせた。
女の身体を貫いた刃は地に伏した魔王の身体を些かばかり傷付けて、何処からともなく湧き上がっていた幸村の震えで剣先が裾を薄く掻き切った。拍子に歪な形をした何かが、からりと音をたてて転がる。
信長と市の交じり合った血溜まりへと落ちたのは、丁寧に箔の貼られた――誰かのしゃれこうべ。
「長政様」
血が眼窩から滴り落ちる骨を見つけるなり市は嬉しそうな声を上げて、目の前で佇んでいる幸村を尻目に愛おしげにそれを抱き締めた。
「もう大丈夫。市が兄様を連れていくからね……長政様も、もう眠っていいんだよ……」
一緒にいてくれてありがとうと物言わぬそれに告げて、市は己が濡れるのも構わず血溜まりの外側へと優しい手付きでしゃれこうべを置いた。
彼女は幸せそうに微笑みながら手放して、今度こそ幸村を見た。
決意の色の灯った瞳にはもう空洞はなく、ようやく満ち足りた彼女自身の存在で埋めた色がある。相変わらずの闇の色――けれど奥底に光るのは唯一の道標となった夜の星。
――同じなのか。
薄々感じ取っていた感覚の答えを知って、幸村は唇を噛み締めながら彼女の最期を看取ろうと膝を付く。
虚の化身のような禍々しさは消え去り、罪を問い掛けてきた双眸は美しい黒真珠の如く潤んで穏やかだった。
「……あなたも市と同じなのね」
咳き込みながらぽつりと呟いた市は、相手の額に巻かれている白い布きれをじっと見上げる。そこに籠められた想いの強さが分かるのだろうか、童のようなあどけなさで笑った市は囁く様に声を紡ぐ。
「でも違う。あなたの火は奪うだけのものじゃないから」
「某は――俺は、生きて守りきる」
哀しげな市に対して幸村は断言した。
彼女の憂う結末には絶対にならないと。そうさせるものかと自身への決意を新たにするように。
彼女がここまで旅をした理由が何となく知れたからこそ、彼女のようにはなるまい。
幸村は意を決して市から刃を抜き取った。瞬時に血が溢れ出して、苦痛でくぐもる女の吐息が耳を掠めていく。
「一つお願い。叶えてくれるなら、兄様を連れて行くのを少しだけ待つね」
「某が出来る事ならば」
「あのね、長政様を送ってほしいの。あなた、お日様の匂いがするから、きっと連れていってくれるわ」
不明瞭な言葉だが弔いを乞うているのはすぐに理解できて、己の歪んだ炎でよいのだろうかと逡巡した幸村は次の言葉で背筋を伸ばした。
二人で眺めた赤い海を思い出す。
西国の世界に向けて祈る元就の姿が過り、微かな迷いもまたすぐに晴れる。
「確かに聞き届けた。お市殿も、兄君とどうか安らかで」
彼女は信長の遺骸に折り重なるようにして崩れ落ちた。
粘つく赤黒い暗闇が兄妹の周りに噴き上がり、彼らの世界を現世からも常世からも切り離す。二人が向かうは深い深い根の国のさらに奥地。元始の闇の帳を開いて、混沌の淵へと沈んでいく。
もう何も怖いことなどない。彼女は生まれた国に還るだけなのだから。
霞む意識の中で市はもう一度、死に追いやる形となりながらも自分達の傍らでずっと見守っていてくれた男の魂を見やった。物言わぬしゃれこうべは何も告げてはくれないけれど、市の心に温かな何かが触れていったのが分かった。
だから彼女は微笑んだ。
愛した白い華へと精一杯の想いを籠めて、今度こそ――。
「……さようなら長政様……」
目も開けていられないほどの闇の風が辺りに吹き荒れて、幸村は咄嗟に瞼を瞑った。
轟々と燃え広がる階下の火の手が何処かの柱を焦がしたのか、天守に大きな衝撃をもたらした。崩れ落ちる居城と共に魔の御霊は落ちていく。暗い暗い洞穴の向こう側で手招く影を見たような気がした。
風が止み、再び両目で捉えた天守には市の姿はなかった。
彼女が長政様と呼んだしゃれこうべが紅の痕跡の隅で、どことなく寂しそうに置き去りにされている。その眼窩の見つめている先を辿っていけば、不自然なまでに胴体だけが掻き消えた首が幸村を待ち構えていた。
女の言葉を思い返しながら、深い一礼を返した幸村は立ち上がる。
何よりも手に入れたかった御首級よりも先に、二人に取り残された“彼”を彼岸へ渡らせてやりたかった。
刀を鞘に納めて丁寧に槍を構え直した幸村は、暫しの黙祷の後で渾身の力で魂の楔を砕いた。
途端に迸った、舐め尽くすような紅蓮の炎。
灼熱の中でも残るはずの骨は、解放された勢いに呑まれていくかのようにみるみる白い灰に変わっていく。熱気に晒された粉はそのまま上昇して、花弁の如く散りながら空へと流されていった。
「――俺は」
最果ての空へときっと辿り着くだろう闇に愛された人を見届け、水先案内人となっている煙を辿っていりながら自然と呟いていた。
きつく縛り上げている後ろ髪と共に常に感じている自分の大切な華を、彼女のように失わないと決意の上書きをするように形見の槍を持つ拳が強く握られた。
「俺は絶対、同じになんかならない」
- END -
(2012/02/10)
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