手招く虚穴に緋の華一輪

- 1 -

 闇の底で出会ったのは、儚いのに強い温かさを伴った一筋の光。
 貴方の手が、腕が、優しさが、空っぽだった己に再び命という炎を吹き込んだ。すぐに掻き消えてしまいそうな頼りない灯火だったからこそ緩やかに近付けた。少しずつ同じ体温になれていくのが分かった。
 世界にたった一人しかいない貴方の傍らで微笑むことが出来る。それがどんなに幸せで、何よりも失い難いものだと知った瞬間に自分は生まれ変われたのかもしれない。
 柔らかな日差しの下で微睡める穏やかな一時が、涙が滲むくらい嬉しかった。

 でも同時に暗い暗い陰が――足下を這うようにどんどん伸びていったことに、気付いたのは随分と後の事。
 それはかつて自分を拘束していた孤独な闇ではなく、空っぽな暗がりではなく。
 唯一の大切な者を愛してしまったから故に生まれた、綺麗な感情とは逆の影の部分。醜さ、浅ましさ、疑念、嫉妬というように名前を付けていけば切りがないそれらは、貴方と過ごす内に肥大するばかりで、一切合切を霧散することは決して出来なかった。
 何故ならばそれは、幸福の後ろ側で必ず見え隠れしている落とし穴。
 見つけるたびに不安が押し寄せて、足下を掬われかけると恐怖さえ思い浮かぶ。

 貴方の側にいられるのならば何も要らない。
 貴方の隣で笑っていられるなら、何だってする。

 ――けれど貴方がいなくなってしまえば。

 美しい白い花を二人で見た時、こみ上げた想いの深さは熱を生んでくれた。だけど同じものをこれからも二人でずっと見ていけるのだろうかと一瞬たりとも考えた事がなかったのかと言えば嘘になる。
 貴方のくれたささやかな微笑みも言葉も温もりも、永遠に忘れたくない。絶対に失いたくない。
 そう考えるたびに影は深くなった。虚ろな洞の奥底に眠っている己の闇が嘲笑いながら、絶望が飛来しないかと今か今かと待ち望んでいるような気がして震えが走った。
 無言でそれに耐えていれば、白い手がこの冷たい手を握り締めてくれた。
 それだけで自分は、一人の人間として生きていていいんだと許される気がして、すぐに泣いては貴方を困らせてしまった。悲しいかと問われれば首を振るしかない。貴方と共に生きていける事がとてつもなく嬉しいのだと正しく言葉としては伝えきれなかったけれど、この上なく自分の心が素直に喜びで沸き立ったのだというのだけは自覚していた。

 思えば初めての連続だったかもしれない。
 一番驚いたのはこんな自分が、狂おしい程にたった一人の人間を愛してしまったこと。
 だからこそ余計に失うなんて考えられなかった。こんな日々がいつまでも続けばよいと、続いていくものだと願う以上に信じてしまっていたから。


 * * *


 ――だが彼女の希望の未来は儚く砕け散った。

 彼女の目の前には愛しい人の亡骸が地に伏したまま動かない。
 兄の凶行を止められる訳もなく呆然としていたところで巻き添えを食らいかけていた彼女を突き飛ばすようにして庇ったのは、その人だった。凶弾に倒れた冷たい遺骸からは、まだ温かな血潮が止まった鼓動の惰性の如く彼女の足下に赤い泉を広げ続けている。
 彼女の頬は紅に染まっていた。愛しい人が最期の手向けのように微笑んで触れてくれた場所。
 しかしそれももうすぐ彼女と彼女の兄の纏う闇のような黒に変化してしまうだろう。

 美しい光を携えていた貴方の名残が掻き消えてしまう。
 嘆きの叫びが彼女の喉元を喰い破るなんてことはなく嗚咽混じりに愛しい人の名前を繰り返し呼び掛けるしかできない。涙は後から後から生まれてくるのに、拭ってくれた指先はもう二度と動かない。
 こちらを見てくれていた、優しさと厳しさと、それでいて寂しい気持ちを押し隠していたあの両目は閉ざされたままだ。彼女がこちらを向いてほしいと小さく願うと少しだけ憤って、でも真っ直ぐと顔を見せてくれて。青白い彼女よりも健康的な色をした肌が照れくさそうに朱を交わらせていたのが印象的だった。
 死にゆく間際で鮮やかな過去の思い出が次々と浮かんでくるのはなんて皮肉なのだろうか。
 虚空を見上げながら愛しい人の身体を抱きしめて、彼女は冷たい雨に濡れていく。
 もうこのままこの人と一緒に朽ちてしまってもよいかもしれない。
 不穏な事を考えるたびに彼女の影から生まれた無数の手が、ざわめきながら二人を包もうとしていく。
 この人を失った後で自分が生きていける自身なんて端からなかったのだから、まだ人の身でいられる内に二人で一緒に賽の河原へ墜ちてしまおうか――。
 赤い花畑の中に一輪咲いた白百合のように佇む背中を思い浮かべて、彼女は苦しい気持ちに駆られながらも微笑んだ。

 けれど彼女の夢想はそこで途切れる。
 どれほど常世に想いを馳せたところで彼女の身体はまだ現世にある。故に現実の時間は無情なほどあっけなく通り過ぎて、二人の世界を再び壊し始めるのだ。
 彼女は愛しい人の亡骸から無理矢理に引きはがされて、兄の部下達に恭しく――そして逃げられないほどの強引さで連れていかれた。
 ずっと傍にいると誓ってくれた彼の人の約束は、言葉通りに死ぬまで確かに果たされた。なのに自分はどうしてあの人の側にいてはいけないのかと、呆然と遠くなる血溜まりを凝視する。
 愛しい人の横に佇んでいたのはその命を奪った男、彼女の兄。
 声にならない悲鳴がとうとう彼女の脳裏に響き渡る。大好きだった笑顔も声も、温度も、全部消してしまったのにこれ以上その人を汚さないで欲しかった。

 やめて、やめて、うばわないで――。

 無情なほどに呆気なく、男の刃は下ろされる。
 余りの出来事が置き去りにされた彼女に襲いかかり、そこで一度考えることを放棄したとしても誰も責めないだろう。
 しかし彼女は闇の申し子だった。
 光と呼ぶには弱かったかもしれないけれど、彼女にとってはそこにあるだけで生きていけると思って守ってきた大切な灯火。隣にいるほどに自らの影が大きく膨らんでいることに怯えた日もあったものの、明かりがある限り深い闇が顔を覗かせることなんてないのだと寄り添った熱の優しさに安心していた。
 でも、あの人はもういない。
 彼岸に旅立った魂についていく事も出来ず、自らに科せられた宿命からも逃避し続けていた彼女は抜け殻同然で、引きずっていた闇に呑まれるのもある意味で当然だったのかもいれない。
 だが彼女は自分が既に死んでいる人形ではなく、今を生きている人間であることを知っている。他でもない愛しい人が教えてくれた大事な記憶が、真っ黒に染まる心の中心を仄かに白く温め続けてくれていたから忘れもしない。
 だから彼女には一つだけどうしても現世でやらなくてはいけない使命があった。
 奪われたあの人を取り戻すのだ。いつまでも旅立てずに、川辺で待ち続けているだろう愛しい灯火を安心させてあげなくてはいけない。
 たとえそれが叶ったところで、この魂はもう貴方と同じ国には逝けないのだろうけれど――もう一度だけあの掌と声と笑顔と巡り会えるのならば、他には何も望まない。此岸と彼岸で引き裂かれていようともずっと傍にいてくれたのだとそれだけは確かに分かるから。心はいつまでも繋がっているのだと、分かるから。

 魔王に生まれて苦しかった。背負う宿命と因果が怖くて重くて、逃げてばかりいた。
 それでも貴方は愛してくれた。
 お互いに求めたのは寂しさを埋める歪んだ関係だったのかもしれないけれど、最後にあったのは自分達なりの答え。誰にも譲れない唯一の証だ。

「兄様にだって渡さない」

 彼女はそうして終焉のための短い旅路を歩き出したのだった。
 失った時はあれほど咽び嘆き続けていた彼女の瞳には、それっきり涙など浮かんではいない。
 闇色の業火へと自ら近づき、その薄暗い熱で乾ききってしまったかのように。伏し目がちの長い睫毛に彩られた網膜に焼き付いているのは怨念じみた妄執。凍えた笑みに纏うのは、誰も彼をも根の国へと誘おうとする陰湿な影。

 彼女はゆっくりと長い長い回廊を歩く。
 伸びた白い腕が引き摺る薙刀が、豪勢な板張りの床をぬらぬらと汚していったが誰も止める者はない。紅色の道筋は、彼女を遮ろうとした者の身体から散った花弁。どんなに美しくとも枯れてしまった花は二度と戻らない。彼女が世界中で誰よりも愛していた傍らにあった灯火の華もまた、目の前で刈り取られては儚い命を終わらせたように。
 妖艶ながらも狂気に満ちた笑みを貼り付けて、彼女は独り言を呟きながら前へと進む。
 幾度も幾度も繰り返される男の名前だけは、甘い優しさと哀しさが滲んでいた。

「もうすぐ逢えるね、長政様」

 呼べば彼女だけに聞こえる声が傍にある。
 あの日、自らの目の前で冷たくなっていた彼。嫁いできてからずっと、不器用ながらも慈しみを滲ませた態度で彼女に接し続けてくれた彼の人。互いに触れることを怖れながらも、繋ごうとして伸ばされた掌へとおずおずと己の手を重ねたのは紛れも無く彼女自身の――操られた運命の中で唯一といってもよいほど――意思を持ってのこと。
 生まれ落ちた瞬間から闇の淵に佇んでいた彼女にとって、彼の存在は奈落に差し込んだ美しい一条の光そのもの。辺りを覆っていた外殻に走った亀裂の向こう側に見えた世界は、澱んだ瞳をしていた彼女にとって眩し過ぎるくらい鮮やかで。
 そっぽを向いてばかりの彼は、二の足を踏めずにいるとすぐにこちらを振り向いて名前を呼んでくれるのだと知った時は涙が滲んだ。いつもの悲哀からではなく、これは喜びなのだと彼女は初めて理解できた。

 それからというもの、彼の傍らは彼女の居場所だった。
 寄り添い合う白百合のように。野道に寂しく咲いていたとしてもそこは温かな太陽の下で、隣に咲くもう一輪の花の香りに包まれて生きていってよいのだ。彼女は自分が自然な笑顔を彼へと向けられるようになったことを心底嬉しく感じていた。
 常に得体の知れぬ恐れを抱えていた日々は忘れえぬものだけれども、光溢れる世界の中で薄暗い記憶は少しずつ薄らいでくれて、彼と歩む未来を望んでも憂うことなど何もないのだといつか自信を持って言えるのではないかとさえ後ろ向きな彼女にしては大それた希望さえもたげてきていたのだった。
 ――でもそれは、やはり自分にとって不相応な願いなのだと彼女は嘆いた。
 灯火の側で過ごした分だけ、自分の後ろに尾を引く闇の深さは底無しの沼となって孕んだ狂気をひたすら喰らう。
 自分が今、正気でいるのか。彼の好いてくれていた自分でいるのか。それさえも最早彼女には判別が付かない。

 ただただ壊れた思考の中でぼんやり感じるのは、この深い絶望と虚無感を晴らした処で蝕む悲しみは覆せないという事実。
 あの人はもう戻らない。自分達は隔てられたのだという現実。

「でも此処にはまだ市の心はあるの。ねぇ長政様、市がきっと其処から解き放つね。そうしたらもう一度だけ、笑ってほしいな」

 どれだけ泣いても変わらない。前を向いて逃げるなと叱咤したのは、あの人の声だ。
 だから彼女は歩き続ける。
 先に待つのが己の宿命たる存在であろうとも、彼を愛した想いだけは何事にも関係なく彼女が彼女として生きた真実なのだから。



2→




←Back