07 斜陽の後でもう一度
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江戸城下のとある下屋敷。
晩夏の風がそよぐ濡縁で、碁を打つ音が聞こえる。土塀の向こうからはかなかなと鳴き出したひぐらしの喧騒も合唱を始め、対局する二人のさざめくような笑い声も外へは漏れずに庭で響く。
「もうそろそろ帰ってくる時期かな。向こうは今どんな気候なのだろうね」
「あの馬鹿から文が寄せられた。一月も掛からぬと言ったが、どうせ寄り道するだろう。向こうの方が少し涼しいようだから、ちょうど良いのかも知れぬな」
「馬鹿って……元親君も酷い言われようだね。秀吉は大丈夫かな」
あまりの言い方にくすくすと笑いが込み上げ、白い髪が細かに揺れ動く。戦乱の中で常に身に付けていた仮面はそこにはなく、本当に楽しそうに半兵衛は笑っている。
碁を打ちながらそれを盗み見ていた元就も、自然と口元をつり上げてつられるように笑ってしまった。
穏やかな気候の中、こんな風に二人で話せる日が来るなんてあの頃は微塵も思ってもみなかった。寂しさを抱えて生きることに必死だったから周りを見回す余裕もなく、ぶつかり合って我を通すしか意思を示す手段が分からなかった。
家康の作り出した泰平は、滞りなく続いている。
先の戦の貢献者の一人である元親は、悪友である伊達政宗と大陸へと何度か渡り、それに秀吉は同行していた。主に貿易と外交、見聞を広めるための旅は戦うことだけを考えていた彼に、様々な発見をもたらしている。
軟化した秀吉とは気が合うらしい元親は、二人でこっそりと病に効く大陸の薬を屋敷に贈りつけて来ていたが元就と半兵衛には勿論お見通しである。治す術はやはり見つからないが、身体を酷使することもなくなって届けられる薬を煎じるようになってからは少しだけ安定してきている。
命の灯火は刻々と消えかかっていても、それでもまだ生きている。生きているのだから、終わりまで足掻こうと決めていた。
「ああー! また半兵衛殿の屋敷にいらしたのか!?」
唐突に騒がしい男の声が垣根の向こうから上がり、半兵衛が今度こそ大きな笑い声を上げた。
へそを曲げた口振りでずかずかと人様の庭に上がり込んできたのは、長い髪を少々汚れた白い布で結い上げている青年だった。竹箒を片手にたすきで袖を捲くっている姿は、どう見てもかつて猛将として世間を騒がせていた男には到底見えない。
腹を抱えている半兵衛を一瞥して、これでは対局は無理だと悟った元就は肩を竦めてそちらへ顔を向けた。
「下らぬ事で一々喚くな。そなたでは勝ち通しでつまらぬと、前にも言ったろう」
「俺は、俺の見ていない所で楽しそうにしていらっしゃるのが気になると、前に申したはずでござる!」
微妙に論点の外れている二人の話を、半兵衛は一人で楽しんだ。
毎度元就が屋敷へ碁を打ちに来たり、句を読みに来たりとするたびにこうして庭からあの男が拗ねた顔をして現れるのは日課の様なもの。今日はそろそろ来るかと考えていた時に本当に出てきたので、流石に半兵衛も込み上げた笑いは堪えられなかった。
「嫉妬ばっかりだと愛想尽かれちゃうよ、幸村君」
「半兵衛殿っ!」
真っ赤になった顔で反論しようする身体はもう子供ではないのに、想いの純粋さだけは変わらないまま自分に捧げられていると思うと元就はくすぐったくなった。
こうもわんわん叫んでいると隣の屋敷の主が顔を覗かせるのは分かりきっているはずなのに、毎回半兵衛と何となしに過ごしていると、幸村は構うのならば自分にしてくれと言わんばかりの態度で乗り込んでくる。
完全に隠居暮らしである自分と半兵衛と、一応仕事を持っている幸村とでは重なる時間帯が違うから仕方が無いのだが、ようやく想い人と一緒に過ごせるようになった若人は納得いかないらしい。
そんな幸村の気性が、元就には愛しかった。
「源二郎、また竹中様のお屋敷で騒いでいるのか。家の者が迷惑するだろう」
「うっ兄上……忠勝殿……」
案の定、隣の屋敷の主が困り顔でやって来た。
戦が終わってから忠勝は江戸城の奥で眠ることが多かったが、そうしていても錆びるだけだと時折家康が城下へ出させる。その度に信幸のいる真田家の屋敷を訪れているようだったから、主従とは少し違った信頼関係が二人の間に芽生えているのだろう。家康の定位置である肩とは逆側に、よく信幸を乗せている。
今日もそうして呆れ顔で幸村を見下ろしていた。
「ふふ、こうも幸村が責められては堪らぬ。ではな半兵衛、明日にでも今日の続きとゆこうか。信幸殿も、またな」
「も、元就殿っ、待って下され!」
また、明日――。
そう言い残して元就は出て行き、幸村が慌てて追いかけていった。
微笑ましい光景とこんなに簡単にできる明日への約束に、半兵衛は目を細めてじんわりと染み入る温かさを覚える。
「幸せそうですよね」
「……ああ。そしてきっと僕も、今が幸せなんだろうね」
二人を見送っていた信幸が落とした呟きに、半兵衛は同意した。
もう寂しくない。怖がらなくてよい。そんな世界を生きて感受していけることが、泣きたいくらいに嬉しい。
遅くとも気付けて良かったと半兵衛は思う。こんな日々の積み重ねの中で、人は忘れられない記憶と覚えていたい思い出を重ねていくのだと怯えていたあの頃の自分に伝えたかった。
元就は幸村といられて、半兵衛は秀吉と変わらない関係を築け、信幸もまた自分だからこそ信頼してくれる存在と出会えた。
哀しい戦いの連続は消えない過去。だからこそ、今がある。
「忠勝殿はどうですか?」
戦うだけの存在であれど、幸村のように何かを見つけ出せばそれは違った意味を持つのだ。
信幸の問い掛けに忠勝は小さな唸りを上げて、指先に止まったひぐらしをそっと側の梢へと運んでやる。ひぐらしは逃げることもなく、小さな羽根を震わせると美しい鳴き声を夕焼けの下で響かせ始めた。
無骨な指先の繊細な仕草が、きっと答えだろう。
夕闇の中で手を繋いで、幸村と元就は他愛の無い話を続けていた。
昨日の夕餉は佐助が作ったから美味しかっただの、今朝の朝餉は味噌が多過ぎるだの、元就の暮らす小さな屋敷を中で起こった些細な日常は何とも掛け替えの無い思い出だ。
二人は今、同じ屋根の下に住んでいる。武田の屋敷も真田の屋敷も家康は用意してくれたが、幸村は信玄に断って元就が療養にと毛利から貰っていた小さな家に転がり込んでいる。
お付きの佐助と合わせて三人での暮らしだが、彼は殆どいないように振舞っていて、実質的には寺にいた時と同じだった。違うのは、幸村が元就の身の周りの世話をしていることか。
「もうすぐ秋に差し掛かります。もっとご自愛下され」
「そなたが迎えにくるのが楽しみなだけよ」
「や、止めて下され。何度俺の肝を冷やすおつもりですか」
病の影はどうしたって消えてはくれないが、もう二人は怖くなかった。
固く繋いだ掌に片方ずつ提げられているのは三文の銭。
たとえ彼岸へどちらかが先に向かおうとも、二人で一つ。渡る前に待ち続けようと言葉無き約束を秘めた証。いつ何時別れようとも、現世と常世に裂かれようとも、必ず先に再会が待っていると頑なに誓い合った互いを繋ぐ六文銭。
寂しかった心は、生き続ける限りなくなりはしないだろう。
それでも忘れずにいつまでも覚えていられる温かな灯火がこの身に宿っていることを、二度と疑いはしないだろう。
恨んだ世界は出会うことを許してくれたのだ。幾度も幾度も離れようが。
「……そうか、そろそろ秋の彼岸も近いのか。幸村、久方ぶりにあの場所へ連れて行ってくれぬか」
「ええ。佐助に留守を頼んで、お弁当を作って琵琶を持って、二人で参りましょうか!」
綻んだ元就へ、幸村は満面の笑みを浮かべた。
二人は連れ立ち、暮れていく斜陽を背にしながら家路を歩いていく。
日が沈めば再び明日がやって来る。未来に交わした約束の日が近付いて、そして過ぎていく。何て事の無い毎日の繰り返し。
だけど日没の後に来るのは夜の闇だけではないのだと、戦乱を生き抜いた人々は知っている。
死が二人を別つ時も、近い未来にやって来るだろう。
でも寂しくはない。信じ続けると、元就と幸村は誓い合った。
いつか誰も知らない遠くの世界に二人きりで――彼岸花の咲き乱れるあの川を、きっと越えてゆこう。
(斜陽の後の夜を越えれば、きっと再び――)
route-Again
END
終幕
(2009/07/02)
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