07 斜陽の後でもう一度
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ようやく陣まで辿り着いた元親は半兵衛と対峙していたが、後方から迫り来る馴染んだ気配に驚いた。
半兵衛も気付いた様子だったが、眉を微かに顰めるのみで冷静なように見える。内心では荒ぶる感情の波が騒いでいたのだが、それを表にすることはない。
「何で来た毛利! お前、身体が」
「一寸、竹中に用がある。貴様はさっさと進め」
それ以上は言わせまいと元就は元親を睨み上げ、半兵衛へと視線を転じた。お互いに具合の悪さは青褪めた頬を見ればすぐに分かったが、それを臆面もせずに睨み合う。
半兵衛も元就に言いたい事があった。彼もまた幸村と同様に、あの日から元就と会っていない。こんな場所で再会をするなどとは、思ってもみなかったが。
渋々といった形で元親が身を引くのが目に入り、半兵衛は関節剣を振るったが元就の号令で射掛けられた矢に遮られる。舌打ちした半兵衛は構え直して、元就を正面から見据えた。
強がるように嘲りを浮かべると、元就が顔を歪めたのが分かる。
元就が前線に出てこないわけ。元親の言葉。そこから導き出された答えを、半兵衛は知っていた。そうなるように仕向けてきたのだから。
「どうだい、苦しいかい。世界も僕も憎いだろ。儘ならぬ身体には儘ならぬ未来がお似合いだと思わないか。……真田幸村がどうなったのか知りたいだろう?」
「幸村は生きておる」
敢えて神経を逆撫でしようとする物言いに、元就は微塵も揺らがなかった。それどころか妙に凪いだ瞳で、半兵衛を静かに見つめてくる。
自分は真相を話しているだけなのに何故だか間違いを指摘されたような気になり、焦りが込み上げてきて半兵衛は反論した。
「死んだんだよ! 十万の兵に踏み付けられるというのに、君の名を出せば断りもしなかった。ははっ、これで惨めな君の側にいてくれる存在なんか、全部いなくなった! 毛利だって長曾我部だって、戦が終わってしまえば君を不必要だと捨てるさ」
「そうだな、それが世界の真実なのかもしれぬ。だが、我が見出したものではない」
決意を灯した眼差しに半兵衛の背筋が震え出す。
揺るぎたくなかった。それを自覚してしまえば、本当は弱い自分が隠せないほどの怯えに悩ませられることに気付いたのはいつだったろう。
――病魔に蝕まれ、一人で死んでゆく未来を見つけてしまった時か。
どんなに偉業を成し遂げてもいつしか人は忘れていく。そこにどんな想いが、軌跡があったのかを記憶に埋没させて、長く生きられない自分の悔しさなど誰も分かってくれないまま、誰も覚えていてくれないまま死ななくてはならないのだと気付いた時から、半兵衛の恐慌は始まってしまった。
もがいて求めた先にいたのは同じような孤独を抱えていた元就だったのに。それを攫いかけていた幸村を、ようやく突き放せたのに――。
元就の目は、絶望していない。
自分はもうこんなにも汚れて、世界を呪いながら血を吐き続けている。
なのにどうしてなのか、半兵衛には理解できなかった。
「幸村は生きておる。我がそう思う限り、必ず」
「そんなの詭弁じゃないか。……たとえそうでも、彼だっていつまでも君のことを覚えているはずがない。君のいないところで、君を忘れていく」
徐々に弱々しくなっていく半兵衛の言葉は、彼自身に突き付けているような痛々しさを膿んでいる。
元就がそれを感じたのは初めてのことではない。寂しいと泣いていた幸村も、覚えていたいと嘆いた自分も、目の前の男の闇に哀しいくらい重なって見える。けれど半兵衛が苦しくても今を生きているのは、彼の中にも照らされた灯火があったからだ。だが彼は気付かず、元就の灯火を求めてずっと闇の淵を彷徨っていたのだろう。孤独を嫌がり、同じ闇へ引き摺り下ろすため。
だがそうしたって、真っ暗闇の中では繋ぐべき指先さえ見えないのだ。
「愚問であろう。我が覚えている。それで十分ではないか」
「――っ、君達は本当に馬鹿だ!」
幸村と似た色を灯す穏やかな眼差しが笑い、半兵衛はどう足掻いても二人を切り離せない現実を知って、悔しさよりも羨む気持ちが押し寄せた。
歪に出会ったはずの二人なのに。半兵衛が欲しく仕方ないものをお互いに持っていて、それを疑いもしない強さに羨望してしまう。
だが元就も、脆弱な自分を知っていた。だからこそ強くなれるのだと、教えてくれたのは他でも無い幸村だ。幸村が元就に偽りを一片も持たなかったからこそ元就は、こうして性根の深い場所から彼を想える。
半兵衛にもその灯火は、今も消えずに存在するはずだった。
大筒が鳴り響き、上の門が粉砕された轟音が空に響く。呆然としていた半兵衛はその音で我に返り、元就が采配を向けているというのに無防備なほど焦り大阪城へと振り向いた。
目の前の敵が見えなくなるほどに、この世界で足掻くことに疲れ始めていた半兵衛がまだ生きなければいけない理由である者があそこにはいる。なのに何故、彼はずっと信じられずに自分は一人なのだと不貞腐れているのだ。
愚かなのは貴様だ、と元就は久方ぶりに怒声を発した。
「いい加減、儘ならぬ事への憤りを我にぶつけて甘えるのは止めよ! 貴様が真に求めておる相手は、貴様の代わりに生きているわけではなかろう!!」
頭を殴られたような衝撃に、半兵衛はただ煙を立ち上らせる本丸を凝視したまま動けなかった。
自失呆然とする半兵衛を尻目に、元就は堀を越えて門を潜る。それでも制止はなかった。
一方の徳川軍は既に二の丸をほぼ占領していた。
豊臣の敗色は色濃く、兵士達も次々と投降している。家康は追いついた元親に彼らを頼むと、護衛兵さえ見当たらない秀吉の待つ場所へと忠勝を連れて昇り始めた。
「信幸、おめぇはもう帰れ。まだ本調子じゃねえはずだ」
忠勝の隣には信幸がいた。三河に置いてくる時間はなかったため、治療を受けながら共に行軍していたから少しは良くなってきたが、不安は残っている。保護してから武田へ届けるまで彼を守らねばという義務感があり、本来であればこんな場所まで連れてくる気は無かった。
けれど信幸も頑固である。恩を返さねば気が済まないと、徳川に従軍すると言っては聞かない。
真田の男はどうにも意固地だ、と苦笑いを浮かべた家康は結局折れた。何より忠勝が信幸の側を離れないから、彼を連れて行かねば忠勝も戦場に出られないのだ。
「いいえ、天下が何処へ行くか見届けさせて下さい。これはお館様が我ら兄弟に与えられた最後の役目。我儘かもしれませぬが、どうかお願い致します」
「……そうか。そうだな。それがおめぇの道ならば、わしの道、しかと見届けろ」
大きく頷いた信幸に笑いかけ、家康は忠臣へと厳しい顔付きを向けた。
この決意を誰にも邪魔させるわけにはいなかい。
秀吉の道と家康の道、どちらが天下へ続くのか雌雄を決する時は今だ。
「忠勝、手を出すなよ! これはわしと奴の、天下を賭けた戦い。乗り越えなくては信玄公に届くことなど永遠にないと知れ!」
構えを解いて静まった相棒の姿を見止め、家康は違わぬ誓いを立てるように頷くとそのまま壊れた門を潜り、大阪城内へと姿を消した。
忠勝の背に乗せられて家康を共に見送った信幸は、彼らの戦いを邪魔せぬようにと物見のように辺りを警戒する。まだ戦場に立つには心とも無い身体ではあったが、幸村として数々の戦歴を挙げてきている彼にとってはこの喧騒と臭いに自然と昂揚を覚えてしまい、何もせずにはいられなかった。
弟と同じく、自分自身の中にも虎たる魂と焔が赤々と灯っているのだろう。咆哮を上げられなくとも、戦の才が弟の影で日の目を見なくとも、信幸には信幸としての心があることに長篠の地獄を経てから気付いた。
だからもう余計な劣等感も罪悪感も、お互いに感じることは無い。
あの子は、幸村は自分にとって大切な弟だ。
それだけは居場所が不鮮明であった信幸の揺ぎ無い真実なのだから。
「忠勝殿、誰か来ます」
無意識の内に槍を握り締め、信幸は階段の下に見えた人影を察知して黒金の鎧へ伝える。
紅の瞳が一寸光り、鈍い音を立てながら門の前へと仁王立ちになる。その背に捕まりながら、信幸は戦火に飲まれていく大阪の景色をこの高台から眺めて目を伏せた。
祈りか黙祷か。信幸自信にも分からなかったが、幸村が笑って暮らせる世を家康が創り出してくれますようにと唯一つだけ願う。
再び眼下を見ると、人影の姿は明確に捉えられるほど近くまでいた。
「貴方は、毛利元就……?」
「――っゆき……? いや、違う。そなたは真田信幸殿とお見受けするが。そうか、徳川に保護されておったのか」
碧緑の具足を纏う流麗な男は、一瞬信幸の顔を見て驚いた様子だったがすぐにそれも形を潜めて、確かめるように名を紡いだ。
信幸は微かに頷く。
家康から長曾我部と毛利が挟撃に参加しているとは聞いていたが、以前直接戦ったことのある毛利家の元当主と思わぬ場所で合間見えてしまい、戸惑いの方が大きかった。
だが元就はほんの少しだけ表情を緩めて。忠勝の背に乗った信幸を見上げてきた。
かつて霧の中で見た氷の貌はそこにはなく、雪解けの中から顔を出す野の花のような控え目な温かさが見える。そっくりな顔を見て驚愕していたのに、すぐさま信幸の名が出てきたところを思うと、元就は少なくとも幸村自身から信幸の存在を聞いているのだろう。彼の浮かべた感情の糸を辿る先に弟の姿を強く感じた信幸は、同じように小さく綻んだ。
きっとこの人は、幸村を良く知っている。兄弟の因縁については他人に話すことを好まない弟が、武田と敵対していた大将に話したという事実こそが元就を信頼できる証拠のように思える。
「御隠れになられたと人伝に聞きましたが、無事でおられたのですか」
「おちおち隠居もできぬ情勢ゆえにな」
苦笑を浮かべた元就は少し咳を漏らすと、冷たい階段へ腰を下ろして忠勝と同じように待ちの態勢に入る。この御仁がまさか中の二人を待っているわけはないので、信幸は首を傾けた。
湧いた疑問を問おうかと逡巡していると、不意に元就が膝の上で頬を付いた。
手首から、見慣れた六文銭が零れる。
――誰かを迎えにいくのだと言って、慌しく出て行った弟。
何かのために豊臣軍に従事していたことは、佐助から聞いている。信玄の生存は知らなかったようだから仇討ちのためかと信幸は思っていたが、それを佐助から知らされても尚、幸村は目通りに遅参すると自ら語ったらしい。
幸村と親しいらしき元就は、誰かを待っていて。信玄よりも優先すべき誰かに会う為に、幸村は行ってしまった。
この二人の点と点は符合で繋がれるのではないだろうかと、信幸はそんな風に感じられた。
捕虜達の待遇の処置をしていた元親が、戦意を完全に消失した半兵衛を連れて上がってきたのは、それから少し経った後だった。
あちこちを壊された大阪城は静かなものだ。忠勝の視界からならば二の丸、三の丸で捕虜となっている大勢の豊臣軍が見えるだろう。
だが半兵衛が浮かべているのは夢が崩れ去っていくこの現状への恨み辛みや後悔ではない。彼は黙ったまま元就をちらりと見た後、家康が消えて行った門の向こうに広がる暗がりを無心で眺め続けていた。
心配そうな横顔から浮かぶように、本当ならば乱入していきたい気持ちがあった。だがそれは秀吉の矜持を穢すことになる。援軍も呼ばずに一騎討ちを申し込んだ家康に、秀吉は諾と答えただろう。そして二人は天下を賭けて、正々堂々戦い続けているはずだ。
元就に言われたことを反芻させながら、半兵衛はじっとりと浮かんだ手の汗を握り締める。
こんな風に昔から、秀吉と半兵衛では感じるものが違う事はよくあった。
分かっていたはずなのに、いつの間にか見えなくなっていた。短い生を駆け抜けようとする余りに、一番分かっていなければならなかった友の事を、半兵衛は理解できていなかったと自覚する。
夢を負わせた罪悪を拭おうと必死で、彼が選んだ道も選ばせてしまったのだと口にできないまま心の内で謝罪を繰り返し、だからこそ秀吉は先に死ぬ自分の事などいつか忘れてしまうのではないかとずっと怖がっていた。
遺業を継いでくれる人がいることは美徳のように聞こえる。
けれどそれは本当に望んだ形でなければ、亡者の願いで生きている者を雁字搦めにするただの楔でしかない。
秀吉は、野望を叶えられない自分に少しでも同情を覚えずにいられただろうかと、半兵衛は幾度となく疑心暗鬼に陥っていた。
そうして堂々巡りの中を彷徨って、彼の胸にぽっかりと口を開いた痛みの洞は狂気と寂しさに渦巻いた。
でもそれは、大きな過ちでしかない。
覚えていて欲しいと願う前に、彼を忘れないと決意した時がはたして自分にあっただろうか。
身勝手に秀吉の存在に押し潰されそうになっていた半兵衛は、何度も逃げ出したいと思った。だけど忘れて欲しくないなんて、元就にはさぞかし高慢極まりない願いだと映ったのだろう。
甘えるなと叱咤した元就の、苛烈な眼は焼き付いている。
あの二人が何を見てきて、何を知ったのかは当人にしか知り得ぬ事だ。けれど――二人が自分自身の意思で決めて、戦いへ赴いたことは分かる。
秀吉は半兵衛に言われたから、覇道を選んだわけではない。
自らの意志を持って、夢を描いて、己が力を持ってして歩こうといつも前を向いていた。半兵衛が安心すると分かっていたから、振り向かずに真っ直ぐと自分の道を見定め続けていた。
――だからこそ、途中で脱落してしまう自分に気付いてくれないのではないかという寂しさが生まれてしまったのは、何と言う皮肉だろう。
彼は、半兵衛の代わりに夢を叶えるために生きているわけではない。
秀吉が秀吉として、その夢を手にしたいと思ったからだ。そこにある感情は彼にしか分からない彼だけの気持ち。どれ程半兵衛が推し量ろうとも想像しようとも、それは半兵衛が考えたものでしかない。
そんな、当たり前の事だったのに。ずっと忘れていた――。
「……すまない。幸村君」
「え? あ、あの」
「いいんだ。分かっている。本人には到底言えないから、今だけ頼むよ」
不意に弟の名で呼ばれた信幸は、困惑気味に半兵衛を見返す。半兵衛は頭を垂れて、ごめん、と重ねた。
信幸は居心地悪そうに周りにいる者達を順々見回すが、元親は肩を竦めて苦笑するだけで、忠勝は勿論沈黙を続けている。元就と目が合うと、聞いてやれとでも言いたげな不思議な表情に迎えられてしまった。
白い鉢巻をしていた幸村と違って、信幸は真田幸村として振舞っていた時と同じ、綺麗に染め抜かれた赤の鉢巻を巻いている。元就も半兵衛も、それだけで彼が幸村ではないことを悟っていた。けれどやはり何処となく陰りがある目をして、表情の起伏の幅が少ないため、本質も似た兄弟なのだと重ねて見てしまう。
彼らを同一の存在として見ることがどれだけ罪深いのか分かってはいたが、意識するのは元就も半兵衛も幸村の面影を追いかけているからか。
「くだらない事なんかじゃないね。とても大事だった。僕は君を嘲笑いながら自分を笑っていたんだ。そうすることで、正面から向き合うことをきっと避けていたんだ」
二人っきりで普通に話したただ一度の機会を思い起こしながら、半兵衛は何処までいっても真っ直ぐだった幸村に謝罪を繰り返す。これも自分を慰めるだけの虚しい行為だと分かっていたが、素直な気持ちにならなければ秀吉にどの面提げて会えば良いというのだろう。
寂しいから覚えていてほしいと、きちんと言えば良かった。
君の辛さも優しさも忘れないよと、伝えていれば良かった。
秀吉が自分を忘れるだなんてどうして思えたのだろう。唯一無二の親友を信じられないなんて、一体他の何を信じればいいのだ。
彼は一度も切り捨てることなく、夢を馬鹿にして笑い飛ばすこともなく、ずっと己の事を信頼してくれていたというのに。それを知っていたはずなのに――。
幸村が羨ましくて、嫌いだったのは、これからも生きていける可能性を持っているからではない。元就の瞳を奪われたからでもない。
あの、自分を偽らずに妄信的なほど真っ直ぐと心を向けられる虎の心があったからだ。
「ごめん……秀吉……」
「何を謝る事があろうか半兵衛よ」
惨めな自分の狭い心を鑑みて泣き出しそうに歪んだ声音に、奥から慰めの言葉が投げ掛けられた。
反射的に身を竦めた半兵衛の肩に、大きな掌が乗せられる。激戦に傷付いた指先は、友を案じる仄かな優しさに満ちていた。
「お前は身を粉にしてずっと尽くしてくれていたではないか。我の方こそ、謝罪せねばならぬまい」
恐る恐る顔を上げた半兵衛は、疲弊していながらも困ったように眉を寄せた秀吉の不器用な笑顔と出会う。
奥からもう一人分の高らかな声が聞こえた。
「やったぞ忠勝ーっ!!」
ずたぼろになりながら満面の笑顔を浮かべた少年が、黒金の鎧に抱き付いた。歓声を上げるように忠勝は唸り声を上げて、天高く響き渡った。それを聞き付けた徳川軍は勝鬨を精一杯振り絞り、静まっていた辺りが俄かに騒がしくなる。
元親に揉みくちゃにされ、信幸に賛辞されながら、天下を手に入れた家康は見ている者までもが嬉しくなりそうなくらいに号泣しながら笑っていた。
「すまぬ半兵衛。お前に支えてもらった明日への道、繋げなかった。あの小僧の語った未来もまた、善きものとして見たくなってしまったのだ……」
「いいんだ。もういいんだよ。……ありがとう秀吉。ありがとうっ!」
秀吉もそれを見て溜息を付くだけで、悔いは残った様子は何処にもなく。ただ彼が無事だったことで満足してしまう自分に気付いた半兵衛もまた、泣きながら微笑んだ。
夢は破れてしまったけれど。生まれ変われたかのように、晴れやかな気分でいられた。
輪から離れて、元就は小さく口元を緩める。それから視線を逸らし、大阪城に影を落とす斜陽の輝きに一人祈った。
――全てが終わった。どうか、自由に生きて。
何処かできっと生きているだろう男を思い浮かべて、元就は切なく震えようとする柔い部分を見ないようにすぐさま踵を返そうとした。
ちゃり、と手首に巻いた物が音を立てる。帰ったら琵琶を弾こうか。本当に出家してもいいかもしれないと元就は考えて、夕陽から顔を逸らしかけた。
「――間に合って、良かった」
視界の端に、夕焼けに染まった白い布が掠めた。階段を上ることで徐々に近付いてくるそれに、驚き固まった元就は瞠目する。
半兵衛の言葉を信じなかったものの、不安は無論あった。だけど生きている事よりも、どうして此処にいるのか何故帰らなかったのかという当惑だけが心を支配していく。
しかしそれとは裏腹に、彼の目元にもまた熱い雫が込み上げてくる。意図を察しただろう相手は斜陽を背にはにかみながら、両腕を元就へと伸ばした。
ふらふらと憶測の無い足取りで階段を一段、二段と降りる。
指先が触れそうになった瞬間、ふっ切れた笑顔で幸村は思いの丈をようやく出会えた人へと告げた。
自分だけの真実。
そして、元就が諦めかけた真実の言の葉を。
「俺の居場所は元就殿の隣ですから!」
全てを取り戻した彼自身の口から、同じ想いを聞いてしまえばもう耐えられなかった。転ぶように元就は幸村に抱き付いて、幸村ももう何処にも放さないときつくきつく抱き締めた。
歓喜に咽ぶ騒ぎの中で、二人もまた苦しいくらいの抱擁を交し合う。
斜陽に沈むこの瞬間、確かに世界は輝きに満ち溢れていた。
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(2009/07/02)
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