07 斜陽の後でもう一度
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乾いた咳を繰り返す元就を無理やりに輿へと押し込めた元親は、瀬戸内の軍勢を率いて大阪へと向かっていた。
一人暮らしが祟ったのか元就の具合は色好くないようで、本来ならば出陣も躊躇うところだ。しかし元親には彼の提案した策を巧く指示できる自信がなく、総大将として構えていなければならなかったため、どうしても軍師の存在は必要不可欠であった。
だからこそ我を呼び戻したのだろう、と気遣ってくる元親へ元就は呆れたような口振りで溜息を吐いていた。全く持ってその通りであるが、体調の事が心配なのは本心だ。だからこそ元親は輿を用意するよう毛利に口裏を合わせ、侍医も同行させるよう頼んでおいた。
現在毛利の本隊は吉川元春が、水軍は小早川隆景が総括している。内政は残してきた譜代達と他の弟達に任せて、二人は毛利の現当主である幸鶴丸の名代として毛利軍の大将を務めていた。
故に彼らが元親に賛同してしまえば、元就も反論できなくなる。
今頃御簾の向こうでは、端整な顔を不機嫌に歪めた男が暇つぶしのように謀略を張り巡らせていることだろう。
様になっている姿を思い浮かべては、楽しくなってきたと元親は呟く。
けれど、元就に対して燻っている疑念は一向に晴れてはくれない。
疑いというよりも不安というのが正確だろうか。これほどまでに顕著な第六感を、国主であり船乗りとして無視できない。
ともかく肝に銘じてようと元親は己に刻む。
朝霧に囲まれた海の向こうに、ぼんやりと黒い影が見え始める。陸路の兵達にもそろそろ遠目に見える頃合だろうか。
巨大な覇王の城の天守。あれを討たねば望まぬ偽りの泰平がやって来る。
――そんなもの、認められない。
「野朗共、大阪は目前だ。徳川と合流しつつ、俺らの海を荒らしてくれた豊臣を今度こそぶっ潰すぜ!」
鬨の声が一斉に上がり、元親は甲板でこの挟撃に乗ってくれた小さな友人の姿を思い描いてみた。辛苦に耐え忍び世を終わらせて、きっと彼は温かな国を創ってくれると元親は信じている。
叶うのならば――寂しい心を持て余す元就が、熱を与えてくれた誰かと再び暮らせるような優しい世界となって欲しかった。
じりじりと迫り来る徳川の大軍に、合わせたような瀬戸内の挙兵。弱体化させたはずの毛利がまさかの裏切りは、半兵衛に一つの事実を突き付けてくる。豊臣に抵抗できぬはずの毛利がこの時期に反旗を翻した。
それが意味するのは、元就が奪い返されただろう事。
長曾我部が毛利を引き連れている形であるから、表向きは徳川と通じていた長曾我部と共に今まで散々搾取し続けた仇を返すように見える。秀吉もそう考えているだろう。
だが半兵衛は知っている。否、半兵衛しか知り得ないのだ。
元就を秘密裏に閉じ込めていたからこそ、織田との戦いの間に毛利は動いた。彼らが真に元就との和解をしようと思い奪い返そうと狙いのならば、半兵衛が確実に不在であるこの機会を逃すはずが無い。
甘言で絡めて、元就を毛利から引き剥がすことには成功したが、半兵衛はずっといつか彼が戻っていってしまうのではと思っていた。
長い戦で不在になるから、元就を盾にして幸村を駒に仕立て上げたが、本当は逆に幸村を側に置くことで元就に鎖を付けている意味もあった。
二人の歪な依存関係は、幸村がきっぱりと言い切ったように今更愚問なのである。似たような拠り所として元就を想っていた半兵衛にとって聞かずとも分かるからこそ、彼は二人を引き離しながら互いを枷にした。尚且つ戦いを無意識に求めてしまう幸村を戦場に縛り付けてしまえば、或いは元就の事を忘れてくれるのではという甘い考えもあった。
――そんな簡単に忘却できるなら、端から追い求めようともしないだろうと薄々ながら分かっていたけれど。
だがその幸村は徳川の波に呑まれて消えた。無事に大阪まで辿り着けたのだから、彼の働きは上々といったところか。
幸村が率先していた兵士達は、死地に一人で残される大将を何故助けに行ってはならぬのかと半兵衛へ何度も直訴している。彼らの気持ちは察せたが、これ以上幸村へと傾倒されては秀吉への忠誠が揺らぎかねない懸念もあり、半兵衛が彼を殿に残した本当の理由を悟られるわけにもいかずもっともらしい言い訳を重ねた。
彼らは、幸村を捨て駒にした事実をしれば反旗を翻すだろうか。
――幸村を庇おうとしていた元就がその死を知れば、どんな顔をするのだろうか。
「……考えても詮無きこと、か」
自分の手元にもう元就はいないという事実は変わらない。
再び彼を追い求めるには、もう半兵衛の時間が少な過ぎる。目の前で揺らがされている豊臣の未来があるのならば、それを支えるのが何よりも最優先だった。
襲い掛かる震えに必死で耐えながら、半兵衛は彼がやって来るであろう西の空を仰ぎ見た。
「半兵衛よ、布陣を終えた。お前はどうする気だ」
身を蝕む病が急激に侵攻している半兵衛を気遣い、秀吉は少しだけ緊張した声でその背に語りかける。最近一段と気薄になり、退中でもぼんやりと遠くを見ていることの多くなった。しかし半兵衛はそれでも隠しているつもりであったから、なるべく秀吉は素知らぬ顔を続けたまま彼に気付かれないように努めていた。
でも多分、知っているのだろうとも思う。
ゆらりと視線を秀吉に定めた半兵衛は、困ったように笑んで首を縦に振る。
「徳川は真っ直ぐとここへ来るだろう。僕は邪魔が入らないよう長曾我部と毛利を抑える」
「……大丈夫なのか」
最近では前線に立つことも滅多に無くなった半兵衛への問いかけは、柔らかな眼差しで黙殺された。
どれだけ立派な兵隊を作り上げても、それは唐突として砂の楼閣のように崩れ去っていくのが戦乱の常だ。壊れ掛けのこの身体でもまだ戦場に立てるのだから、戦力として数えなければ手に入るかもしれない勝機も見えてこないだろう。
焦燥した頭でそう考えて、半兵衛は何だか可笑しくなった。
無自覚の孤独に佇む元就は自分と似ているような気がして、だからこそ選んだはずだったのに、最近では自分の方が元就に似てきてしまっているのではないかと思う。
貪欲なまでに勝利を求めるのは、守るものが――自分の居場所が、奪われぬようにともがくからか。
「行こう、秀吉。僕らの夢はもうすぐだ」
強い国を作り上げて、いつの日か来るであろう外からの脅威にも立ち向かえるように。理不尽な戦火に呑まれて失われていくものが二度と無いように。
高く掲げた理想の叶う瞬間を、きっと自分は見られないのだろうと半兵衛は知っていた。死への恐怖を埋めるための存在は、もう側にいない。一人で床に沈む余生を思い浮かべると堪らなくなって、せめて武士として戦場に散りたくもあったが、今の状況はそれを許しはしないだろう。
――元就は幸村を犬死させた己を、その手で殺してくれるのだろうか。
望んではならない願いを密かに胸に圧し込めると、半兵衛は秀吉を促して歩き出した。
全てはこの戦いで決まる。ただそれだけは確実なことだろう。
+ + + + +
大阪の東西にて激しい合戦が幾度も繰り返された。
東側は徳川の大軍が押し寄せていたが、豊臣もそちらに殆どの軍勢を投下していて総力戦でありながら拮抗し続けた。お互いの理想のために戦い合う彼らの戦いは、後の世でも華々しく謳われるほど力強いものだった。
一方の西側も派手さにはかけていたが、裏では見えない謀略戦が幾度となく行なわれていた。
毛利水軍の強さは、彼らから指導を受けていた豊臣の水軍達は皆知っていたから接岸は容易かった。そこから長曾我部の船も斬り込み、現在は陸で元親自ら前線に立って味方を鼓舞しながら前進を続けている。
徳川に比べて数の少ない長曾我部と毛利は、一兵たりとも無駄にはできない。そのため元就の策は慎重を要し、自軍諸共を巻き添えにすることはまだ一度もなかった。
やればできるじゃねえか、と元親は過去の戦いを思い出して憤慨気味に叫んだが、やはり元就は優しくなったのだと自然と笑みが零れた。
この戦場からやや離れたところに張られた毛利の本陣で、元就は采配を握り次々と下知を飛ばしながら半兵衛との知略を競い合っていることだろう。
愛用していた輪刀さえも彼の萎えてしまった腕力では握れなくなり、それを見たときの元親は言葉にならない悲哀を覚えた。
半兵衛に閉じ込められていた日数を鑑みれば当たり前でもあったが、それよりも元親を震撼させたのはずっと気に掛かっていた違和感の正体だった。
風邪とは違う命を削るような咳き込みが何なのか、ようやく元親は思い出していた。
元親の弟もまたあの咳を繰り返して、何度か血を吐いている。病名を知った時の絶望といったらなかったが、極力戦には出ないように命じて療養させているから今も国許で辛うじて元気にしている。
もしも元就があの病にかかっているのならば、精神さえも疲弊させるこんな場所から一刻も早く下がるべきだ。しかし元親にはどうしても問い質せる勇気が足りなかった。
元就は既に知っていて、それでも戦うことを決めているのだろう。
彼の決意を無下にするなど元親にはできない。囚われていながらも、大切な誰かを待っていた安穏の日々から元就を連れ出したのは自分だ。今更戦うなどとどの口が言えようか。
それに、元就がいなければ半兵衛と渡り合うことは難しいだろう現実もある。並々ならぬ因縁のある二人は、お互いを遠くに置きながら凄まじいまで意識している。だが不思議なことに彼らの間には憎しみが存在せず、自らの我儘を振りかざそうとする幼気にも似た何かしらの決意だけがぶつかり合っていた。
当事者ではない自分には入れぬものがある。だからこそ元親もまた、今は元就の事よりも自分自身のために戦わなくてはならないのだ。
「兄貴っ家康さんが大門を突破したってよ! 俺らも波に乗ろうぜ!」
「おうよ!」
友人の奮闘を聞き付けて元親は碇槍に足をかけると、秀吉のいる城を仰ぎ見た。
あくまで元親の狙いは山の大将。だが半兵衛は、ここを通すほど軟な相手ではない。元就の件もあってすまし顔の軍師に一発殴ってやりたかった元親は、突破口を開くべく、西門を守るように張られた陣へと碇槍を走らせるのだった。
「元就様、長曾我部が間もなく竹中軍本陣へ到達する模様です」
「隙を見て伏兵を動かせ。竹中は我らが抑える。徳川の勢いに長曾我部の士気も上がっておる今が時だ」
布陣図を采配で指し示しながら命を下す父を見ている隆景は、側の天幕にいる侍医から元就の容態を聞いて、先程まで顔を青くしていた。その時は兄の元春も一緒であったからどうにか狼狽しなかったが、元就を蝕んでいる何かの正体に愕然としたのは二人とも同じだった。
まだ軽度の進行状況だというが、紛れも無く死病である。
豊臣軍に従事していた時に半兵衛が零していた咳に気付いていた兄弟は、彼が何故元就を欲したのか、何処で何をさせていたのかある程度想像がついてしまい自分達の愚かな決断に本気で嘆いた。
あの男の心中相手として父を差し出してしまったなど、嘘だと思いたかった。
出陣の前に亡き兄の隆元の墓前で佇んでいた元就は、自嘲を浮かべて独り言を呟いていたことがある。
身を巣食う鷲はお前をも殺し、自らをも殺すだろうから――せめてあれにだけは生き長らえてもらいたい。お前に似ているくらい真っ直ぐで、馬鹿な男だが、我は――。
誰かを思い出した横顔は、こちらがはっとさせられるような切なさに滲んでいた。
隆景は元親から古寺の様子を聞いていて、思わず勝一にも問い質していた。彼は多くを語ってはくれなかったが元就が毛利以外に何かとても大切な存在を見つけていたのは、言葉の端々から窺い取れた。
元就の部屋にぽつんと飾られていたあの琵琶の本当の持ち主が、きっとそうなのだろうと隆景は思う。
墓前で聞いた呟きや病を自覚していながら采配を握るその眼差しが見ているのは、ただ純粋な想いだけ。それが何とも気高く美しく――慕う人と死に別れても悔いはないと虚勢を張ろうとする強さが、酷く哀しかった。
「父上、どうしても行かれるのですか」
「……結末をこの目で確かめたい」
床机から腰を上げた元就は懐から、白木で作られた守り刀を取り出して目を伏せる。握れる獲物はこれ一つと采配のみ。だが、不安な気持ちは湧き上らない。
本陣を隆景に任せると、元就は小隊を連れて長曾我部が敵を退けた道を駆けていく。
渾身の力を篭めて手綱を握るその手首には、六文銭が揺れていた。
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(2009/07/02)
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