07 斜陽の後でもう一度
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失意に打ちひしがれながら、そのまま佐助に武田の残党が暮らす集落へと幸村は連れてこられた。
あれっきり口を閉ざしたまま、相槌以外を返してくれない主にほとほと困っていた佐助は最後の望みを信玄に託してみる。幸村が謁見する事前に、今の彼の様子と無事を確認した信幸の安否を伝えてから、佐助はそっと影に消えた。
音もなく開かれた戸の向こうから、薄暗い表情をした幸村が現れる。
成る程、と信玄は悟られぬよう小さく眉を顰めた。
「久方ぶりだのう、幸村よ」
「はっ……御無事で何よりでございますお館様」
佐助や信幸と再会した時はあれほどさざめいた心が、敬愛する主君を目の前にしても微塵とも動かない己に気付いてしまい幸村は瞼を重く伏せる。
言葉以上に無感動な暗い表情を眺めながら、床に伏せていた信玄はゆっくりと身体を起こす。慌てた幸村は一瞬躊躇するものの、まだ辛そうにしている主をそっと介助した。
確かに、死んでしまったとばかり思っていた幸村の大切な人々は生きていた。だがそれぞれが深手を負っていて、長篠の激戦が生み出した悲劇の重さを十分に感じられる。
そんな中で一人逃げ出してしまった己へと自責の念が湧き立たぬわけではないが、繰り返した悔恨の日々は既に過去と成り得ていた。
他ならぬ居場所ができたからだ。
けれど幸村は、繋いだ手をみすみす放してしまった。別れの前の日に忘れぬよう覚えていたいと乞われたのはこちらだったというのに、結局今では無様にも刻まれた記憶に縋っているのは自分。
――元就は、思い出を糧にしてくれているだろうか。
「おぬしに伝えたかった事は様々であったが、一寸先に言わねばならんことができた。歯を食い縛っておれ」
「お館様? 何を――っっ!?」
何かを思案していた信玄は不意に納得した様子で頷くと、近付いていた幸村の顔へと容赦なく拳をめり込ませた。
重傷を抱えているから吹き飛ぶばなかったものの、幸村は床へと勢いよく倒れこみ、久しぶりの心地良い痛みに目を白黒させながら信玄を仰ぎ見た。
布団の上にいながらにして感じ取れるのは甲斐の虎と呼ぶに相応しき、衰えを知らぬ威圧感。自分が纏うには不相応だとずっと思っていた猛々しき真の焔が立ち上っているように見えてしまい、幸村は縮こまるように体勢を直してから深々と頭を垂れた。
幸村は知らない。彼自身もまた、信玄には引けを取らぬほどの重圧を戦場にて敵味方問わずに与えていたことを。その起因たる大事な存在が失せてしまった今、彼は突然の吹雪の中に取り残されたかのような心細い寒さの中で耐え忍ぶ小さな灯火だった。
微かな悲哀を秘めて、信玄はそんな彼を眺める。
こんな風に暗い表情する子供を見たのは、初めてではなかった。武田家に人質としてやってきた信幸が、やがて幸村の影として歩む道を見せられた時に虚ろな目をしていたことをよく覚えている。
きっと佐助が間に入って取り成し、幸村が兄に対して誠実でなければ、信幸はずっとそんな目をして幸村を呪い殺そうと考えるまで追い詰められたに違いない。
――そんな世界を恨むような眼差しを、今は幸村が抱えている。
歪な兄弟の皹を広げる真似しかできなかった己には、本当の意味で彼を救えないだろうと信玄は分かっている。信幸が自分自身の答えを見つけた上で乗り越えたように、幸村も一人で決めなければならないだろう。
佐助から伝え聞いた限り、幸村が――ただの真田幸村として出会った掛け替えのない存在を誰よりも求めているのならば、こんな場所にいる場合ではないのだ。
初めて自分自身で決意した真実の形を、黙って失うには早過ぎる。
「儂にそのような顔をして会いに来る前に、おぬしにはやるべき事があるのではないのか」
「お、お館様、しかし某は!」
「己の虎たる魂を忘れるな、幸村」
狼狽して声を震わせた幸村へ、先程までとは一変して穏やかな口調で紡ぐ。
――長篠にて信幸から受け賜わった信玄の言葉。
それを課せられた責任だと感じて必死で背負いながら無様に生きてきたと思っている幸村にとって、告げられた信玄の真意は予想外であった。
「おぬし自身が輝かせてきた心は、何を見出した? その真実こそがおぬしの持つ誇り高き虎の正体のはず。それは幾度の喪失があろうとも、失わぬ焔ではないのか」
「……お館様」
虎は本来孤高の生き物。
信玄が自分で決めて、今日まで生き抜いてきたからこそ武田はある。甲斐の虎が選んだのは、逞しい人々の中で共に戦い、泰平を成す世。暁の如き焔を燃やして乱世に光を当てようと望んだ。
ならば、自分は。
真田幸村は炎と虎の御魂を受け継いで、何を成そうと自ら決めただろう。
――きっかけは、寂しさを埋め合わせるために始まった歪な恋心。
だけど小さな灯火がもたらした熱がくべられて再び焔は滾り始め、醜き獣と成り果て様とも願う想いは変わらず。天下を目指す野望が満ち溢れる世界の中ではとてもささやか過ぎるものだとしても、幸村には最も大事な約束。
失意に呑まれず信じ続けていれば、信玄達との再会はもっと容易だったのかもしれないと此処に来るまで何度も思った。二度と諦める事はしたくないと、思ったではないか。
幸村は自分自身へと語り掛け、怯えて震えていた心の奥に隠れているちっぽけな灯篭を取り出す。誰の道も照らせないと嘆き、元就の火を移して貰いながら細々と消えずにいた明かり。
それが、寂しさに脅かされる闇の中に浮かぶ星のように、ぽつんといつまでも燃えているのは何故。周りに温めてくれる人々が帰って来た今でさえ、行く先を導いてくれるかのようにそこにあるのは、何故。
「某は……俺、は」
それは、諦め切れていないから。
元就ともう一度出会うために旅立った。自分の我儘な道を歩くため、立ちはだかる者全てを敵にしたとしても戦う事を選び抜いた。それは全て幸村の見出した真実のために――。
迷っていたのが不思議なくらい、答えなんて最初から己の内側に存在しているではないか。
俯いていた幸村は拳を握り締めて、喪失感に打ち震えることしかできなかった弱い自分を叱咤する。弱さを知るからこそ人は強くなりえる。寂しさの意味を知らなかった元就にそう教えたのは、他ならぬ己ではなかったのかと、惨めなくらいに憤りを覚えた。
たとえこの身がどんなに傷付こうが、世界がどれ程自分に冷たく当たろうが、元就の隣で生きていきたいと願ったのは幸村が一人で決めた事実。彼の側にいることが結果的に不幸だと誰彼も言おうと、揺ぎ無い意思を捧げたではないか。
それを自分自身で否定して、彼を求めるのを諦めてしまうのならば、元就から貰い続けていた想いさえ偽りだと認めるしまうことになる。
そんな事許せない。
繋がれたあの掌は、決して幻なんかじゃないのだから。
「真田幸村が望むのは、何だ?」
念を押すような最後の問い掛けから、今度こそ幸村は目を逸らさなかった。
真っ直ぐと、盲目になりながらも元就だけをずっと見つめ続けてきた愚直な眼差しで己がかつての主君を射抜く。
幸村の中で最も尊き師であった人。守るべき相手であった兄よりも、忠節を誓ってきた信玄を前にしながらも、彼を選ばぬ罪深き己がいる。だがもう告げる言葉に迷いはなかった。
此処にいるのは武田の“真田幸村”ではなく、影に怯えていた子供の源二郎でもなく――元就が望んでくれた幸村という名の紅蓮に燃える華。
「俺は、あの方に逢いたい!」
申し訳なさに頭を深く垂れた幸村の項から、白い布が零れ落ちていく。泥に汚れながらも汗に濡れながらも、身体中が血に染められて闇に沈んでいたとしても、我武者羅に守り続けていた白色だけが胸の内で照らし続けてくれる星のように、一片の曇りもなく幸村の心を映していた。
吐き出された幸村の本音に、信玄は笑った。ようやく我儘を口にしてくれた子供に目尻には歓喜が浮かんでいたが、気付くのは影で見守り続けている忍のみ。
「ならば最後まで足掻いてみせい! 愚図っておる場合ではなかろう!」
嗚咽を漏らして泣きじゃくる男に、信玄は叱咤激励を込めて奮然たる声を腹の底から出す。雄々しく戦場を駆け抜けていた日々が蘇り、幸村は涙を堪えながらも大声で返事をした。
「はいっお館様っ!」
「幸村ぁ!」
「お館様ぁっ!」
「幸村ああぁぁ!!」
「お館さまああぁぁぁ!!」
懐かしき呼び掛けの応酬の後で、幸村は微笑んだ。
行って参りますと帰って来た時とは打って変わった晴れやかな相貌で、深々と信玄に礼をする。立ち上がって部屋を出て行くその背中は、広く悠然とした堂々たるもの。
手掛かりは完全に消えたわけではない。閉じ込められていた元就に拘っていたのは、自分の他にもう一人いる。彼の手中に囚われているのならば助け出す。そうでないのならば、旅を続けるまでだ。
目指すべき場所は大阪。
そこで天下も、自分の行く末も見届けられるはずだ――。
信玄は去っていった幸村を眩しげに見送る。最後に会った時よりのあの背中は随分と大きくなり頼もしさを感じる反面、巣立つ子への一抹の寂しさがほんの少しだけ込み上げた。
「……子供は知らぬ内に育つものよな」
「大将ってば、すっかり老け込んだ物言いじゃないですか。まだまだ現役でしょ?」
「ふふ、わしも随分老いたわい。若人の作る世が、楽しみで仕方ないくらいにはな」
現れた佐助の手を借りて床に戻った信玄は、駆け出していってしまった虎の子を思う。
兄の影として泣いていた子供。手を伸ばしてみれば、今度は兄を影として泣いてしまった子。不器用な自分にはあやし方が分からないまま、彼には重き荷を無意識の内に背負わせてしまっていたことをずっと悔やんでいた。
けれどそれを無かったことにはできなく。無かったことにもする気はない。
幸村も、信幸も、過去を受け入れた上で自分自身が決めた道を歩き出したのだから。
「佐助、幸村と信幸を頼む。……おぬしも、無事でな」
「了解ですよ。俺も、自分で見出した道ですからね」
忍という影の者でありながら、佐助を佐助として見てくれた主君がいた。佐助の存在を認めてくれた人がいた。
だからこそ、彼もまた自分で決めた道を行ける。
――幸村が生きている限り、そうして生まれた佐助の存在意義もまた生き続けるのだから。
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(2009/07/01)
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