06 猛る焔は星を追えず


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 誰かに名を呼ばれたような気がして、幸村はゆっくりと意識を浮上させた。
 重苦しい瞼をどうにか引き上げながらぶれる焦点を合わせていくと、心配そうな顔付きでこちらを覗き込んでいる忍がいた。
 さすけ、としゃがれた声音を無理やり絞り出すと、喉が引き攣った。
 激しい咳き込みを繰り返す幸村に、佐助は慌てて水を含ませる。
 軽く脱水症状が出ていたのか温い水でも十分なくらい美味く感じられ、乾いていた唇も潤いを取り戻す。一気に飲み干してから舌で口の周りを舐め取ると、ようやく落ち着いた。

「解熱剤と痛み止めも後で飲んでくれ。弾は一応全部取ったから平気だろ。何か他に質問ある?」
「ここは一体……」

 早口で説明してくれる佐助の声を聞きながら見回してみれば、陣幕と篝火が目に入った。
 立つ旗色は葵の紋。ならばここは徳川の陣中であるのだろう。
 雨も既に止んでいる。視線を地面へと降ろしていけば、乾いた土が目に入った。丸一日以上経っているのかもしれない。
 そういえば、と最後に抱き締めた存在に気付いた幸村は顔色を変える。
 予想していただろう佐助は両手を挙げて肩を竦めた。

「兄上様も此処にいるぜ。ほーんと間に合って良かった。本田忠勝に感謝しないとね」

 佐助が苦笑いを浮かべて視線を逸らした。つられてそちらを見れば、陣幕の奥に突き出た体躯が薄っすらと照らし出されている。
 向こう側の天幕に信幸が寝かされているのだと佐助は説明した。
 何でも、長篠の戦いで受けた傷は相当根深くて本来ならば戦場へ連れてくることも医者は止めていたのだという。だから一度は三河に置いて来たのだが、幸村が現れたことを聞いて忠勝は信幸を連れてくるため天を駆け抜けていったという。

「一旦大将のところへ帰ったら信幸様が徳川に保護されているって情報が入っていてさ。その頃には徳川は随分と進軍しちまっていたし、織田は滅んじまったしで、俺様まじ焦ったんだぜ?」
「すまぬ……某が勝手をしたから、佐助にも兄上にも苦労をかけてしまった」

 きっと天幕の中で治療を受けているだろう兄を思い、幸村は俯いた。
 自分とて以前よりも痩せてしまってはいたが、触れた兄の身体はそれ以上に細くなっていた。薄着を纏った腕には包帯が生々しく浮かび上がっていた。
 それでも片時も放せずに幸村の槍を持っていたのは、再会を信じていたからこそか。己は形見だと思いながら握り締めていたが、ずっと兄は自分へと託した願いを信じながら生きてきたのだろう。

 あの戦いの中、真田幸村の影として攻撃を受け続けていた信幸は瀕死の状態で忠勝に拾われた。
 家康が武田の将は出来る限り助けろと秘密裏の命を広めていたおかげもあったが、信幸の魂を削るような戦い方に忠勝自身が反応したためでもある。
 最後に忠勝と対峙した時点でとうとう意識を失った信幸は、そのまま大きな手で庇われるようにして運ばれたため、織田勢には悟られずに済んだらしい。この時、最後まで利き手で握っていた槍だけはどう剥がそうとも離れることがなかったという。
 倒れてもなお“真田幸村”であろうとした信幸の強さが切ない。
 どうにか佐助に頼み込み、隣の天幕へと足を運んだ。
 天幕の側ではまるで信幸を守ってくれているかのように、黒金の鎧が静かに傅いている。

「忠勝殿、感謝致す」

 眠っているのか反応のない忠勝に一礼をした幸村は、恐る恐る中を覗いた。
 長篠から半年程過ぎていたが、治療が遅れたせいか信幸の身体の回復は酷く遅いのだと佐助は眉を顰めた。銃弾を全身に埋め込まれてそのまま長時間戦い続けたため、鉛の毒が体内に入り込んだ弊害も軽い症状ではあるが起きているらしい。
 一日中静かにしていれば問題が無いが、健康的な幸村と違って時折微熱で寝込んむこともあった信幸には少々辛い日もあるようだ。
 けれど命に別状はないし、日常生活で支障をきたす様なことも今のところは無いのだという。それがせめてもの救いだった。

「おう、真田幸村か。傷はどうだ?」
「家康殿……申し訳ござらぬ。お館様や兄上を助けて頂いた恩人に刃を向けるような真似を」
「信玄公にも信幸にも頼まれていたからな。気に病まなくていい。殿に一人で立たされていた所を見るに、おめえは豊臣に強制されていただけだろう?」

 同じように見舞いに来たのだろう家康は、深々と頭を下げた幸村に向かって朗らかな笑みを浮かべた。
 信玄との、そして信幸との約束が果たされ、残すところは己が望む天下のみである。肩の荷が少しだけ下りて気が安らいだのだろう。
 唯一の懸念であった挟撃の策も、雨のせいか豊臣が途中の城で一度歩みを止めたおかげで間に合いそうだった。大阪入りされても、体勢が整うまでに追い付けるだろう。
 しかし和やかな空気が流れていく中、家康の言葉を聞いて幸村は顔を強張らせた。
 此処で休んでいるわけにはいかないのだ。
 待っている人が、いる。

「家康殿、どうか兄上をお頼み申す。某、行かねばなりませぬ」
「旦那……迎えに行くって言っていた人の所に?」

 無言で頷いた幸村は、家康に一礼して眠る兄をじっと眺めた。本当ならば離れ難かったが、自分の一番はもう彼ではない。罪悪感に駆られながら守ることを何より信幸本人が断った。自分の足で行くのだと送り出したのは、他ならぬ兄だったから。きっと側にいなくとも許してくれるだろう。
 義理堅き徳川にいるのならば決して悪いようにはされないはずだ。信玄の事を同じように敬ってくれている家康だからこそ、言葉はなくとも信幸をきっと大切に思っているだろう忠勝がいるからこそ。
 死への恐怖は払拭されたが、まだ幸村の焦燥感は消えていない。
 大好きなあの人の手を連れて、今度こそ半兵衛の妄執の檻から抜け出さなければ永遠にこの虞は拭えぬだろう。
 一人は寂しいから二人でいようと、寒々しい闇の中で交わした稚拙で愛しい想いを今度こそ本当に叶えなければ――。


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 別れの朝は雪が降っていた同じ山道に胸の高まりを隠せず、歩調も考えずに幸村はひたすら駆け上がる。
 残雪に何度も足を取られそうになりながら、あの日初めて降っていった石畳が妙に長く感じられた。
 下で待たせている馬の嘶きが遠くなり、懐かしき朽ちた門構えが近付いてくる。弾む息に心配そうな佐助が声をかけてきたが、手助けを断って自分の足で登り続けていった。

 とても長かった。
 冬の始まりは当の昔。暦は既に春を刻み始めている。豊臣の陣中で歳を越し、ただ無心に戦い続けて一つの季節が過ぎた。
 春が来て初夏になれば出会えてからちょうど一年が巡るのだと、何だか哀しげに呟いていた元就の横顔が過ぎり、彼が感じていた得体の知れない不安感を早く払拭させてあげたいと、幸村の心は無性に急ぐばかりだ。
 身体を壊していないだろうか。
 一人で泣いておられないだろうか。
 ――自分をまだ、想っていてくれているだろうか。
 会いたい会いたいと願い続けてきた夢が、ついに現実となるのだと思うと沸き立つ気持ちを抑え切れない。
 彼が好きだと言ってくれた笑顔はきっとあの時よりもいくらかましになったはずだ。喪った者を取り戻せたのだと告げれば、喜んでくれるのか哀しんでくれるのかは正直分からなかったけれど。
 失くした人達が帰ってきた今でも、依存心から生まれたはずの歪んだ想いは形を変えずに燻っている。むしろ離れていた分だけ狂わしい程の情欲が膨らみ続けて、二度と出会う前に戻ることなど叶うまい。
 元就を慕っていることを、万が一周りの人間が受け入れられないというのならば――約束した夢物語のように彼の手を引いて何処か遠くへ逃げようと、もう幸村は決めていた。
 誰の言葉があっても揺るぐことはない。
 元就の側にいられるのであれば、何処であろうとも自分にとって唯一無二の居場所なのだから。

「只今戻りました、元就殿っ!」

 境内に入り、焦りを抑えながら一直線に庭へと向かう。
 母屋の何処にいても聞こえるようにと精一杯声を張り上げた。知らずの内に笑みが零れ、幸村は自身の顔が上気しているだろうと少しだけ恥ずかしくなる。
 急いで登ってきたのかときっと笑われてしまうだろうけれど、そんな些細なやり取りも懐かしくあり期待が膨らんでいく。

 ――なのに。
 返事は、一向に返ってこなかった。

「……元就殿?」

 開け放たれたままがらんとしている室内には、人の気配がしない。
 幸村はもう一度愛しい人の名前を呼びかけてみたものの、虚しく反響するばかりで誰かが出てくる様子もなかった。
 愕然としている幸村の後ろに、寺の様子を歩いて見回っていた佐助が帰ってきた。

「旦那、本当に此処に人が住んでいるのか? 本堂からざっと見てきたが、生活している感じはしなかったぜ。最近まで誰かがいたのは確かみたいだけど」
「……日頼、殿?」

 ふらりと憶測の無い足取りで濡縁へ上がった幸村は、迷いの無い足取りである部屋へと入っていく。慌てて佐助はそれを追いかけた。
 何てことはない普通の客間だ。古びてはいるが、寝起きするには申し分ないだろう。幸村は、その部屋の隅に寄せられていた文机をじっと見下ろしていた。
 埃をかぶっている板の上には、何かが乗せてあった形跡が残されている。それなりに大きい物が飾られていたようだ。

「……無い……」

 緩慢な動作で何かを探す幸村は、弱々しく呟くたびに徐々に蒼白になっていく。夢遊病者のようにふらふらと母屋を巡りながら一部屋ずつ覗き込む姿に、佐助の背中に冷たい物が背筋を這っていく。
 先程まで精彩を帯びていた焦げ茶の瞳は、光を打ち砕かれたように生気を失い黒々としていく。誰かの存在を必死に強請る迷子が、涙混じりの悲痛な声を上げるのに時間は掛からなかった。
 最後の部屋を開け放した幸村は、がらんどうの室内を見つめながら力なく崩れ落ちる。見かねた佐助が支えようと伸ばした手が届く前に、山の空気を引き裂く慟哭が響き渡った。

「いない、いない――っ俺は遅かったというのかっ! 手遅れだったというのか!!」
「旦那!?」

 拳を何度も何度も床に叩き付け、幸村は咽び泣いた。
 自分を拒絶することなく穏やかに迎え入れてくれたはずの儚い笑顔は、もう此処にはいない。
 元就がいつもいたこの部屋にさえ、何の気配も残されていなかった。
 思い出だけが詰まっていてもそれは未来を作るものではない。彼がいなければ――約束も、代え難き真実も、全てが意味を成さないのだ。

「貴方がいなければ、貴方さえいてくれれば、俺はもう他に何も要らなかったのに!」

 失くした者達の代わりに手に入れた小さなの灯火。
 けれどそれが戻ってきた今、代償となるのはようやく繋げたあの柔らかな掌の方だというのだろうか。
 人間の手は二つあるというのに――たった一つしか、掴むことは許されないか。

「俺はただ、貴方の傍にいたかっただけなのに……」

 現実は何処までいっても、残酷で。
 こんなちっぽけな願いさえも叶えてはくれないのだと、嗚咽を絞らせて苦しみ喘ぎながら幸村は今度こそ世界を呪いたくなった。



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(2009/06/24)



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