06 猛る焔は星を追えず
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「何故おめぇが豊臣についている! 信玄公は――」
「これは某の独断。武田は関係ござらぬ。そこを退いて下され家康殿」
豊臣の殿が幸村だと伝令から聞いてきたのだろう、血相を変えた家康が本隊から前線へ出てきた。しばらくぶりに合間見えた懐かしき武将に幸村は小さく笑んだが、すぐさま目元を細めて槍を構える。
獲物を捉えた獣のようなその鋭利な気配が背筋を震わせ、自ずと家康の拳がきつく握られた。
武田は上杉や伊達の介入により瓦解を防いだが、壊滅状態の武田軍が織田の追撃から辛くも逃げ出せたのは徳川の手引きがあったからに他ならない。
長篠の戦いの際、織田軍に徳川も参じていた。
故に武勇名高き武田騎馬軍が、三段構えの計の前で次々と倒れ伏していく地獄絵図を間近で見てきた。かつて自分達を敗北寸前まで追い詰めた武田が、呆気ないほど崩れていく様に家康は喜びよりも恐怖を感じていた。
初めて戦ってからずっと、いつか信玄を越えるのが家康の密かな目標だった。長い間、人質として各地を点々としながらひたすら耐える生活をしてきたからこそ、雄々しく猛々しい信玄に父性を求めるにも似た憧れを抱いたのかもしれない。
そうやって誰にも言わずに決意していた目標を、目の前で奪われるなんて不甲斐無いにも程があろう。いくら怖れるべき信長が相手でも、家康とて戦乱に生まれた男だ。自らが決めたことをこうも簡単に奪われてなるものかと、総攻撃が始まる前に密かに人を動かしたのだ。
床に臥せている信玄から叱咤激励をされたからこそ、此度の進軍は腹を括った。
そんな折に彼から託されたのは、天下泰平だけではなく長篠の戦い以降に行方不明となっている愛弟子についてだった。
武田を滅ぼした織田には付かないだろう。けれど戦を全て捨てられるような子ではないから、戦場で巡り会うかもしれない。故に竹千代よ、あれと出会ったのならばどうか――。
満身創痍の体躯を動かすことも叶わずに枯れた声でただ乞うことしかできない手負いの虎へ、必ず連れて戻ろうと家康は約束をしていた。
「待て話を聞けっ!」
「問答無用! 時間がありませぬ。退いて下さらぬのならば、薙ぐまで!」
どうにか幸村を説得しようと言葉を重ねるが、荒い呼吸を繰り返しながらも彼は攻撃の意思を消そうとはしなかった。焦燥に駆られた貌は血が足りずに既に蒼白だが、闘志を滾らせる眼は逸らされることなく家康を睨み付けてくる。
虎和子の異名を持つ幸村のことを家康は何度か戦場で見かけていた。戦を捨てられないという信玄の言葉が的を射るように、彼の天賦とも呼べる才には微かな羨望を抱いていたのも確かだ。
何より興味を奪われたのは、長篠の戦いの最中だろう。
屍の群れの中でたった一人だけ立ち上がり、嘶いた赤い虎の咆哮。あの胸底が痺れるような名乗りの声には、傍らで静かに眠っていた相棒が勝手に起動するほど心を揺さぶるものがあったのだ。
聞き及んでいた真田幸村という男をもっと知りたくもあり、だからこそ信玄の要求を呑んだ。
あの時聞いた遠吠えと同じものをこの場で聞き、再び感嘆が込み上げたのは確かだった。
しかし同様に、豊臣軍を追わねば家康は親友である元親との一斉蜂起を棒に振ることとなる。徳川との挟撃が完成しなければ、西国は無意味な戦火に沈む羽目になるだろう。
家康の天下泰平を信じてくれた友のためにも、それだけはあってはならない。
躊躇を見せて佇む家康へ、幸村は戸惑うことなく刃を向けた。
前へ進むしか道がない彼にとってそれを遮る者は今、全て敵だ。最後に幸村へ殿に立つよう命じた半兵衛の意図は承知している。徳川の壁として使いながら幸村を処分しようという目論みが叶えば、残された元就は二度と彼の檻から出られぬまま幸村にくれたあの微笑みすら枯らしてしまうだろう。
忘れたくないからと云った言葉のまま自分を思い出にして、心を殺して再び人形へと戻る光景が過ぎり、どす黒い感情が轟いた。
噴き出した殺気に思わず柄を握り手に力が篭ったが、殺したい相手は家康ではないと深く息を吸い込んで自分を落ち着かせる。
幸村との接触が生み出した影響の前例から、きっと半兵衛は生温い軟禁を止めて自分の城へと元就を連れて行くかもしれない。それなれば幸村とて簡単に手出しはできない。
急がねば半兵衛に先手を打たれかねないだろう。
現実味を帯びていく焦りに圧迫されて、家康の話を聞く余裕すら徐々に失っていく。
早く、早く。
――早くあの人の元へ帰らせて。
死が恐ろしいのは彼の人と出会えなくなるからこそ。
別つその手を再び取り戻すべくして此処にいる。そのために守りたい場所を失うなど耐えられるはずも無い。
間に合えと、雨の中でも消えない自身の焔に祈るよう願いを込め続けた。
冴えていく連撃を辛うじて受け流しながら、家康は防戦一方となる。対峙する際に周りへと手出し無用と命じてあるが、同行していた家臣達は悲痛な面持ちで主君の奮闘を見つめている。気付けば徳川全軍が歩みを止め、陣のほぼ中央にて行なわれている二人の一騎打ちを、固唾を呑んで見守っていた。
このままでは行軍が遅れる。
家康は構えながら、和らいできた雨足に気付いた。間に合えと、殿の存在を聞いた直後に飛び去った相棒へ無心に祈る。
はたして、誰の祈りが届いたのだろう。
突如として二人の間に雷の矢が一つ降り注ぎ、その瞬間爆音が響き渡った。
途端に巻き起こった風圧に両者は吹き飛ばされ、薄れていた雨雲も振り払われて星明りが差し込む。驚きの喚声が辺りから上がり、空から現れた機影を見るなり徳川軍が喝采を上げた。
部下達に支えられて立ち上がった家康は、その悠然たる姿に笑みを零した。
「忠勝、間に合ったか!」
泥濘に膝を付いていた幸村は愕然とした。
開戦してからずっと見かけていなかった戦国最強の姿は気に掛かっていた。だが必ず起動しているわけではないことを知っていたからこそ、彼が出てくる前にここを突っ切ってしまうつもりだったのだが遅かったようだ。
幸村は絶望的な気持ちに襲われたが、どうにか奮い立たせて槍を付きたて再び立ち上がった。節々が痛み、雨と銃弾で削られた体力は最早風前の灯である。
だが意識は、霞まずに寧ろ研ぎ澄まされてきた。
諦めることはできない。
たとえ相手が本田忠勝であろうとも、決して約束を違えることはできない。
自分の真実を何処までも貫き通すと決めたのだから――。
「源二郎っ!!」
徳川の守り神を睨み付けていたその瞳が、初めて狼狽の色を見せた。
瞠られた虹彩の中に映り込んだのは、同じ容姿を持つ青年。真田幸村と瓜二つの顔をした男が、忠勝の手に守られながら名を叫んでいる。背負う紅の槍は、今まさにこの手で握っている物と銘柄を抱く対となる物に違いない。
「源二郎、もういいんだ。一人で戦わなくてもいいんだよ」
――嗚呼、まさか。
呆然と佇んだままだった幸村の手から、武器がするりと落ちていく。失くさぬようにと固く繋いでいたはずの拳が初めて緩まった。
次の瞬間、彼は走り出した。
すぐ目の前まで轟音を鳴らし近付いてきた忠勝を待つことも我慢できず、幸村はひたすら手を伸ばして守りたかった人の名を枯れた声音で幾度も呼ぶ。
これは幻だろうか。
生きていた。この人も、生きていてくれたのだ――。
「兄上ぇぇ!!」
走り寄ってきた幸村の前で忠勝は止まり、ゆっくりとともすれば優しい手付きで掌の人物をそっと降ろした。それを待つのさえもどかしく、幸村は両腕を広げて自分と同じ背丈の兄を思い切り抱き締めた。
涙が止まらない弟の背をあやすように撫でながら、真田信幸もまた顔を歪ませて静かに泣いた。地獄から再会できたという現実を噛み締めるよう、二人はただただ言葉もなく互いの名を呼び続けた。
この気持ちを何と表現すればいいのだろうか。全身の細胞が歓喜に打ち震える中、何故だろうか、哀しい気持ちが湧き上っては沈んでいく。
兄の身体を抱き締めながらも、脳裏に過ぎったのは一人ぼっちで佇む元就の背中だった。
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(2009/06/24)
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