06 猛る焔は星を追えず
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いつからか、幸村の頬に激しい雨が叩き付けるよう降り注いでいた。
水煙と暗闇に乗じて豊臣軍の退却は巧くいっているはずだが、同時に雨は退却の足を遅くする。銃器や大筒を多く保持していたから、通常よりも時間が掛かっているだろうと予測が付く。
武田の騎馬隊に所属していた頃は、泥濘に馬の足を取られて思うように統率が取れなかった。長篠では雨さえ降れば鉄砲隊の効率を低下させられ、あのような大敗はなかったかもしれない。
ましてや豊臣軍は大きくなり過ぎた。各地で搾取してきた混成部隊が多いため、どれほど訓練を積もうとも非常時では足並みを揃えるのが難しい。勢いづく攻め時より撤退の方が士気は下がり戸惑うものだから、夜の雨の中では思うよりも下がれていないのかもしれない。
逆に大軍ではあるが徳川軍の統率は見事だろう。武人としての目で眺めながら嘆息を吐き出す。
これもひとえに主君の徳川家康を信じているからだろう。
仕えるべき主へと直向きになれていたのも最早過去のこととなりつつある幸村にとって、湧き上ったのは羨望か憧憬か。
けれど佐助に言った。
必ず馳せ参ずと、許されるのであれば再び信玄の前へと拝謁すると誓ったのだ。
主君への想いは目の前の彼らにも引けを取らない。この胸にはまだ消えない焔があるのだから。奈落の底でさえ絶やさずにいられた、あの人と温めあった灯火が残っているのだから――。
「三河武士が臆するか。かかって来ぬのならば早々に道を開けぃ!」
立ち向かってくる兵士達を槍一つで次々と打ち破り、幸村は白い鉢巻を翻して戦場を駆け抜けていく。
猛りの怒号を纏いながらも突き進む姿は闇色に染められ、時折舞い散る鮮血は濡れた大地へと広がる前に燃え上がる炎の紅蓮へと飲み込まれる。
薙いでは払い、立ち塞がる敵を容赦なく屠る姿は気高き獣の如く。
誰一人味方のいない戦場で孤高奮闘する男の勇姿に、指揮する武将達も畏怖を感じずにはいられない。
矢を射掛けろと命じても槍一つで防がれ、その隙に空いた背中を狙っても幸村は怯むことなく腰の鞘から抜刀して攻撃を止める。相手が僅かに怯めば、そのまま刃を引き抜いた勢いで敵に肘鉄を食らわせて間合いを測り、間髪入れず刀を振るった。
矢が途切れた瞬間を見計らい、幸村は槍を泥濘へと付き立て支柱にして高く跳ぶ。慌てふためいた歩兵達が槍を空へと突き出すが、一寸早く幸村は守られていた弓兵隊の中央へと着地した。懐に入ってしまえば矢は使えない。悲鳴を上げながら腰の獲物で戦おうとする兵士達の具足の関節部分を狙って倒しながら、拳と刀で殴り付け幸村は進み続けた。
己が魂の火を灯さぬようにと必死で吼え続けるのは、その反面恐怖を拭おうという一種の自己暗示でもある。
頭の片隅に酷く冷静な部分が残っていて、この数を相手に自分は果たして生き残れるのかと、嘆き混じりで何度も問い詰めてくる。それを振り払いたくて、白の布が視界の隅に翻るたびに怯える心を鎮めようと努めた。
退路は何処にも無い。逃げるにしても前に進まなければならない。そうするにはこの大軍が作り出す厚い壁を抜けるため、立ち向かわなければいけないのだ。
――死にたくない。あの人に会いたい。
他人の血で染まった身体で、幸村は鋭い眼差しのまま奥歯を噛み締める。重苦しい曇天の彼方を見やる彼の横顔は、容赦なく敵兵を薙ぎ倒しながらも泣き出しそうに歪んだ。
たとえ自分がどれほど血に塗れても構わない。世界中が氷雨の如き怨嗟を自分へと叫ぼうが、もう怖くなんてない。
弱くて惨めで愚かな、この真田幸村を覚えていたいと泣き笑いを耐える必死な表情で縋りついた手を知ったから。忘れて捨て去ることなんて永遠にできないだろうと自覚してしまったから。
生きていたいのは、己が望み。
されども託された願いのための惰性ではなく、たった一人の男へ向けられた愛慕の念だけが歪んだこの世界に自分を繋ぎ止めているからこそ。
優しかったあの手をもう一度掴むため、生きていきたいのだ――。
「ぐっ……このようなもので倒れるわけにはいかぬっ!」
意識が幾許か戦場から離れた刹那、あの忌々しい種子島の音色が雨音に遮られながら断片的に届いた。途端に撃たれた部分が熱を膿み、脳天につんざくような痛みが駆け抜ける。
火薬が湿気るのを危惧しているのか連射はされなかったが、肩と脇腹に鉛玉がめり込んだままじくじくと痛覚を刺激してくる。貫通していた方がましだ、とかつての戦いを思い起こし幸村は自嘲した。
時代の移り変わりをこの目で見届けろと、師は言った。幸村が見てきた現実は、鉄砲が騎馬を射殺し、大筒に潰され――そうして次々に人は人を殺すことの痛みを忘れて、果てには外の国までもを巻き込んで延々と続こうとする争いの気配だった。
少なくとも豊臣の世が来れば、それは近い未来の姿だろう。夢見てきた泰平は遠のくばかりだ。
だがその道を選ぶのもまた人の夢だった。
自分の信じたものを信じきることでしか足掻けない現世だからこそ、秀吉は戦いの道を選んだ。泰平を望むがためにあえて修羅の道を。
それは元就を守るべくして武器を取る道を選んだ幸村にとって、独善的だと罵ることなんてできない。
人の世に流れていく運命の轍に抗うために誰だって無様に足掻かねばいけないのだと、幸村は常世の側で幸福を享受したからこそ知り得た。
その傍らに付き纏う絶望も、痛いほどに感じる。
――半兵衛は、どうしても拭えなかったその絶望の闇を元就で埋めたかったのだろう。
彼のやり方には賛同できないが、けれど抱いている寂しさがどのようなものなのかきっと自分は知っている。一人ぼっちで歩くには、この争い奪い合うことを繰り返す世界はどうしようもなく心細いのだ。
めり込んだ銃弾のため弛む握力をどうにか保たせ、幸村は駆け出していく。
戦は自分の魂をどうしようもなく魅了する。その事実を否定しようとは思わない。今だって恐れながらも本能の昂ぶりは抑えられない。
だがそれ以上に大事な存在があった。
醜く汚れた檻に囚われていようとも、側にありたいと願った最愛の人がいる。
幸村が戦っているのは時代の波に呑まれたからでも、死の恐怖から抗うためでもない。
ただ元就と生きていたい、たったのそれだけだった。
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(2009/06/15)
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