06 猛る焔は星を追えず


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 気まずい空気を払拭させるように、元親は戸惑ったまま動けない元就の背を押してやった。
 その一歩が両者の止まっていた時を氷解させた。
 出迎えに出ていた毛利の者達は一様に床へと頭を深く下げ、帰還の喜びと謝罪を織り交ぜながら元就の名を呼ぶ。謁見の間の両端に揃っていた家臣達の並び方は皮肉にもあの日の悪夢と同じであり、元就は一瞬だけ身体を強張らせる。
 微かな恐怖に怯えた背中を元親だけが静かに見つめていたが、他の誰にも気付かれること無く元就は自分の感情を巧妙に隠した。
 視線だけを左右に動かし、一層青い顔をしていた元春と隆景を見つけ出す。泣き出しそうに歪んでいる彼らの健在な姿に、元就は自然と安堵の息を漏らした。

 そうして少しだけ緊張が弛み、余裕ができた元就は一番奥の上座に座っている小さな子供へと顔を向ける。
 最後に会った時よりも随分大きくなっている。あどけない顔の中に幼い頃の隆元の面影を見出して、悔恨が浮かぶが振り払うように元就は名を呼んだ。

「幸鶴丸、近う。よう毛利を守ってくれた」
「あ……うう、うわあぁぁぁん!」

 ぽかんと元就を見つめていた子供はじわじわと大粒の涙を流し、堰切ったように泣き出して祖父の腕の中へと飛び込んだ。
 感じてしまう既視感に胸が軋んだが、今は見ないふりをする。
 自分と似た髪を柔らかく撫でてやりながら、元就は顔を上げてその場にいる家臣全てへと言葉を投げ掛けた。

「そなたらも面を上げよ。豊臣の冷遇の中、よくぞ耐えた。各々思うことがあろうが、反旗を翻すならば相応の覚悟があるのだろう。再び駒となることを恐れぬのならば今一度我が采配について参れ!」

 久方ぶりに声を張らせると、昔の感覚が蘇ってくるようだった。
 かけられるはずもない労いの言葉に驚き目を瞠った彼らは、元就へと慌てて顔を上げたが、そこにある嘗ての主君の双眸に憎しみも軽蔑も見て取れずはっとして一斉に頭を下げた。

「御意っ!!」

 裏切り、敵に売り渡しながらも命乞いをするなど、元就の全てを奪い去ったのは自分達であるのに。
 元就の目は、ただ凪いでいた。奥底で光る鷲の眼光は変わらないまま、深い決意を灯している。あれは戦いへと赴く時の強い決意の表れだ。
 元就は罵倒もしないまま、再び毛利のために戦場へ立とうとしている。
 苦しいくらいに悔恨が一同の内側に溢れ出たが、口にすることはできなかった。許して欲しいなんて思うことすらおこがましいのは皆それぞれ知っている。全員が全員、この罪を背負わねばならないのだと元就を切り離す決断をした時から覚悟はできていた。
 だから元就が何も言わないのであれば、自分達も口を噤もう。
 帰ってきてくれた主君への恩は、戦場での策にて返す。それが毛利のやり方なのだから。


「あんたが何を言い出すか冷や冷やしちまったぜ」

 軽くこれからの方針を決めた後、元就と元親は船旅の疲れを休めるべく先に辞した。始終元就の側についていた幸鶴丸は気負いが薄れたからか、目元を腫らしていつの間にか眠ってしまっていた。
 元就は女中を呼びつけて孫を預けると、元親を連れ立って嘗ての自室へと足を向ける。

「貴様が心配する事か?」
「そりゃあ間を取り持つ者としては。……あんた、優しくなったな」

 廊下を軽口交じりで話しながら、ふと元親は真剣な目で元就の小さな背を見下ろした。
 臣達にあれほど覇気ある号令をかけてくれるなど想像もしていなかった。無論和解できたら良いと元親は思っていたのだが、寺や船上での様子からして毛利に戻っても精彩に欠けるであろうと予想していた。
 常よりも重い口調に振り返った元就だったが、相手の浮かべている表情が可笑しくて口の端を少しだけつり上げる。思わぬ笑みにどきりとして元親は内心慌てた。
 こんな風にも笑えるのだと初めて知った。
 穏やかなそれが少しばかり切なげにも思えるのは、彼と再会してから覚えた引っ掛かりのせいだろうか。

 欠かさず掃除をされていたのか元就の執務室は埃一つ落ちていなかった。荷物は片付けられているらしく、妙にがらんとしている。調度品も置かれていない。
 一瞬立ち止まった部屋の主は、何事もなかったように腰を下ろした。
 辛くは無いだろうかと横顔を窺うものの。涼しげな面差しは動かない。毛利が二度とこの部屋に主は帰らぬとしていた証拠を突き付けられたも同然であるのに、凛とした眼差しは澱むことなくじっと向こう側に広がる庭を見つめていた。
 元親の方が気まずさを感じ、うろうろと視線を彷徨わせる。
 辛うじて掛け軸の飾られた床の間が目に入り、辿っていけばそこに古ぼけた琵琶が丁寧に置かれていることに気付いた。広間へ行く前に元就が勝一に預けていたから、そのまま運ばせたのだろう。

「長曾我部」
「っああ悪い、何だ?」

 何となしに床の間を見つめていたが、唐突に話しかけられて振り返る。
 庭から目を放した元就は懐から畳まれている紙片を取り出し、床へと広げていた。文机があれば良かったのだ、が生憎ここには何も無い。
 一回、二回と開かれていく物の正体に元親は目を丸くする。
 それは大阪を中心とした地形図だった。
 呆気に取られている元親を尻目に、元就は書き込まれている数字を指差しながら説明を始めた。
 現在大阪に残っている兵力、それから織田討伐に組まれている兵力や武将、付近の豊臣派である大名の勢力など、戦に必要であろう情報がびっしりと書き付けられている。指先で動きをなぞりながら、何度か確認を促されたが元親は絶句したままこくこくと頷くばかりであった。
 いつの間に調べたのか謎だ。自分とずっと一緒だったはずなのに、世間から隔離されていたはずの元就が知るわけのない情報が目の前に羅列されているのは事実である。
 毛利との戦いは刀を交える前から既に始まると聞くが、単なる過大評価ではないらしい。本格的に敵対していたらと思うとぞっとする。

「毛利は弱体化しておる。長曾我部と組んでもこの数相手には難儀であるが、貴様にも策はあるか一応訊いておいてやろう」

 戦の定石として、やはり数が多い方が勝つものである。織田を破ってしまえば豊臣に敵はないと言われるほど、戦力は向こうが圧倒的である。正攻法では敗北が目に見えていた。
 元親が自分の協力を仰いだという時点で大した策は無いのだろうと感じてはいたが、毛利を呼び込んだのは長曾我部だ。当主たる元親に意見を聞かないわけにもいかないだろう。
 それに元就はこうして戦力を把握してはいても、誰が誰と敵対して同盟を組んでいるのかまでは流石にまだ調べが付いていない。
 船であちこち出かけている元親には意外と知り合いが多い。故に調べられる範囲外にも、こちら側と利害が一致している者もいるかもしれないと考えた。
 意図を汲み取った元親は太い指先を地形図へ下ろした。
 ――長篠。
 地名を見た元就が背筋を強張らせたが、下を向いている元親は気付かなかった。

「徳川が東国の武士達を先導しながら、もうこの辺りまで進軍している。織田の同盟という名目で豊臣を追ってはいるが援軍のためじゃねえ」
「……天下か」

 無論、と元親は深く頷いた。
 東国はまだ豊臣の影響力が浸透していないため、兵力を搾取されていない国が多い。だが代わりに織田の支配下となっている土地も少なくはなかった。特に英傑たる武田軍が敗れたことが一番の起因だとも言われており、下手に身動きできないのだ。
 そうして耐え忍んできた東国の最たる者が、徳川だった。
 元親は家康と私的な親交を深めてきたが、あくまで水面下の話である。国同士の繋がりは皆無といって良いほどであったから今回は返って巧を成したのだろう。戦に掛かり切りである豊臣はまだ長曾我部と徳川の関係に気付いていない。

「竹中の野朗は薄々と気付いているだろうが、魔王と睨み合いが続いていたからな。四国にも三河にも兵を割けなかったのが仇になった」
「だが徳川と挟撃したとして五分。毛利を動かすにはまだ足らぬ」

 元就は負けるわけにはいかなかった。
 敗走すれば今度こそ、毛利は跡形もなく滅亡するだろう。理由はどうあれこれは謀反だ。豊臣の世を絶対とするべくして、一族全て粛清される運命である。
 しかし今の元就にとって、最も掛け替えの無いものは毛利ではない。
 半兵衛が己の不在に気付く前に戦を仕掛けねば、自分はきっと今度こそ世界を呪うだろう。散り際を待つばかりである男の身と引き換えにしてまで、大切な光を失うなど耐え切れるはずが無い。
 今更己が怨嗟に晒されようが望むところだ。
 けれど刻限がやってくる前に、何としてでも焔を縛る鎖だけでも切り離さなければならない。
 偽りを重ねてきた元就にとってこれだけは必ず、半兵衛と刺し違えてでも叶えなければいけないという意固地な誓いがあった。
 豊臣が負けるとは端から考えていない。
 もしも、という最悪の夢は何度だって思い浮かべてきた。約束を紡ぐのは簡単であっても、戦乱の世は容易に呆気なく守りたい命を奪っていくのもこの身を持って十分過ぎるほど見てきた。
 だが不思議なくらい、幸村は帰ってくるだろうと確信があった。
 無様な想いを抱えながら契り、それを糧として沈もうとしていた元就をもう一度引き上げたのは幸村が見せてくれたささやかな明日。他人にとっては下らない幻想だろうが、交わしたものが戯言であれども、必ず叶える為に愚直なあの男は地を這ってでも戻ってくる。
 それが、元就の知っている真田幸村というこの世にたった一人しかいない男だ。
 彼が求めてくれる先に、もう自分は戻れないかもしれない。たとえそれで永遠の別れになろうとも、元就は構わなかった。幸村が生きている限り、自分の世界の灯火は消えないのだから。
 勝率を見極めようとする元就の眼差しは真剣そのもので、戦に対して並々ならぬ覚悟を抱いているのは元親にも感じられていた。故に彼は、その言葉を待っていたかに口角を上げる。

「家康だって確実性がないのに同盟を揺るがすような不穏な行動は取れねえよ。あいつの決意を促したのは俺じゃない、甲斐の虎だ」

 長篠を指差された時よりも、明確に元就の双眸が揺れた。
 真正面から覗き見ていた元親は相手に浮かんだ驚愕の色に、逆に目を瞠る。まさかそんな表情をされるとは思ってもみなかったのだ。
 元就は床についていた拳を深く握り締めながら、刹那的に駆け巡った衝撃をどうにかやり過ごす。震えなかったことが奇跡だ。

「……武田は、生き残ったのか」
「ほぼ瓦解しちまっているには変わらねえが、上杉と伊達の介入があったらしい。戦場へ名乗りを上げられる状態じゃないがな」

 虚ろな声音で問いかけられた元親は怪訝そうに眉を顰めながら、混乱の中でどうにか得ることのできた情報を口にした。
 武田はもう国を取り戻せるほどの力が残されていない。けれど主君は重体ではあるが命を取り止めている。長篠の戦いで武将達が懸命に守ったからだろう。その殆どが討死し、混戦の中で行方が分からなくなった。
 もう信玄に付き従っている家臣達は半数にも満たない。それでも諸侯への影響力はいまだ大きく、敵ながらも信玄を尊敬して目標としていた家康とて同じである。
 だがそんなことは元就にとって、大きな意味を持たない。
 重要なのは、“真田幸村”の居場所が今も確かに生きているということ。
 ならば幸村は――。

「……ふっ、はは、あははは!」
「おい毛利、一体どうしたっていうんだよ」

 唐突に笑い声を上げた男はまるで気が触れたかのようだ。元親は慌てたように肩を揺さぶるものの、元就の眼は虚空を見上げたまま誰も映さなかった。
 奇妙なほどの虚脱感を感じながら微笑んだ元就は、尾を引いていた切なさを振り切るように頭を振って頷いた。

「面白い、長曾我部。今の我は劣勢とて負ける気はせぬぞ」

 何処か釈然としないまま元親も同じように頷きを返す。形にならない胸騒ぎが過ぎったが、正体を掴めぬまま笑う元就を眺めていることしかできない。

 寄せられる視線など知覚すらしないまま、ただ元就は唇を歪める。
 ――虎の子を野に帰そう。
 最早どの道我が手で彼のくれた約束は破られた。ならば帰るべき行き先は自分の側ではなく、きっと幸村を長年培ってきた優しい居場所のはずだ。
 今まで漠然としていた闇路に明光が指し示されたも同然に、元就は自身の戦いの標をようやく見つけたような晴れやかな気持ちになった。
 明確な役目が見えてしまえば怖いものなど何もない。あとは唯ひたすら戦うのみだ。
 笑いながらも一抹の寂しさが隙間風のように吹き込んだ気がしたが、元就は見ないふりをした。そうすることしか、できなかった。



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(2009/06/09)



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